第29話 エピローグ ~君がいるから、戦える~


 真白の天井を、ぼんやりと見つめる。

 ここ三日間ばかり、陵弥の一日の殆どは、もっぱらその行為に費やされていた。

 焦点をどこに合わせるともなく、病院のベッドを起こして見える正面の壁を見つめ続ける。

 意識は常に別の場所にトリップし、頭の中には、一人の人物の顔しか見えない。

 はぁーと重たいため息と共に、陵弥はうっとりと呟いた。

「伊吹、来ないかなぁ」

「……五十七回目」

 ジョリッ! と、ナイフが激しくリンゴの表面を削る。

 ミリアが唸るように言って、心ここにあらずの陵弥を刺すように睨みつけた。

「アンタ、よっぽどアタシじゃ不満みたいねぇ……!」

「……え、何が?」

「アタシの隣であの女の名前を呼んだ回数! 五十七回よ! 単純計算で十分に一回はボケてんのよこの痴呆!」

 堪えていたイライラを爆発させて、ミリアはベッドに伏せて絶対安静状態の陵弥を指さす。

 このやりとりが三回目というのも、きっと覚えていないに違いない。

 平穏を取り戻してからというものの、陵弥は十は老けたかのようにとぼけきっていた。

「んなこと言ったって、会いたいんだから仕方ないだろ? 呟いて減るもんでもないし」

「アタシの我慢の限界がチリチリと近づいてんのよ! お互い絶対安静でそう会えるもんじゃないの! 頭で理解しろ愚図!」

 絶対安静。

 長い間禍を体内に抱えていた伊吹は当然として……陵弥もまた、絶対安静の状態だった。

 体のあちこちには包帯が巻かれ、今もベッドから降りるのがやっとの生活が続いている。

 過度なブーストをかけた反動と、睦美から説明を受けている。陵弥の魂を体の治癒に強引に消費させた、そのしわ寄せが来ているのだという。

 筋肉痛に似たような症状が全身を襲っていて、体が上手く動かせないのだそうだ。

 しかし実際は酷い疲労とそう違いはなく、そろそろ自由に動かせるようになるだろうという見解だ。

「で! それまでの介護役と勝手に称されてアタシが駆り出されてる訳なんだけど! それが意味わかんないわ! 何でアタシなわけ!?」

「そりゃ、あの霊障で少なくない被害が出て、病院内全体が人手不足だからだろう? 霊的被害も出てるから、洸もてんてこ舞いみたいだぞ」

「知ってますーー! それでも納得できないの! なんでアタシがアンタなんかの世話に手を焼かなきゃいけないのよ!」

「俺、お前から志願してきたって聞いたんだけど?」

「ばっ! そ、それはそのっ、手伝って欲しいって言われても、アタシに医療知識なんてないし、どうせならアンタがいいって言っただけ――笑うなバカァーー!!」

「ちょ、おい! 果物ナイフ持ったまま暴れんなよ!?」

「うっさーーい! お世話してあげてるからって生意気なのよ!」

 真っ赤になりながらナイフを振り回し、一悶着。

 ミリアは未だ唇を尖らせながら、ベッド脇の椅子にどっかりと腰を下ろす。

「全く……あれからすぐにぶっ倒れたアンタを病院にかつぎ込んで、町に散らばった小蜘蛛の駆除をして、その上でアンタに手厚くお世話までしてあげてるって言うのに……後処理全部押しつけた当のアンタは別の女にゾッコンなんてさ。面白味もへったくれもありゃしないわ」

「あー……その節は、本当にどうも」

「今更言ったって遅すぎ。トゥゥゥゥレイトよバァーーカ」

 シャリシャリと淀みのない手つきで小さな果物ナイフを操り、リンゴの皮を剥いていく。速度はかなり早く、皮は途中で途切れることなく繋がっている。

 ピリピリと棘のある心境を落ち着けるように、リンゴの皮を丁寧に剥いていく。

 ……百歩譲って、アタシがお世話役になるのは分かる。

 優秀なアタシと違って、陵弥は力も精神も危うげだし、この戦いの渦中にいたのだ。怪我もするし、疲労も酷かった。

 実際、自らの魂を削ってまで勝利を勝ち取ったのは、他でもない彼だ。ミリアとて、労いたい気持ちは抱いている。

「……」

「な、何だよ? 刃物持ったまま睨むなよ」

「……背骨ごとへし折れろ、朴念仁の唐変木」

「危険なこと言うなよ看護役!?」

 驚く陵弥に一別もくれず、ミリアは頬を膨らませて、リンゴを剥くペースを上げる。

 ……労ってやるとも。

 彼の頑張りを考えれば、そのぐらいはしてあげたいと思う。

 思うけれども!

(でもさでもさ! それでもさ! 他でもないアタシ様が甲斐甲斐しく奉公してやってんのよ!? こんな超絶美人を侍らせておいて、当の本人は何で他の女のことばっか考えてるのよ!?)

 そう、それが何よりも面白くない。

 土峰伊吹が大切な人だというのは、痛いほど知っている。

 彼女を救うことが、万事上手くいったのだ。諸手を上げて喜ぶことだろうし、一秒でも長く会いたい気持ちは分かる。

 でも……今隣にいるのは、アタシではないか。

 アタシだって、二年の歳月を共にし、共に戦った仲じゃないか。

 他でもないアンタの為に、アタシも頑張ったっていうのに。

 それなのに、伊吹を取り戻した途端、まるでないがしろにされているような……

「……あ。そういえば、ミリア」

「なによ」

「十分おきに一回で五十七回って……お前、九時間以上ここにいるのか? 面倒くさがりのお前にしては、意外としっかり看てくれてんぐぅ!?」

「そういう洞察力いらないのよバァーーカ! リンゴ剥いたから食え!」

手に持っていたリンゴを、弾丸のように陵弥の口にねじ込む。

 ちゃんと小さく切り分けていたので、激しいのは衝撃だけで、軽やかな触感と甘いおいしさが広がっていく。

「……包丁さばき、巧いのな」

「フン、思い出したように褒めたって嬉しかないわよ。それにこれは女の嗜みよ。アンタの為に覚えた訳じゃないんだからね」

「ツンデレ?」

「純然たる事実を述べただけよこのノロマとんまアーーンド平和ボケ! 溲瓶に脳味噌全部まき散らして死ね! トイレに捨てて水葬してやる!」

「グロい!?」

 イライラばかりを募らせていると、こんな暴言ばかりが浮かんで、会話もろくにできやしない。

 切り分けたリンゴの一つを口に放り込んで、甘い味を噛みしめる。

 猫のような尖り気味の目を横に向けると、陵弥は体を深くベッドに沈め、大きな呼吸を繰り返している。

 端から見ても、大きな充足感に酔いしれているのがありありと伝わる。

「……伊吹、早く会いたいなぁ」

 五十八回目。

 分かってる。大切な人であることぐらい。求めてやまない平和であったことぐらい。

 きっと彼は、今この瞬間が、最高に幸せな時間なのだろう。

 でも……。

 満足げに目を細める彼を見てると、ミリアは胸がきゅっと締め付けられる感じがする。

 こんなだらしのない彼は、見ていたくない。

(……禍の襲来がなくなったからって、なに平和ボケしてんのよ)

 土峰伊吹ばかりを想って。彼女の顔ばかり思い出して。

 ……本当に、アンタのスッカラカンな脳内は、それだけだったの?

 この二年間、アンタは……アタシのライバルでもあったんでしょう?

 アタシに向けていた敵意は。あの身が焦げ付くような向上心は、どこに消えちゃったの?

 アンタの目標は、ここで終わり?

 ここでドロップアウトして、土峰伊吹と仲良く平穏に暮らして。

 ……アタシのことなんて、綺麗さっぱりと忘れちゃうんだ?

(……言える訳ない。他人の人生を強要するなんて、何様って話でしょ)

 そう、結局赤の他人ではないか。

 たまたま力を持って、タスク3の学徒に所属し、目標が一致していただけ。

 こんなこと、考える方がおこがましいのだ。

(コイツは終わった。アタシはまだ続く。それだけよ)

 自分に言い聞かせるように呟いて、ミリアはフォークを手に、リンゴの一つを刺した。

 そのまま、刺したフォークを陵弥に差し出す。

「ん」

「ん?」

「ん? じゃなくて。食べさせてやるって言ってんのよ」

「……お前、急にどうした? 何か悪いもんでも食べて」

「え、なに? 目で食べてみたい? もーしょうがないわね!」

「いただきますごめんなさい!」

 慌てた陵弥が、自ら進んでリンゴを口に入れる。

「うん、うまいよ。ありがとう」

「どーも」

「……なんか、無愛想になった?」

「気のせいじゃない? いつもこんなもんでしょ」

「確かに。そういえば無愛想なのはいつも通――病院で雷撃は止めようミリアさん! 精密機械とか一杯あるから!」

「アンタあんま調子に乗ってるとマジでぶっ飛ばすからね!?」

「ちょ、最近沸点低くないか!? こんなやりとりいつも通りじゃん、一体どうしたんだよ!?」

「うっさーーい! アタシの心の平穏のためにも黙れ! そこに直れ、言語野だけ正確に焼き切って知能レベルをボノボ並に引き下げてやる!」

「ボノボ!? ちょ、ナースコール! ナースさーーん! 患者の命の危機が! 見舞いに来た暴漢に奪われようとしています!」

 ミリアがパァァァと輝きを上げ、陵弥が必死にくい止める。

 白塗りのドアが小気味よくノックされたのは、そんな悶着の最中だった。

 横開きのドアを勢いよく開き、その人物は愛嬌のある声を張り上げた。

「呼ばれて出てきたよボクが! かわいいかわいい陵くん専門のナースちゃんが来たよ陵くぅーーーーん!」

「ひか――るぅ!?」

 陵弥が名前を言うよりも早く、光が飛びつき、陵弥の土手っ腹に痛烈な頭突きをぶちかました。

 悶絶する陵弥を余所に、光は陵弥の腰に手を回しガッチリとホールドして、押しつけた自分の顔を陵弥の腹にすり付ける。

「くんくんっ、すりすりはすはすはふぅ……ああ、疲れた体に陵くんスメルが染み入るぅ……久しぶりだから尚更たまんないよぉはっすぅぅぅぅ……」

「ごぉぉ……そ、そうか。元気になってよかったよ、光」

「でしょぉ? 心配かけてごめんね陵くん! 寂しかったよね? ボクもさみしかったよだからもう少しこのまま……いや、何なら場所を移してひっそり内緒に直接ボクが陵くんに元気を注にゅ……あうっ!」

 カン、と軽い音がして、光の頭に銀のトレーが直撃する。

 振り下ろしたトレーを持ち上げながら、ミリアが嘆息する。

「まったく……仮にも医者なんだから、公私の区別はつけなさいよ」

「ああクソ、何で邪魔するんだよミリア! せっかく光のもちもちボディの柔らかさを写真に収めようと――ぎゃぁぁ!?」

「アンタには遠慮はいらないわよねぇド変態!」

 ドア前でカメラをかざしていた貴之の額を狙って、フリスビーのように飛来した銀のトレーが激突した。

 出会って四秒ですぐ攻撃を受けた貴之は、ドアのすぐ前でもんどり打ち、体をくねらせる。

「人中! 人中に当たった! ホント顔面狙いに容赦ねえよなミリアさんはっ!」

「何遍やったって懲りないアンタが悪いんでしょうが! 殴って気が引けるぐらいの徳を積みなさいよ! 徳を!」

 息巻いて怒るミリア。

 光が、その服の裾を摘んで力説する。

「ミリアちゃん! ボクの陵くんへの原動力は全て陵くんへの愛と思いやりで出来てるんだよ! 陵くんも甲斐甲斐しくお世話されて、ボクも幸せになれるからウィンウィンなんだよ! だから止めないで! 大丈夫だから!」

「ん……うん?」

 謎理論にミリアが小首を傾げている隙に、光は更に陵弥に体を密着させる。

 ベッドに完全に乗り上げて、陵弥にのし掛かる。

 たっぷり重量感のある光の胸が、陵弥の胸に乗って、むにょんと形が変わる。

「おい光! 近い! 近いから!?」

「んっふふぅ……ねえ陵くん、トイレとか行きたくない? 体も満足に動かせなくて、イロイロ溜まっちゃってない? 陵くん専用のナースであるボクが、陵くんをやさーしくしーしーちこちこぴゅっぴゅさせてあげてもいいんだよ?」

「大分直接的すぎやしませんか!? なに、発情期? 理性のタガが外れたの!?」

「っしゃこい! すぐに『ディスタービア』を録画モードに切り替えぎゃぁぁぁぁぁぁ!!」

「世の公序良俗を代表してアタシが相手してやるわよこの淫猥魔!」

 遠くでバチバチッと閃光が弾ける。

 命が一つ散った気配がしたが、こっちもマズい。うっとりと蕩けた表情の光が、柔らかい体を押しつけながら詰め寄ってくる。

 実際、三日間満足に動けず悶々としていた陵弥は、たまらずにわなわなと手を蠢かせるしかできない。

 と、次の瞬間。どこからともなく飛来したペットボトルが、光の脳天にパコーーンと直撃した。

「うにゃう!?」

 素っ頓狂な声を上げて、光がベッドから転げ落ちる。

 痛快な一撃を見舞った人物は、開いたドアの向こうで、やれやれと肩をすくめ、三つ編みの赤髪お下げを揺らした。

「まあ、人のアガペー的な営みを邪魔するのは、神として気が引けはするのだが……大事な話があるのでな、控えてもらおう」

「モテモテですね、天童くん」

 嘆息する幼女、いーすんに続いて、エメラルド色の瞳をした女神、アテナも入室する。

 バクバクする心臓の鼓動を諫めて、陵弥は女神二人に向き直る。

「お久しぶりです、いーすんさん、アテナさん」

「仕事は終わったの?」

「うむ、ようやくな。今朝方、転化した『門』をバベル本部と接続できたところだ」

「……似像君、大丈夫ですか?」

「ええ……アテナさんのふくよかおっぱいがあれば大丈夫です」

「名誉の負傷ですね。お大事にどうぞ」

「ああ、とうとうアテナさんもおざなりな反応に……」

「あー……おほんっ」

 いーすんがこほんと咳払い一つ。

「で、だ。今、学徒全員に召集がかかっている。すぐに来てもらおう」

「召集って……俺もですか?」

「大して痛みはないのだろう? 悪いが、這ってでも来いという命令でな」

「繋がったクレバスを通って、バベル本土の神様が来ているのです。そちらからの用命でして」

 困ったように言ういーすん。

 アテナが一歩進み出て、陵弥に松葉杖を渡した。

 慣れないそれを受け取って、陵弥が立ち上がる。

「っとと……健康なのに動かせないって、ヘンな感じだな。伊吹もこんな風だったのか」

「陵くんは初めての経験だから、尚更戸惑うよねー。大丈夫、ボクがしっかりサポートするからね!」

「ちょ、引っ付かれたら歩きにくいって!?」

 腕に抱きついてくる光をいなしながら、陵弥がもたもたと歩みを進める。

 その前を歩いていたミリアは、そんな呑気な様子を尻目に、毅然とした足取りで『門』まで急ぐ。

「……つまんないの」

 収まりどころが悪くて肩を怒らせて歩いてしまうのが、何ともむず痒く、ミリアの胸中をイライラさせた。


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