第2話 学徒、霊滅。後は神とかパンツとか
唐突に鳴り響いたサイレンが、緩慢に流れていた教室の空気を張りつめさせた。
「絶対に! 窓を割るなよ!
「やべっ」
ほぼ同時に、黒板に向かっていた先生の怒号が飛ぶ。
走り出していた少年は、慌てて進路を調節。既に開いていた窓に飛び乗った。
突進に近い速度で窓枠に手をかけ、若干緊張した面もちで、その先生の方を振り向いた。
「だ、大丈夫ですって。ホラ、ちゃんと割ってない! 覚えてましたから!」
「嘘を付け嘘を! 真っ直ぐ突き破る気だったろうが! 戯け!」
「なっ、人をそんなアホみたいに! 俺だってちゃんと学習しますよ!」
はやる気持ちを露わに叫ぶ。
先生は呆れたように、眉を潜めて自分の四角い眼鏡を押し上げた。
「武家所法度」
「は?」
「五分前に俺が言った年号だ! 武家所法度が制定された年は!?」
「…………えーっと」
「ちくわとちくわぶの違いは?」
「えっ、それ説明したんすか!? 日本史で!?」
「補修確定! 今日の放課後、職員室に来い!」
「ちっくしょぉぉぉぉぉぉ!!」
先生の無慈悲な決断に悲鳴を上げ。
天童陵弥は――三階の窓枠から、一切の躊躇なくその身を外に投げ出した。
ぶおっと風が体を包む。重力に従い落下が始まる。
三秒もすれば地面だ。瞬間的な、既に慣れきった浮遊感を感じながら、陵弥は目を瞑り、唱える。
意識を沈める。深く、暗く。
浮遊感も、日差しも、鳴り止まぬサイレンも。外界の一切を置き去りに、自らの内へ内へと感覚を沈め、研ぎ澄ます。
内なる魂を、呼び覚ます。
「霊装展開――双刀『地極・奮迅』――
自らの内側が、その詠唱に目を覚まし、陵弥の体を光で包む。
次の瞬間には、陵弥の両手には、鈍色に輝く二つの剣が握られていた。
鋼の鋭さを体現した曲線のフォルム。手にする陵弥よりも遙かな年と修羅を重ねたような、太古の息吹と豪傑さを感じさせる気迫。双方の刀の柄と頭の方には、互いを結びつけるように、呪文が綴られた布が注連縄のように伸びており、そこから絡み合って伸びる三本の縄が、まるで孔雀の尾羽のように落下する陵弥の軌跡をなぞる。
羽のようという表現が比喩ではないと言うように、陵弥は軽やかに体を回し――空を跳ねた。
空気の塊がそこにあったように、空中を蹴り、斜め上空へと跳躍する。その飛距離もまた、既に人の域は越えていた。学校の窓から見える彼の姿は、その一挙動で一気に小さくなる。
たった一蹴りで、グラウンドを抜け、フェンスを越え。広がる森へと飛び込んでいく。
次の一蹴り――木の一本をへし折る強烈な跳躍で、陵弥は自らの体を、遙か天空へと踊らせた。
体が力で溢れる。高揚に漲る。興奮につり上がる唇を自覚しながら、陵弥はぐんぐんと遠ざかっていく地上の景色を一望した。
サイレンは既に遠くに聞こえる。自分が住む世界の様相がハッキリと見える。直径にして五キロ。六割近くを埋め尽くす青々と茂る木々に、残り三割をひっくるめてデンと鎮座する、島という一つの巨大な山。
島と言うには当然、陸以外には、太陽を受けて星屑のように煌めく海しか見えない。燦々と輝く水平線を、遍く見渡し堪能する。
タスク3と呼ばれる、山と海で構成され、森と海に囲まれた孤島。こうして空から眺める景色が、陵弥が六年間生活している彼の世界だった。
陵弥は中央にある山の頂点、標高にして四百メートルほどまで体を浮上させる。跳躍の速度を体言するように、突風がダンプカーのような轟音で耳を打つ。
だが、それも数秒。上に向かう揚力が終われば、打って変わった天空の静寂が世界を無で包む。
上昇が終わり、続いて訪れる、瞬間的な、だが永遠にも感じる停滞。
オンッ――と余韻を残し、風が消える。
下界の雑音を全てぬぐい去った、空っぽの空。
目を細め、陵弥は静かに考える。
顔を思い切りしかめながら。
「補習かぁ……気が重いなぁ」
勉強も”戦い”も、疎かにしてはいけないとは。
全く――『学徒』も、楽ではない。
ひゅぅっと風が耳を抜け、落下が始まる。その瞬間、耳がザザッというノイズを捉えた。
『――おーっす陵弥。コンタクト! 通信開始するぜぇ』
「おっせえよ、
唐突に耳の通信機から発せられた、気の抜けた男の声に、半ば呆れ気味に声を返す。
「監視の目は飛ばしとけって何度も言ってんだろ。何見てたんだ」
『ピンクと白の縞々』
「えっ? あ、パンツかよ!? ふざけんな捕まっちまえ!」
インカムを指で押さえながら、風に負けないように叫ぶ。落下を開始して数秒。頭を真下に垂直に落ちる陵弥は、既にかなりの速度に達している。
「お前が遅くなると、俺が間に合わなくなるんだからな、ちゃんとしてくれ! 分かったら早く、座標!」
『わぁーった、女の尻より世界の危機ですよねっと。いいか、『
「ッいや、もういい。対象を目視で確認!」
早口でまくし立て、通信を切る。貴之の声の代わりに、ガサガサと木が潰れる音と巨大な地響きが耳を震わせる。
山の頂点から落下を行う陵弥。未だ中腹ほどの高度の彼に――ソレは、目線を合わせてきた。
まるで曲がり角でも曲がるように。山肌に手をかけ、巨大な人型の化け物が、のっそりと顔を覗かせたのだ。
「っでか……⁉」
二百メートル程の身長の巨人は、全体的に青みがかった半透明な体で、アロエかナタデココのような滑らかな体表をしていた。足と手が異様に長く、まな板に手足を取り付けたような平坦で奇妙な体型。頭は存在せず、その代わりとばかりに、人間でいう鎖骨のあたりに、沼のように濃い色で塗りつぶされた目があった。
その目がぬらり、と緩慢に動いて、陵弥の姿を捉える。
「なるほど――コイツは、大物だ!」
歯を見せて笑うと、陵弥は再び空中を跳ね、真っ直ぐ巨人へと突進する。
巨人はまたも緩慢な動作で手を上げると、作った拳を陵弥に向けて突き出した。
全体からすれば不気味なほど細い腕だが、元が巨大なだけあって、拳は瞬く間に陵弥の視界一面を埋め尽くす。
陵弥は更に跳躍。飛び越えた陵弥の下を、列車のような勢いで拳が通り抜けていく。
「だっ!」
陵弥は生物感のないツルツルの腕に、刀を突き立てた。パンチの動きに沿うままに、後ろにぐんと圧がかかる。
腕が伸びきった瞬間。刀を引き抜き、胴体に向かって疾走を始めた。人を逸脱した陵弥の速度は、瞬く間に長く巨大な腕を駆け抜けていく。
銅を目指す陵弥の姿を、巨人は感情のない沼のような瞳で、ぼんやりと眺めている。
そう思いきや、相変わらず動くことはないままに――その体が、ぶるりと震えた。
にゅるりと、そんな音さえなく。陵弥の進行を妨害するように、平坦だった腕から無数の触手が伸びて、陵弥を捉えようと躍り掛かった。
陵弥は立ちふさがる数多の触手を、一つとして自らに触れさせることなく斬り伏せる。
常人の目には、その剣劇を捉えきることはできない。ただ事実として、陵弥は夥しい妨害を物ともせず、速度を一切緩めることなく邁進する。
時間にして十秒とかからずに、陵弥は触手の海を抜け、巨人に飛びかかった。
感情を映さない深い瞳に、僅かに焦りが浮かんだ気がする。だが躊躇さえ遅いとばかりに、陵弥はその頭部に向かい、双剣を振り下ろす。
縦に。実直なる、一文字!
決着かに見えた一撃が振り下ろされた瞬間、しかし巨人はぐにょん、と形を歪ませると、体を自ら真っ二つに裂いた。
体の中央から、銅の半分ほどにかけて。まるで初めから二体でしたと言わんばかりに体を切り離し、陵弥の一撃を空振らせた。
「ありかよ、そんなの!?」
驚きに目を見開く陵弥を押しつぶすように、左右に別れた胴が、再び一つになろうと迫る。
慌てて陵弥は跳躍し、その範囲から抜け出した。ぱちんと拍子抜けな音を出して、巨人は元の形を取り戻す。
『あー……陵弥、対象はどうやら不定形の体を持つみたいだな』
「知ってるよ! 俺当事者! 証明者俺!」
通信機の気の抜けた声に突っ込み、体制を立て直す。
巨人はぐぐっと体を回している。虚ろな双眸は確かに陵弥を捉え、伸びきっていた腕が、そのまま薙ぎ払うように振るわれていた。
「ッ――『呪縛』!」
陵弥の宣言と同時に、双剣を結んでいた三叉の呪符が伸び、意志を持つように飛来する。
右からやってきた巨木のような腕を、下方に跳ねることで回避。それと同時に、呪符の綱を伸ばして流動体の腕に突き刺した。
「ぅ――おぉぉっ!」
ぐぅんっと体が引っ張られる。背骨がくの字に曲がり、内側が持っていかれるような推進力を感じながら、陵弥は自らの体を腕に追従させる。
ブランコのような推進力を活かして、振り終えた拳に、陵弥は再び着地する。
「ふっ――」
一息。
先ほど止めを刺しかけた時と同じ。覇気を漲らせ――一閃。
巨大な青みがかった腕を、一刀によって内ほどから切り捨てた。
悲鳴はない。痛みという感覚があるかも不明だが、腕が切り離されたことで、巨人は狼狽えるように体を震わせる。
「不定形っていうなら、端っこから順繰りに切り捨てるだけだ!」
得意気に笑い、跳躍。またも捕らえようと伸びてきた触手の海から抜け出す。
山裾を覆う木々の一本に着地し、仰ぎ見る。摩天楼のような巨人の切り捨てた腕は、既に半分近くが再生されていた。
だが同時に、ポンプで水を汲み上げるように体が波打ち、大きさも、僅かだが縮んでいるように見える。
削ったのは大体……五%ほどか。
陵弥は、チラリと自分の腕時計を見た。戦闘が開始して、五分ほど経過している。
マズい。舌打ち混じりに呟く。
宣言通り、端から切り捨てていけば、そう苦労もせず勝てる。むしろ楽勝だ。今ここで、死亡フラグと間違わんばかりの決め台詞を唱えたっていい。
だが――『俺の勝利』とするのは、時間と”アイツ”が許さない。
「ふぅ――ペース上げていくぞ!!」
覇気を漲らせ、構えた双剣を光らせ、陵弥は再び戦いへと向かう。
時間がない。最短で勝利を手にするために、最善の手を考える。
しかし、その思考がザザッという耳障りなノイズに遮られた。まだ繋げていた貴之との通信が、向こうから接続された。
『――緊急! 陵弥、今すぐそこから離脱しろ!』
「はあ!? オイ、聞いたろ! 俺は今から速攻で――」
『生憎時間切れだ! 早くしろ、”降ってくる”ぞ!』
「ッ――!?」
切羽詰まった語気に余程の事態と判断した陵弥は、身体能力に無理を言わせ、突進していた軌道を強引に真後ろに変える。
次に起こった衝撃は、まさにその直後。
視界を眩ませる強烈な光が、天から垂直に振り下ろされた。
「ぐっ――おぉぉぁあ!?」
暴力的に飛び込んでくる、焼き付く光とつんざく音。
突如として降り注いだのは、禍を覆い尽くすほどの、巨大で圧倒的な金色の光だ。
およそ数秒。途方もなく巨大な光の柱が消えれば……そこにいたはずの巨人を中心とした直径百メートルは、生命の痕跡一つない焦土と貸していた。
呆然とその光景を眺め、視界に移る、炭化した自分の尾羽である三叉の呪符を見て、陵弥の頬を冷や汗が伝う。
もし一瞬でも早く巨人に飛びかかっていたら。貴之の通信が一瞬でも遅れていたら。一瞬でも後方に避難することに躊躇していたら。
直撃していたか、自ら飛び込んでいたか……何にせよ、ジ・エンドだ。
「っんの、馬鹿野郎……!」
憎々しげに舌打ちして、怒りを露わにする。
まるで、その舌打ちに応えるように。憎々しげな顔を嘲笑するように。
「アーーーーッハッハッハッハ! 大・勝・利ィーーーー!!」
晴れ渡る空と焦げ付いた大地に、そんな高笑いが響きわたった。
突き抜けるような晴れやかな笑いの発生源は、探さずともすぐに見つかる。光が降り注いだ、山の頂点をも越える天高く。
そこに、光の竜に仁王立ちで乗った少女が、大口を上げて笑っていた。
「雑兵! 雑兵! アーーーーンド雑兵! このアタシ、向かうところ敵ナシの最強霊装士、第一候補! ミリア=ラ=グレンデルの敵ではなかったわねえ!」
「ミリア! お前殺す気かよ!? 俺ごと巻き込む威力だったろうが!」
「ん~? なんか声が聞こえる? 狭い地面に這い蹲ってつうまようじでせこせこ突っついてた蟻さんが、天におわしますアタシ様に何かもの申そうとしているのかしら!? こんな雑魚にあんなに苦労していたのに! アタシはたったの一撃で終了というのに!」
「ぬ……ぐぅ……!」
明らかな挑発の言葉に、しかし言い返せずに歯噛みする。
ウェーブがかった金髪を風に棚引かせながら、ミリアは殊更わざとらしく明後日を向き、ぱたぱたと手で顔を仰ぐ。
「あ~、涼しっ! 一仕事終えて、汗一つかかずに飛ぶ空は快適ね~。ねえ陵弥、アンタもそう思――うわ、臭! 汗臭っ!」
「ウン百メートル上空から何言ってやがる! あのな、あのぐらい俺だって楽勝だし! あと一分もあれば――」
「その一分こそ、アタシとアンタに横たわる才能の壁! 霊装士としてアタシが優れているという揺るがない確たる証拠! アンタ、イズ、貧弱貧弱アーーンド矮小! アンダスタァン!?」
「畜生、クッソ腹立つ!」
こちらを見下す宝石のように青い瞳孔が、愉悦に見開かれる。
宝石のような碧の瞳も、流れるブロンドヘアーも、彼女特有のものだ。
生粋の欧州人であるミリアの姿は流麗で、お嬢様という言葉がピタリと当てはまる。ムカつく立ち振る舞いさえ絵になってみえた。
「んじゃまあ、お疲れさま前座クン! これからもアタシのいい踏み台になっておくれ!」
「うっせえ、そのまま墜落しちまえ!」
「アッハッハ! 負け犬の遠吠えはいい追い風になるわねぇーーーー!!」
イライラを更に加速させる台詞を吐いて、ミリアは光の竜に乗って、学校へと飛んでいく。
静かになった山裾の森の空気に、陵弥の小さな舌打ちが響いた。
「チッ……また、ダメだったか」
悪態を付いて、陵弥は自らの双剣を納めた。取り出したときと同じように、一度淡い光が瞬いたと思うと、その手にはもう何も残ってはいない。
煮え切らない気分で、陵弥は太い木の枝に腰掛ける。
『補修お疲れ、陵弥』
「うっせえ。どうせ馬鹿ですよ」
痛い言葉を投げる通信機を外し、ポケットに突っ込む。
先ほどの戦闘が嘘のように、あるいはもう慣れたとでも言うように、山裾の森は静まりかえっている。
陵弥は、ついと顔を上げる。
抜けるような青空には、巨大な裂け目が顔を覗かせていた。
まるで、空が映像を投影するスクリーンであるというように。その裂け目は、透き通る薄氷にできたヒビのように広がり、天を二分するかのごとく長大に伸びている。
あの日から何も変わらない。これが普通となった、壊れた空。
世界と世界が激突し、概念と概念が反発し、世界の理は覆った、その傷跡。
世界中が怪物たちで溢れ、地表は怪異に犯されて。
人は、人ならざる力を手に入れた。
全ての象徴である天の裂け目を仰ぎ見て、陵弥は強く宣言した。
「見てろよ……必ず、取り返してやるからな」
この空が全てを物語るように。世界は如実に、劇的に、崩れはじめていて。
その世界の片隅、この島で。少年たちは、今も静かに牙を研いでいる。
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