第12話 決意と覚悟の鍔迫り2


「はへぇ……気持ちいい~」

 気の抜けた声を上げて、土峰伊吹は快感に表情を緩ませた。

 清潔感のある白地で統一されて、どこか堅い感じのある病室の空気が、伊吹のそんな様子に和やかになる。

 その背中を優しく揉みながら、陵弥は呆れた笑いで応じる。

「だらしないなぁ。光みたいな声だしてるぞ」

「だって、陵弥が上手なんだもん。陵弥の手、あったかくて、触れてるとじわぁ~って、体がぽかぽかしてくるの」

「俺は疲れるばっかりなんだぞ? たまには看護婦さんに頼んでもいいじゃないか」

「やーだ。陵弥がいいもんっ」

 悪戯っぽい猫撫で声を出して、くすくすと笑う。

 その声音から、本当に喜んでいることが伝わる。

 この笑顔に、陵弥は何も言えなくなるし……この笑顔が見れるなら、何をしてもいいと思う。

 ベッドに乗った陵弥は、自分の胸に伊吹の頭を乗せている。

 背中をもたれ掛かるようにした伊吹の、筋肉の少ない、薄く柔らかい肩を揉みほぐす。その後、優しく撫でるようにして、押しつけるようにした手のひらを、肩胛骨から二の腕へと伝わせる。手のひらへと到達すると、白く細い指を、きゅっと握り込む。

 二十分以上。これを何セットも繰り返す。

 伊吹はなんの抵抗も見せない。ただ笑顔で、陵弥の優しい手を受け入れる。

 ベッドに落ちる彼女の腕は、全ての抵抗を忘れたように力なく垂れ下がっている。

 何度目かもわからずに握り込む彼女の手が、持ち上げた瞬間、ダラリと重力に従い落ちる。

 ゲームならば『解像度が悪い』なんて言われるだろう。血管も産毛も見つからない、陶磁器のようにすべすべで、生気の見あたらない腕は……

 ――比喩でもなく、人形のようだ。

 伊吹には見えない陵弥の顔が、神妙に深められた。

「……まだ、動かないか?」

「うん……ごめんね」

「謝らなくていいよ……ただ、長いなって思って」

「大丈夫だよ。感覚は、もうかなり戻ってきてるから」

 案じる陵弥の声に、伊吹が温かい笑顔で応じる。

 伊吹は今――両腕の感覚を失っていた。

 一年ほど前から突発的に起こり出したこの症状は、動かせないばかりでない。温度も圧力も感じなくなり、本当に人形になってしまったように、腕や足が固まってしまうのだ。

 一度。本当に最悪だった時は、視覚からさえも消え失せた事がある。

 その日病院に訪れた陵弥は、受付にて、聞いたこともないような、ちぎれるような伊吹の悲鳴を聞いた。

 慌てて病室に駆け込めば、今にも卒倒しそうに瞠目した伊吹が、混乱のままに喉を震わせていた。

(――ない! ないよぉ……ないよぉ!!) 

 右腕が突然、完璧に消失したのだ。まるで腕が先立って、幽霊になってしまうように。

 この症状が起こったときは、陵弥をはじめ誰かが触れていることで、何とか元に戻すことが出来る。その時は二時間以上、陵弥はこうやって伊吹の体をさすっていた。

 今もこうして、今にも砕けてしまいそうな伊吹の儚い背中を、ゆっくりとさする。

 突発的に起こるこの症状は……日毎に酷く、頻繁になっている気がした。

 タスク3の霊素が日を追うごとに濃くなっているのと、反比例するように。

 伊吹の魂は、確実に希釈されている。

 その事実を忘れたくて、陵弥は伊吹に話しかける。

「……魂は、認識の力、って言ったっけ?」

「うん。光ちゃんが言ってた。魂、そしてその基になっている霊素は、簡単に言えば『自分がここにいる』って証明する力なんだって」

 魂、霊素……世界に充満し、世界を形作るエネルギー。

 現在世界を脅かしているそのエネルギーには、一重に言うと『事象を誇示・知覚する』効果がある。


 人は知覚するからこそ、その存在を認識・証明できる。

 例えば何もないテーブルがあったとしても、ある人に、その上にリンゴが『見え』、『触り』、重さを『感じ』ながら歯を立てて『食べ』、『甘い』と感じれば……その人にとっては、リンゴは確かに、そのテーブルに存在していると言える。

 このリンゴを例として、たしかにそこにあるという存在を支えているのが、重力、物理法則、光学力学などに代表される『概念』というものだ。

 世界は、この概念を世界全土で共有しているからこそ、明確な形や法則の基に存在している。

 この『認識』、及びそうであると『誇示』する力が、魂・霊素と呼ばれるエネルギーの力だ。

 人が認識し知覚するからこそ、世界はそこにあると証明される。

 霊素の認識の力が、このようにして地上世界と天上界、また神々を存在づけているのだとか。

「神様も、天上界も、元は私たち人間が、確かにあると信じたから生まれたんだよね」

「らしいな。もう何千年も前の話だけど」

「私たちが『ある』と信じるから、この世界はあって、神様が存在する……今は、そのエネルギーが溢れているから、その『信じるものが顕現する力』が暴走して、空想の存在や怪物が現れる。陵弥みたいに、凄い力を持つ人が現れる」

「そうだな……」

 ……そして、その認識が薄ければ、自分の存在さえ無い物になってしまう。

 魂が薄いということは、自己の存在証明さえも困難だということ。

 その影響は、こうして突発的に、伊吹の体から自由を奪い、存在をかき消そうとする。

 それを阻止し、伊吹の存在をつなぎ止めるために。陵弥はこうして伊吹の体に触れるのだ。

 指先を絡め、ぬくもりを伝え、言う。

 お前は、ちゃんとここにいる、と。


「光は……呼んだ方がいいのかな?」

「ううん、いいよ。苦しくはないから」

 伊吹の微笑みに、無理をしているような様子はない。

 洸・及び姉の光は、伊吹が一大事とあれば、非番なんて関係なく駆けつけてくれることだろう。だが、陵弥にしても無理はさせたくない。本人が大丈夫というなら、大事にすることもないだろう。

 と、頭上にある陵弥の顔を見上げていた伊吹が、ふと表情を下げて顔を隠した。

「それに……せっかく、二人きりだし……このままがいいかな、とか」

 ぽそぽそと、まるで告げ口のように、小声で言う。

 元から白い伊吹の肌は紅潮がハッキリと分かって、陵弥の口元を自然と緩ませる。

「あーもう、かわいいこと言いやがって」

 絹のように滑らかな髪を撫でて、陵弥は伊吹の頭を、自分の胸に抱き寄せた。

「……大丈夫だよ。俺はずっと、お前の側にいるから。もちろん、俺だけじゃないけどな」

「うん……ありがと」

 うっとりと気持ちよさそうに目を細めて、伊吹は陵弥の胸に体を傾ける。

 不意に、病室の扉が軽くノックされた。

「どうぞ」

「はい、失礼しまーす」

 伊吹の代わりに陵弥が答え、慣れた声と一緒にドアが開かれる。

 年若いナースさんが、トレーを持って入ってきた。

 陵弥達より二、三歳上くらいの女性は、体を重ねる二人を見て、いたずらっぽい笑みを見せた。

「あらぁ、相変わらずラブラブね。お邪魔しちゃったかしら」

「やめてくださいよ、相川さん。それか交代して下さい。俺も流石に疲れました」

「えー、ずっとしてくれるって言ったじゃない」

「一緒にいるって言ったの。小間使いじゃねえんだから、勘弁してくれよ」

「うふふ……でも、まだ治らないのね。伊吹ちゃん、大丈夫?」

「感覚は大分戻っているから、もうしばらくすれば動くようになると思う」

 そっか、と明るい調子で返して、相川はトレーをベッド横の机に置いた。

「晩ご飯を持ってきたんだけど、どうしようかしら。腕が動かないなら、後で温めなおしたものを持ってくるけれど」

「それなら……お腹すいたから、食べさせてもらおうかな……とか、言ってみたり」

 言いながら、チラリと顔色を伺ってくる。

「え、俺?」

「分かってる癖に。他に誰がいるの?」

「いや、相川さんとか……」

「悪いけど、私もそんなに暇じゃないし、カップルのイチャイチャを邪魔するほど甲斐性なしでもないのよ」

「もー、相川さんもからかわないでよ!」

 伊吹が顔を真っ赤にして反論するも、相川は余裕の笑みだ。「それ以外のなんなのさ~」とリズミカルに口ずさみながら、トレーの置いた机を、伊吹の正面に置いてあげる。

「それじゃ、三、四十分したら取りに来るから、後は水入らず、ヨロシクどうぞ~」

 軽い調子で言い残し、サッサと退場してしまう。

 横開きのドアがパタンと閉まる音がして、妙な緊張感のある静寂が満たす。

 期待と気恥ずかしさが入り交じった瞳が、微かに震えながら陵弥の事を見つめていた。陵弥も、ついその目を深くのぞき込んでしまう。

 何となく互いの出方を伺うような静寂。それを割るように――ぐぅぅ。

「……ぷっ」

「あはは。ごめん、普通にお腹ペコペコなの。腕もこのままだし……ね、食べさせて?」

「分かったよ。ホント、世話焼けるな」

 ため息をついて緊張を完全に打ち消すと、陵弥は起きあがるために、伊吹の背中を押す。

 しかし、背中から抜けようとした陵弥を、伊吹が身をよじらせて引き留めた。

「あっ、待って。このままの方がいいな。陵弥も、手は届くでしょ?」

「このままって……確かに届くけど、食いにくいし、食わせにくいぞ?」

「このままがいいの。ね、お願い」

「……まあ、頼まれたらしょうがねえな」

「ふふ。やった」

 無邪気に笑って、陵弥の胸に後頭部を落ち着けさせる。

 なんだろう、今日はいつになく、彼女の方から積極的な気がする。久しぶりに見るご機嫌な笑顔に、妙に鼓動が早くなってしまう。

 ……悪い気は、ぜんぜん、しないけれど。

 何となくむずがゆい気持ちを感じながら、陵弥はトレーに手を伸ばし、箸を取る。

「何食べたい?」

「んー、やっぱ主菜だね。ハンバーグ」

「あいよ……む、意外とカットがむずい」

「頑張れ~ファイトファイトっ」

「他人事だなぁ、ったく」

 苦笑して、小さくカットしたハンバーグを取り、自分の胸元の伊吹の口に運ぶ。ずれないように肩を持って、小さな口にゆっくり狙いを付ける。

「はむっ」

「うまい?」

「うん……不可よりの可って所」

「うわぁ、やりがいのねぇ」

「病院食なんてそんなもんだよ。流石にご飯にまで文句は言えないから」

 おどけたように笑って、ふと伊吹が上を向く。

 まっすぐ陵弥の目を見つめて、とても、とても綺麗な笑顔を見せた。

「でもね、ふふっ……陵弥が食べさせてくれるから、すっごい、しあわせ」

「っ……調子いい奴」

 照れ隠しの代わりに、サラサラの黒髪を強めにかき回す。

「きゃ、もう……ハイっ。私は次をご所望します!」

「分かったよ。次は?」

「お味噌汁っ」

「難易度高いとこから攻めるな、イジメかよ」

 そのまま、二人羽織りのような体制での食事が続く。

 食べる度に頭が揺れて、陵弥の胸をくすぐってくる。腹部に触れる伊吹の背中がじんわりと熱を伝えてきて、それがとても心地いい。

 半分くらい食べた所で、さすがに陵弥もしんどくなってきた。箸をトレーに置いて、体をベッドに沈めさせる。

「悪い、ちょっと休憩」

「もー、だらしないなぁ」

「そこは先に、ありがとうじゃないのかよ」

 また無邪気に笑い、ぽふんと体を陵弥に預ける。

 自然と、髪に手が伸びていた。つむじから、頬に沿うように、手を這わせていく。伊吹は気持ちよさそうに、自分から頬を押しつけてきた。

「……元気、出た?」

 唐突に、伊吹はそう聞いてきた。

「え?」

「陵弥、なんだか緊張っていうか、考え事しているみたいだったから……ごめんね。気が紛れればと思って、いつもよりいっぱい甘えちゃった」

 ばつが悪そうに、だけど彼のことをひたすらに案じて、伊吹は不安げな瞳を幼なじみに向ける。

「……まあ、バレるよな」

「ずっと見てきたもん。陵弥の事なら、何でも分かるよ」

 首を上に向けて、陵弥の目をのぞき込む。

 優しい光の宿る瞳にのぞき込まれて、つい陵弥の目は、取り繕いを失って、温度を下げてしまう。

「よいしょ……っと」

 伊吹は両腕が使えないまま、体と足を動かして、陵弥と向き直った。

 陵弥の太股に跨がり、正面から、その顔をのぞき込む。

 全てを包み込むような優しい笑みが、陵弥に目を逸らさせない。心の内をノックされているようだ。

「……聞いたよ、決闘のこと」

「……そうか」

 息がかかるほどの距離の幼なじみの顔が、優しい笑みを作る。

「気にしてるんでしょ? 勝てなくて、私を助けられなかったらって」

「……」

 息がかかるほどの距離にいる彼女から、目を逸らせない。

「……ミリアは、強い」

 もちろん、負ける気なんて毛頭ない。

 やるからには全力で、白黒はっきりつけてみせる。

「だけど……俺はお前が大切だから。お前を救うためにがんばってきたから……やっぱり、思うんだ。万が一負けたら、俺は、お前にどう顔向けしたら……って」

 他でもない伊吹だからこそ、心の弱い部分が、外に出てしまう。

 ぽふ、と、伊吹が陵弥の胸に額を埋めた。

 腕が動かないので、上半身でもぞもぞと額を落ち着けさせる。

「……あんまり、思い詰めないでいいんだよ? 陵弥が私の事を想ってくれているの、とっても嬉しい。だけど私は、陵弥の重荷になるような事はしたくないの。陵弥がいてくれたら、私はもう、どうなってもいいから」

「やめろ。冗談でもそんなこと言うな……ずっと一緒だ。あの日から、それよりずっと前から……そうだろ?」

 胸に埋まる伊吹の体を抱きしめる。存在を確かめる。

 自分はただ、この腕の中の彼女を、この温もりをつなぎ止めるために、ここにいるのだ。

「んっ……」

 艶めく、微かなうめき声。湿っぽい吐息が、陵弥の胸をじんわりと熱くする。

「もっと強く、ぎゅってして」

 か細く、切なげな声が鼓膜を揺らす。

 言われるままに、細い体をさらに寄せた。温かく柔らかい女の子の体。自己の存在さえ危うげな、華奢な体。

 互いが一つになるように、力強く身を寄せ合う。

「ふとね、思うときがあるんだ。私はきっと、あの時に死んだはずなんだって。助かる希望なんてどこにもなくて、訳の分からない、あの白い霧に潜む『何か』に殺される運命だったんだって……こう言うと陵弥は怒るけど、本当にそうだと思うの」

「……でも。万全とはいかないけど、お前はこうやって、今も生きてる」

「そうだよ。それはね、きっと陵弥が助けてくれたからなんだ。陵弥が、私の死の運命を破って、私をここまで生かせてくれたの」

「そう……なのかな。俺が、助けられたのかな?」

「きっとそうだよ。お互い覚えていなくても……きっと、そう」

 六年前に霊障が発生したあの時。駆けつけたバベルは、倒れた伊吹と、その隣で双剣を持って放心する陵弥を見つけた。

 陵弥が勝ったのだと、伊吹は信じている。僅か十歳の子供が、白い霧に潜む化物を退け、あるいは打ち倒したのだ。

 ――ただ、一人の女の子を救いたい一心で。


 慈しむような笑みを真正面に、陵弥は「だけど」と言おうとした口をつむぐ。ただじっと、伊吹の心からの言葉を聞く。

「生きたいって希望は、もちろんあるよ。元気になってやりたいことも、一杯ある……だけど、それ以前にね。今こうして考えられていること自体が、とてもとても嬉しい。それだけで、陵弥にはもう、人生をかけても返せないぐらいの感謝をしてるの」

「……それは流石に、言い過ぎだろ」

「言い過ぎなんかじゃないよ。私の今の人生は、陵弥のお陰である……だから私は、ただ陵弥の側に居て、陵弥が見れれば、他には何もいらないの」

 ぴく――と、彼女の人形のようだった指先が、跳ねるように動く。

 存在を確認……再び動くようになった両腕を、伊吹は当然のように陵弥の背中に回し、抱きついた。

「……大丈夫だよ。私はちゃんと、ここにいる。ずっと、陵弥のこと見てる」

 病院にいる伊吹にできることは、ほとんどない。

 だから、ただ信じる。伊吹に向けてくれる想いを、同じだけを持って返す。

 陵弥も、細い背中に回した手に、力を込めた。

 感謝と、不安と、何もかもを溶かすように、強く抱きつく。

 荒々しいほどの抱擁。耳を触る衣擦れの音。ぴくりと動く体。塗れた吐息。そして、確かに感じる心臓の鼓動。

 安心する。ちゃんと、ここにいる。生きている。

 でも……このままになんて、絶対にさせるものか。

「……俺は、六年前のあの事件を許さない。俺たちから全てを奪った白い霧を、絶対に許さない」

 堅く強い信念で、陵弥はそう告げる。

「これ以上、何も奪わせるもんか」

 何度も紡いできた決意を、陵弥は再び口にする。

「俺が必ず、何とかしてみせる。その為の第一歩だ。俺が手に入れた力……ありったけの全力を、ミリアにぶつける」

 伊吹はそっと目を伏せて、寄り添うように、彼の力強い鼓動を聞いた。

「うん、がんばってね……私はずっと、陵弥を見てるから」


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