第8.5話 夢。黒き胎動。
日がとっぷりと落ちるまでミリアに追いかけ回され、シャワーだけ浴びて倒れるように寝た、その夜。
――陵弥は、夢だと信じたい。そんな夢を見ていた。
真白の靄が、世界を鬱蒼と覆い尽くしていた。
果ても見えず、一寸先さえ明瞭としない。そんな重苦しい白濁の靄が、一人の少年を飲み込んでいる。
あの時と一つとして変わらない感覚が、陵弥を暗濁と包み込む。生々しい、五感が希釈し、得体の知れない化物に消化されるような感覚。
陵弥は子供の視点で、どこか俯瞰視するような意識と共に眺めている。
意識だけは、このおぞましい世界が、幻覚であると断じていた。
妙に達観した思考が、六年前のあの景色に没入している。
ここは、過去の記憶だろうか。それとも、自分の単なるトラウマか?
他人事の感性で、陵弥は震える少年の視点と感情を観察する。
陵弥はどうすることもできなかった。彼だろう少年が必死にもがく光景を眺め、沸き上がる恐怖の感覚を生々しく共感する。
無理矢理瞼を開かされ、映画を見せられているようだ。意志とは無関係に、幼い子供は叫び、泣き、痛々しい様相で白い靄の中をもがく。
夢とは得てして、こんなものだろう。観測者の思考は遙か遠方に押しやられ……展開される光景は、ただただ不快だ。
「……ここから、始まった。俺はコイツに、全てを奪われた」
怒りの滲む声を吐く。白い靄から帰ってきたのは、静寂だった。
いつの間にか、泣き声は消えている。白い世界にいるのは、陵弥の意識だけになっていた。
夢というのは唐突だ。脈絡もなく、陵弥は白の静寂に取り残された。
夢の中では、触覚も平衡感覚も明確化しない。本当に白に消化され、靄そのものとなったようだ。
陰鬱な夢は、醒めるような兆しはない。怠惰な感情が、陵弥の意識を濁す。
そのときふと、その変わり映えのない景色に、黒い点が浮かび上がった。
(……?)
怪訝に、その黒点に注目する。白の世界とはあまりに対照的な黒は、記憶にも夢にも、見るのは初めてだった。
(……何だ、これ――ッ)
その疑問が言い終わらないうちに、針穴ほどだった黒点は急速に広がり、視界一面を覆い尽くした。
ぞわっと、全身が総毛立つ浮遊感。
黒が満ち、加速していく。落ちている。瞬間的にそう感じた。視界の端を黒が流れていく……自分が、永遠の穴の中心に向かっているのだ。
マズい。脳が警鐘を鳴らしていたが、どうすることもできなかった。夢の中だからだ。抵抗するすべもなく、意識は闇の虚へと引きずり込まれていく。
気怠げに漂っていた白とは違い、そこには明確で、ぞっとするほどの純粋で強烈な意識があった。
それは一重に――餓え。
光さえ飲み込むほどの圧倒的な渇望が、その全てだった。欲。理性の堰を切った、獣の暴力性。それをひたすらに煮詰めたような、凄まじい純度の塊だ。
いっそ無垢でさえある暴力が、陵弥を飲み込み、蝕み始めた。
染まる。黒に。欲に。獣に。塗り替えられていく。視界とともに、心が塗りつぶされていく。
餓え。乾き。夢と自覚して尚、その衝動は耐え難いものだった。
声がする。自分の喉がならす、自分のものではない、咆哮。
「ああっ、があああああぁぁァァーーーーーーッ!」
必死の絶叫に、黒が混ざる。意志が潜り込む。
(何だ……ッ)
せめてもの抵抗で、陵弥は問う。為す術はなかった。飲まれる。あっけなく飲まれ、自分の意識はそこで潰える。
もう止まらない。だから、せめて問いをぶつけた。
――これは、何だ?
この蝕む強烈な獣欲と。
それに浸った自分が覚える、この”懐かしさ”は?
(これは……記憶。なの、か?)
陵弥の意識はそこで、落ちていく闇の底を確かに捉え。激突の瞬間、ぷつりと切れた。
死のような、闇と一つになったような。そんな断末で、この夢は終わった。
現に引き上げられる、そう感じた最中に。
――タリナイ。
そう、言っているような。
闇を揺るがす獣の慟哭を――陵弥は確かに、耳にした。
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