第16話 憤怒の雷2


 陵弥の意識は、数秒の時を飛び越えて肉体に帰着した。

 ひどく曖昧で、夢を見ていたように虚ろな気分だ。

 陵弥が再び意識を取り戻した時、そこに音は存在していなかった。

 水を打ったように、場が不自然に静まりかえっている。

 その感覚を最初に、やがて陵弥は、自分が床に押さえつけられていることに気がついた。

 顔を上げた陵弥は、現在の状況に我が目を疑った。

 視線の先、目と鼻の先にミリアがいた。

 不可解なことに、二十メートル以上離れていた距離はいつの間にかゼロになっていた。舌を出せば届きそうな距離に彼女の足があり、驚愕に慄く顔が、震えながらこちらを見下ろしていた。

 そして背中には、こちらもいつの間にか現れたいーすんがのし掛かり、自分の頭を力強く押さえ込んでいた。幼女とは思えない力量が、有無を言わさずに髪を鷲掴み、動きを封じている。

 まさか、定かではないが……自分がミリアに襲いかかり、それをいーすんに止められたのだろうか。そう長くない、一瞬のうちに? あの距離を詰めて?

 ――決闘の枠を越えて……それこそ、殺そうとでもした自分を止める為に?

 混乱する脳を余所に、自分を押さえつけたままのいーすんが、重たく口を開く。

「……一体、これはどういうことだ?」

 背筋に鉄芯を通されるような、硬質な敵意に満ちた声。

 しかし、自分に向けられたものではなかった。

 ただならない声音に、陵弥はさらに首を回し――ソレを、見た。

 陵弥とミリアといーすん、その傍らに、アテナもいた。足を大股に開き姿勢を低くしたアテナは、棒立ちのミリアの間に割り込むようにして、”ソレ”の攻撃を止めていた。

 異様に長く巨大な蜘蛛の足が、そこにあった。

 アテナがギリギリと拮抗し、押しとどめる脚は、競技室の外――アイギスウォールを突き破り、ミリアのこめかみに向かい突き出されていた。

 僅か数センチ先にある槍のような脚の先端に、ミリアの喉がひくっと鳴る。

 しかし、陵弥の目は、その根本……蜘蛛の脚が伸びる先にいた人物に、釘付けになった。

 ミリアの命を狙い、神の御技であるアイギスを破るほどの強力な攻撃が放たれた、その先には――

「……い、ぶき……?」

 ――絶望に顔を真っ青に染めた、土峰伊吹がいた。

 力なく座り込んだ伊吹は、苦しそうにワンピースの胸元を握りしめ、凍えるようにブルブルと震えている。瞳は恐怖で揺れ、カチカチと歯の根の合わない音が絶え間なく続いている。

 首筋に鎌を突きつけられたように震える伊吹の、その背――

 巨大な蜘蛛の脚は、ワンピースを突き破るようにして、伊吹の背中から発現していた。

「りょ、や……りょお、やぁ……!」

 震える声が自分を呼ぶ。その傍らには、糸の切れた人形のように、横たわってぴくりとも動かない光の姿がある。

 ただならぬ状況に、陵弥の背筋をぞわりと予感がなぞる。

「伊吹!」

 たまらずに名前を呼ぶ。体に力を籠めるも、頭を押さえるいーすんの力は緩まない。

 自分に何が起きたかさえ分からないが、どうやら放す気はないらしい……いや、言葉もないところを見ると、いーすんもまた、予想外の状況に呆然としてしまっているのかもしれない。

 動けない陵弥の視線の先。遙か遠くに見えてしまうそこで、伊吹の顔はさらに悲痛げに歪む。

「やだ、やだよぉ……! 抑えられないっ……もう、無理……ぃ!」

「伊吹! 伊吹!! くそっ放せ、放してくれ! いーすんさん!」

「ならん!」

 いーすんの怒号が響く。抜け出そうとする陵弥の頭が、さらに強く押さえつけられる。

 どうにもできない遠くで、壁の向こうで。伊吹はとうとう、天を仰ぎ、喉が千切れるような絶叫を上げた。

「や……あっやぁぁぁぁああああああああぁぁぁぁ!!」

 その絶叫で、辛うじてつなぎ止めていた線が切れたように。八本の脚が次々と、伊吹の背中から吹き出した。

 アテナの手を放れた八本の脚が、その節を円上に、怪しく広げる。

 次の瞬間、それらが全て、伊吹の目の前の空間ただ一点に向けて、力強く突きつけられた。

 何もないはずの虚空に向けられた脚は、しかし一点に集約した瞬間、何かを貫き、つかみ取る。

 ギギ……! と常軌を逸した力が籠もり、空間が強引に拡張される。

 ビシ――と、唐突に、薄ガラスにヒビが入ったような、澄んだ音が響きわたる。

 蜘蛛の脚が空間を貫いたそこに――目が潰れるほどに眩しく光る、裂け目が開こうとしていた。

「な……」

「嘘でしょ。まさかあれ、クレバス……!?」

 アテナが目を向き、ミリアが喘ぐように喉を震わせる。

 局所的に膨大な霊素が集まることで生まれる裂け目が、八本の蜘蛛の脚によって、強引に開かれようとしている。

 異常な事態を前に、いち早く硬直から解けたのは二人の神だった。

「いーすんさん! ここは私が……!」

「ダメだ! 皆の安全を優先しろ!」

「っ――分かりました!」

「『アイギス』だ! 『真言ロゴス』を使うぞ! いいな!?」

「っ……はい!」

「わたしが補助する! 始めろ!」

 いーすんの声に応じ、アテナは自らの左腕を、バッと正面に突き出す。

 突然、どこからともなく眩しく輝く光の帯が発生し、アテナの左腕を包み込む。

 それと同時。いーすんは陵弥を押さえつけたまま、片手を目の前に翳すと、空間に幾何学図を投影し、何かを操作し始める。

「神器発現! 制約解除! 戦女神アテナの名において、驕りなき天上の御業を行使します!」

「鍛冶神ヘファイーストス、是を許可する! 霊素出力コンソール展開。範囲及び出力を設定――六十パーセントだ、いいな!」

「はいっ!」

 蜘蛛の脚によって、裂け目はますます大きく広がっていき、光は目を潰すほどに強くなる。

 焦りを表情に滲ませながら、二人の神の詠唱は続く。目まぐるしい速度で言葉を紡ぎ、左腕を包む光はその強さを増していく。

「霊素収束! 準備完了――認証コードの詠唱に入ります!」

「了解した! 虚構構築陣を展開する! 知覚妨害まで三、二、一――今だ!」

真言ロゴス、詠唱――ッ!!」

 アテナがそう言った瞬間、キィンッ――と。

 会場にいる全員の耳が、まるで至近距離で爆発でも受けた後のように、甲高い耳鳴りに包まれる。

 一秒が急激に拡張されるような感覚と供に、意識がぐっと遠ざかる。

 音を失った陵弥は、アテナが口を動かし、何かを詠唱しているのを見た。

「――詠唱完了! 『アイギス』――神域展開!」

 数秒で収まった耳鳴りの後、会場全員の意識が帰着。アテナの声が響き、左腕を包む光が大きく膨れ上がる。

 光が収まると、アテナの左腕には、白銀に輝く円盾が誕生していた。

 ちょうど二の腕を覆うほどの小型の盾は、表面に幾何学的な細工が施され、その内部に歯車の機構を覗かせている。

「先ほどのようにはいきません! アイギス――壁陣【禁】!」

 アテナがそう宣言すると同時、ガチンッと内部の機構が動く。

 円形をした盾の円周から、更にカッターに似た白銀の機構が飛び出し、それが黄土色に光り輝く。アイギスウォールと称して競技室を覆っていた光の壁の、その数倍濃く強い光が吹き上がる。

 次の瞬間、伊吹と裂目の周囲をその光が包み、三角錐の形に囲い込んだ。

 神の領域に達する絶対の障壁が、クレバスを覆い隔絶する。

 ひとまずの安堵に胸をなで下ろしたアテナは、しかし次の瞬間訪れたあり得ない光景に、目を剥いた。

「あああっ……ああああぁぁぁぁああああ!!」

 伊吹が叫び、裂け目がますます大きく広がっていく。

 ビリビリと空気が震え、伊吹の絶叫が木霊し――ビシッと。

 黄土の障壁に亀裂が走り、アテナが顔を驚愕に染める。

「そんな、神器が破られるなんて……!?」

 思わず動きが止まるアテナに、いーすんが叫ぶ。

「止まるなアテナ! 次元開闢の衝撃が来るぞ、皆を保護しろ!」

「っ――はい!」

 いーすんの怒号に、アテナは弾かれたように次の行動を開始する。

 再び白盾の機構が動き、円周から更に新たな機構が飛び出し、黄土色の輝きを強くする。

「アイギス、――壁陣【泡】!」

 ギィィ――と歯車が唸り、機構が眩い黄土の光を放つ。

 今度は陵弥たち――この場にいた観衆全員を覆うように、薄い光の膜が形成された。

 黄土に色を変えた陵弥の視界で、伊吹が天を仰ぎ、叫び続ける。

「いやっ……いやぁぁぁぁああああああああああああ!!」

 泣いている。怖がっている。

 ――助けを、求めている。

「っ……」

 助けなければ。

 慰めなければ。

 救わなければ。

「伊吹……」

 あんな顔、させてたまるか。

 見殺しになんて、してたまるか。

 そのために、俺は力をつけて……っ!

「っ――」

「いかん! いかんぞ、こらえろ天童!」

「ふざけんな! ふざけんなよ! こんなのっ……!」

 制すいーすんに怒声を返し、押さえつけられた頬を擦る。

 誓ったじゃないか。絶対に助けてみせるって。必ず、二人で一緒だって。

 そのために力を付けたじゃないか。強くなるって決めたんじゃないか。

 他でもない、お前を守るために。

 なのに――なのに――ッ!

「伊吹ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」

 陵弥の叫びは、もう届くことはなく。

 伊吹の辛うじて残った意識が、瞳から一筋の涙を落とし――

 次の瞬間、裂け目から凄まじいエネルギーが吹き出し、障壁を砕き割ると同時、会場にいる全員の視界を真白に染めた。


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