第17話 学徒、馳せ参ず


 かすむ目を開く。

 意識を呼び覚まさせたのは、穏やかに耳を打つ波の音。

 眩しい太陽の光が射し込んでくる。たまらずに遮ろうと腕を上げると、ビシッと酷い筋肉痛の痛みが走った。

「いでっ!?」

「まだ動かない方がいいわよ」

 呻く陵弥に、淡々とした声が頭上から降ってくる。

 顔を上げると、青空を背景に金髪を靡かせるミリアがいた。

「っ……どこだ、ここ……」

「避難船の甲板よ。今から医務室に運ぼうと思ってたんだけど、アンタが起きる方が早かったわね……立てる?」

「あ、ああ」

 戸惑いを抱えたままそう応じて、鉛のように重い体を時間をかけて持ち上げる。

 なるほど、ミリアの言葉通り、そこは船の甲板の上だった。有事の為に島に駐在している避難船で、島民全員が乗船できる非常に大きな船だ。

 その頑丈な木で作られた床に、自分は投げ出されていたらしい。

 周りを見渡せば、大勢の人が甲板の上で右往左往している。横凪に吹き付ける潮風と波の音で、今現在、船が移動中であることが知れた。

 そこまで認識した段階で、不意に気絶する前の光景がフラッシュバックし、陵弥は弾かれたように飛び上がった。

「ッそうだ! 伊吹――っでえ!?」

「ああもう、だから動かない方がいいって!」

 起きあがった瞬間に身体中の間接が悲鳴を上げ、陵弥はミリアにもたれ掛かる。

 ふわ、とミリアの髪から花のような仄かな香りがして、それが陵弥の精神をいくらか落ち着けさせた。

 全く力の入らない陵弥の体を抱きかかえながら、ミリアはため息一つ。

「あんだけ派手にやって、無事な筈ないでしょうが。ちょっとは冷静になりなさい」

「あ、ああ……でも、なんでこんなに」

「体力と身体中の傷はアタシが叩きのめしたから。それ以外の筋肉痛とかは、アンタの無茶な動きのフィードバックよ」

「無茶な……?」

 聞き返す陵弥に、ミリアは怪訝そうに眉根を寄せる。

「……覚えてないの? 急に姿が消えたと思ったら、次の瞬間にはアタシの喉に喰らいつこうとして……アンタ、真正のケダモノみたいだった。アタシ、あの時ばかりは……アンタに殺されるかと思ったわ」

 触れるミリアの体が、微かに震えている。

 この勝ち気で不遜な少女に恐怖を植え付けるとは……あのとき、一体自分はどうなってしまっていたのだろう。

「……すまなかった」

「いいわよ、別に。今はそんな悠長なこと言ってられない。でしょ?」

「っそうだよ。伊吹は? どうなったんだ? いーすんさん達は? っていうか、何で俺達は避難船に?」

 矢継ぎ早に質問を浴びせられて、ミリアが嘆息一つ。

「避難船に乗り込むのは、避難目的以外にないでしょうよ……ホラ、アレ見れば一目瞭然よ」

 そう言うと、陵弥を抱えたままくるりと回って、その光景を見させる。

 果たして、そこに広がっていたのは――

「……なん……っ!?」

 ――鬱蒼と島を覆い尽くす、白い霧だった。

 最早輪郭さえも分からなくさせるほどの深い霧は……まさしく、あの時と同じもの。

 全てを奪ったあの霧が、再び陵弥の目の前に現れていた。

 陵弥の驚愕と戦慄を感じながら、ミリアは不快感に口元を押さえる。

「……確認は不要よね、酔いそうなくらい濃密で、ひたすら気持ち悪い霊素……アンタの言ってた六年前の霊障と、そっくりそのまま同じものよ」

 表情を険しくして、ミリアは更に続ける。

「土峰伊吹は、あの霧の中にいるわ……今は、生死さえ不明よ」

「っ――」

 叫び出しそうになる衝動を、陵弥は唇を噛んで押し殺した。

 興奮して針のように小さくなる瞳孔で、眼前の深い霧を睨みつける。

 あの時の伊吹の、絶望に染まった顔を思い出す。

 あの霧の中に、伊吹がいる。

 取り残されて――助けを、求めてる。

 陵弥は、ミリアの背中に回した手に力を込めた。

 手の震えを感じながら、ミリアは陵弥を抱えたまま踵を返した。

「まあともかく、そんな顔のアンタを診療室にたたき込むわけにはいかないわね……いーすんさんの所に行くわよ。ようやく、学徒の出番が来たってわけ」

 碧の瞳には、畏れも不安もなく。

 あるのはただ、研ぎ澄まされた敵意だけ。

「あの霧もまとめて、なんもかんもぶっ飛ばすわよ」


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