第6話 全てが、白だった2
「ん……じゃあ、はじめる、ね?」
寝起きの状態から持ち直した洸は、のんびりとした挙動で伊吹の隣に座り直した。
先ほどまで制服だった洸は、今はワイシャツの上に白衣を着ている。首からは聴診器をかけて、手元の机には伊吹のカルテが置いてある。
これらは決してごっこ遊びではなく、詠洸は、学校と両立しながらこの病院で数人の診察を担当している、霊障専門の医者なのだ。
医療に関する知識は全てこの病院で覚えたものだが……のんびりではあるが、脈を計り、熱を計り、カルテに記入していく様子は中々手際がいい。
サラサラと要項を埋めていった洸は、最後に首に付けていた聴診器を手に取る。
「じゃあ……最後、お腹」
「うん、聴診だね?」
伊吹も慣れたもので、言われるより前に、自分でシャツのボタンをプチプチと外していく。
止めをなくしたシャツの裾がヒラヒラと揺れて、隙間から肌色が覗く。
小さなへその窪みが見えた段階で、伊吹が胸下のボタンを摘んだまま、半目で陵弥をにらみつけた。
「……りょーや」
「うっす」
言われるがままに後ろを振り向く。病院の白く明るい壁を見ながら、陵弥はぼんやりと、診察が終わって伊吹の許可が下りるのを待った。
「ひゃうっ」
「……へーき?」
「うん……あはは。冷たくて、ちょっとびっくりしただけ」
妙に甘みのある声が気恥ずかしく、陵弥はポリポリとこめかみの当たりを掻いて気を紛らわせた。
しかし……自分が駄目なのはともかく、洸はオッケーというのは、一体どういうことなのか。いや、医者ではあって……おまけに洸は”特殊”ではあるのだけど……
「洸はなんか、やらしくない」というミリアの言葉が、ふと思い出された。美少年の特権か。んな理不尽な。
「ん……だいじょう、ぶ……」
一通りの診察が終わって、洸は笑顔を見せる。陵弥も振り返ると、とりもなおさずな伊吹の顔がある。シャツの前はきっちりと閉じられていて、少し……ほんの少しだけ名残惜しさを感じる。
「いつも通り、問題なしか?」
陵弥の質問に、洸はこくこくと首を縦に振る。
ここまでは、誰でもできる普通の診察。
しかし……学徒であり、霊障専門の医者である洸は、ここからが本領だ。
「じゃ……”呼ぶ”、から、待ってて」
そう言うと、洸はすっと目を閉じる。
その行為を契機としたように、周囲の空気がシンと静まりかえる。全ての有機物と無機物が息を潜めたように、洸に視線が集中する。
さわ……と、ほんの一瞬だけ、洸の髪が風もなく浮かび上がる。
その僅かな変化が、凪の水面に水滴を垂らしたように。広がる波紋がカーテンを踊らせ、花瓶をカタリと揺らす。
明鏡止水に達した洸の意識は、極限まで研ぎ澄まされ――遠のいていく。
「いいよ、来て――”
呟き、ついと顔を上げる。
その瞬間、淡い光が洸の体を包み込み、視界から彼の姿をかき消した。
時間にして二・三秒。優しくも目映い輝きが病室を満たす。
次に洸が姿を現したとき……彼は、”彼ではなくなっていた”。
洸にも見られた、ゆるくカールした――首もとまで伸びた、長髪。
人形のような、くりくりと丸い瞳は――長く上を向いた雅な睫毛に囲まれ。
身長こそほとんど変わらないが――より丸みを帯びた体と、シャツを大胆に押し上げる大きな膨らみは、間違いなく女の子のソレ。
僅か一瞬で現れた”彼女”は、閉じていた目を、まるで悠久の眠りから解き放たれたように、ゆっくりと開き。
――瞬間。
「――陵くぅ~~~~ん!!」
「うおわぁぁぁぁぁ!?」
全力前回の猫なで声を発して、物凄い勢いで陵弥に飛びかかった。
突進の勢いのまま、陵弥は床に押し倒される。のし掛かるようになった”彼女は、陵弥の腰あたりに手を回し、体をすり付ける。
「ん~久しぶり陵くん! 一週間ぶり? 十日? もうとにかく待ちに待ったハグだよハグハグ~~!」
「ちょっ……おい、”光”! やめろって!」
「も~そんなこと言って陵くんも寂しかったくせにぃ。ボクも、こうやってぎゅ~ってすりすり~ってするのをずっと待ってたんだから! ああもう陵くん陵くぅ~ん」
「くっ……ちょ、待……!」
陵弥の狼狽もお構いなしに、彼女はスリスリと顔を陵弥のお腹に押しつける。柔らかい体が密着し、ぎゅーっと押しつけられる。
ヤバい。何がヤバいかというと……とにかく、やわこいのだ。腰の当たりに抱きつき、顔を激しくお腹にすり付けるものだから、当然その下……見違えるほどに大きくなった大きな胸が、ジャスト自分の腰当たりに触れ、激しく動いている。
感覚が伝える。あったかくて柔らかい、暖かいマシュマロのような感触が、自分の腰の凹凸を埋めるようにぐにぐにと形を変えている。不定形な妖艶の魔物に、否応なしに陵弥の血流が高ぶり、顔は真っ赤になるし、当然激しく脈動する鼓動が血液を――
「ていっ」
「うにゃっ」
カンッと軽い音。伊吹が振り上げたカルテがヒカルの頭を打ち、その音で陵弥も我に返った。
「光ちゃん。陵弥が困ってるでしょ」
「そ……そうだぞ。ていうか、伊吹の診察だろ? 早くやろうぜ」
「ぶ~、陵くんのいけずぅ」
上下から諭されて、彼女は頬を膨らませながら立ち上がる。何の支えもない胸が大きく揺れて、ワイシャツを苦しそうに揺らした。
「っ……ほんと、この変化は何度見ても戸惑うな……ゴクリ」
「もう……油断も隙もないんだから」
心なしか温度の下がった視線を向けて、伊吹はそんな不満の声を漏らした。
――
事の始まりは、五年ほど前。その町は陵弥達と同じように、突如開いたクレバスによる霊障に見舞われた。
詠家は、その町に居を置く神社を守る家計で、以前から優秀な霊媒師として周囲の信頼を厚くしていた。
霊素の扱いに卓越していた詠家は、バベルの本隊が来るまでの間、率先して事態の沈静化に尽力した。
彼らの献身の甲斐あって、霊障の被害は、異例とも言える最小限で抑えることができた。
――詠家の一族の、殆どの人間の死を以て。
バベルがクレバスを『門』に転化し、事態を収束させた後。おびただしい数の悪霊にまとわりつかれて尚、眠るように息絶える詠家の人間を確認。然るべき処置を行った後に安置され、死亡が確認された。
――かに、思えたのだが。
「幽体離脱の韻を施して、ボクは強制脱出! 見事洸に取り憑き、生き残るのに成功したのさ!」
自信満々に当時の事を話し、光は満足げに胸を張り、揺らす。
霊素が溢れかえった作今、魂だけの存在や憑依といった事例は――ここまで明確な自意識を持つのは特例として――もはや日常茶飯事にもなりつつある。
しかしこの霊媒で、性別を始め体格まで変貌するのは、一重に洸の力だ。
卓越した巫女である姉、光の霊媒能力と。
卓越した霊媒体質である弟、洸の霊体感度の良さ。
人智を越えた
この二つが合わさることで実現した――一つの体に、多重に重なり独立する魂。
詠洸は、完全なる多重人格者なのだ。
「んしょ……よし、お待たせ伊吹ちゃん。それじゃあ診察しちゃおっかなー」
「何で手をわきわきさせながら言うのかな!?」
「冗談だよ~。ちゃんとマジメにするから、ね?」
洸の姉、光は、そう言うとベッド脇の椅子に再び座り直す。幼さの残る、愛くるしい無邪気な笑みは、洸の姉であることを感じさせる。
先ほど本領と言ったが、洸に霊的な能力はない。彼はあくまで器だ。
逆に巫女である光が、人の魂を観測し、霊的な影響を探る能力に長けている。
だから正確に言えば、霊障専門の医者は、洸ではなく光の方なのだ。
「じゃあ、おでこ出して」
言われるままに、伊吹は自分のおでこを出す。光も自分の髪をかき上げると、額を合わせて目を瞑った。
手持ちぶさたな陵弥は、ただぼんやりとその光景を眺めていただけなのだが……
――ふるん。
「っ……!?」
額を付き合わせる為に上体をぐっと伸ばす。
その挙動に合わせて、ぱつぱつに張ったシャツの胸が柔らかそうにたゆんと揺れて、陵弥の目はそこに釘付けになった。
洸の霊媒体質はとてつもない物で、人格はおろか、体格までもを忠実に体現する。
なので、今揺れている二つのメロンは、確かに本物の”光の体”なのだが……遺伝子の暴力というか、双子の姉弟で、なぜあんなに強烈な物が出来上がるというのか。
思わずむせそうになるのを必死に抑えて、陵弥はなるべく冷静に言う。
「えーっと……光?」
「ん?」
「その……してないのか? あれ……ブラとか」
たどたどしい陵弥の様子を察してか、光はにやぁっと、可愛くも小悪魔的な笑顔を見せる。
「ふふんっ、陵くん。それはねぇ、洸にいっつもブラジャーを着けてろって言うようなものだよ」
「あー……まあ、そうだよな」
やっぱり当然というか、あのシャツの下には、生身のアレがなんの抑えもなく、自由気ままに揺れているわけで……
何となく悶々とした思いを察してか、くすっと光が微笑を漏らした。
「陵くん、安心していーよ。この下を見ていいのは、陵くんだけだからね~」
そう言うと、怪しい笑みを浮かべて、ぷちんっと胸元のボタンを外す。
そこから見えた景色は……狭いスペースに一杯に詰め込まれた、肌色の桃源郷。
遮るものも一切ない、純粋な、きめ細やかな人肌。
「んなっ!? お、おまっ」
「えへへ。洸くん、暑いからアンダーシャツも脱いじゃってたみたい……ホラ、ボク、体温高いから」
ちろりと舌を出してウインクしてみせる。その表情は、すっかり女の子らしい、妖艶な小悪魔の微笑みだ。
大胆に開帳された肌色の天国に、陵弥の視線は吸い込まれる。
大きさはもう言わずもがな、陵弥を釘付けにするのは、その見ただけで分かる柔らかさだ。ぽかぽかの体温に蕩かされているのか、まるでつきたてのお餅のように、慣性の法則に則ってふるふると揺れている。それでいて尚張りのある形だけは崩れない。一体どんな物理法則が働いてあそこまでの……。
そんなことを考えていたせいで、見えなかった。
診察道具などを乗せていた銀色のトレーが、フリスビーのように回転しながら勢いよく飛来し――
カァンッ
「いってぇぇぇぇぇぇ!? 鼻が! 鼻に飛来する円盤が!?」
「鼻の下、伸ばしすぎ――光ちゃんも!」
「ふみっ!?」
グリンと勢いよく光の方を向いた伊吹は、仰天した光のほっぺたを左右から摘み、ぐにぃ~っと引っ張る。
「あんまりっ、陵弥をからかわないの~……!」
「ほ、ほめんっ。ほへんいふひ~!」
わたわたと手足を振り回す、その間にも、二つの膨らみはバインバインと強烈な自己主張を続けていて。
「っ心臓に悪い……!」
病院という環境では洒落にならない言葉を呟いて、陵弥は沸き上がる何とも言えない気持ちと必死に戦いを繰り広げていた。
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