第7話 全てが、白だった3
「よし……いつも通り安定してるね。でも無茶はしないように、なるべく安静にね」
合計で十分ほどの時間をかけて、ヒカルは伊吹の容態をそう結論づけて、花開くような笑顔を見せた。
こちらまで温かくなるような笑顔に、伊吹も朗らかに表情を崩す。
「いつもありがとうね、光くん」
「伊吹ちゃんのためならなんのその、だよ! これも学徒としての、ボクの立派なお仕事だからね」
胸を張って応じ、サラサラとカルテに記入をする。
陵弥はついと顔を上げて、時計を見た。時刻はすでに午後八時。窓の外は、既にとっぷりと夜の帳が落ちている。
「光、そろそろ帰ろうか」
「あ、うん。そだねー。そう言えばお腹もペコペコだよ」
そう言いながらお腹を押さえると、狙い澄ましたように、くぅっと気の抜ける音がする。
「じゃっ、ボクはこれを片づけてくるね。陵くん、入口のとこで待ってるから!」
「おう、また後でな」
片手を上げて応じると、光はパタパタと小走りで病室から出て行く。
簡素な病室で、陵弥と伊吹が残される。
せわしない光がいなくなって、ほんの僅かな間、静寂が満たす。
だが、それは決して心苦しいものではない。言葉はいらないと言うように、互いの視線が自然と交わり、笑みがこぼれる。
「じゃ、もう遅いし、俺も今日はお暇するわ」
「うん……あ、陵弥」
「どうした?」
「忘れてるよ、ホラ」
そう言うと、伊吹はぐっと両手を広げた。
細い胸が自分に向けて開かれる。
「はぁ。伊吹は甘えん坊だな」
「馬鹿。茶化さないでよ……ね。来て」
誘われるまま、陵弥はそこに体を傾け、伊吹も静かにそれを迎え入れた。
抱き寄せる。互いの存在を確かめるように、ぎゅっと体を重ねる。
病的に細い伊吹の体。白くすべすべの肌。腕の中に収まる幼なじみの体は、硝子細工のように脆く、茎のように細い。
力を入れれば折れてしまいそうな体は……しかしこうして身を寄せれば、確かな鼓動がある。生命の温もりがある。
伊吹もきっと、同じ思いを感じているはずだ。
「はぁ……あったかい。こうしてぎゅってされるとね、とてもとても安心するの。ここにいていいんだ、って、許されているみたいで」
「馬鹿……誰が許さないなんて言ったよ」
「ふふ。それもそうだね」
消えてなくなってしまいそう――そう言って涙を流したあの日から続けられる、強い包容。
魂が希薄化した伊吹には、これが効果的な手法なのだそうだ。
互いの存在を確かめるように。魂が確かにここにあると証明するように。ただじっと、互いの体温と鼓動を感じる。
伊吹が気持ちよさそうに目を細める。陵弥は労るように、慈しむように。その体を、さらにきつく、優しく抱きしめる。
「約束するよ……必ず、何とかする。このままになんて、絶対にさせない。俺がお前を、救ってみせるから」
それは、自分への宣誓でもあった。
力強いその言葉に、伊吹も静かに、陵弥の腕の中で首肯する。
「無茶はしちゃダメだよ? ……でも、うん。期待して、待ってるね」
病院を後にした陵弥は、病院の入口に向かう。
蛍光灯の明かりの下で待っていた光は、にこやかな笑顔で手を振った。
そう――光だ。男物の制服に身を包んだ美少女は、自分の張り裂けそうに膨らんだシャツを気にする事もない。最も膨らんだ所では、シャツのボタンが張りつめて、隙間ができてしまっている。
目のやり場に困りながら、陵弥は声を低めて問いかける。
「……ちゃんとアンダーシャツは着てるんだろうな」
「もちろんだよっ。陵くんは脱がせる過程がないと燃えないもんねー。あっ、それとも着たまま――あたっ」
「あんまり冗談を言うもんじゃねえよ。洸の気持ちも考えろよな、全く」
光のスキンシップにチョップで応じ、ため息を一つ。
性別や体つきがどれだけ変わろうと、今目の前にあるのは、自分の友人であり男の、詠洸の体なのだ。弟とはいえ、他人の体を好きにして遊ぶのは、あんまり気分のいいものではない。
「飯も光が食うのか。洸と交代しなくていいのか?」
「ちゃんとオッケーもらってるよ。久しぶりなんだもん。ボクはまだぜんっぜん、陵くんと触れ合い足りないのですっ。今ここで、陵くん触れあいパークを開きたいほどに!」
「なんだよそれ」
「もー。伊吹ちゃんにやっているように、こういう手と手を握ったりのスキンシップが、魂にも一番良いんだよ?」
言いながら、自然な動作で陵弥の腕をとり、自らの腕を絡める。脇の下に腕を差し入れ、腕と腕を紐結びのようにして体を密着させる形だ。こなれた調子の通り、こちらを見上げる笑みは非常にしたたかだ。
むにゅんと柔らかい感触が腕に当たって、否応なしに鼓動が跳ねる。
「ね、ね。恋人つなぎしていい? ラブラブ~って」
「拒否する」
「ぶ~……でも、振り解いたりはしないんだね。ほんっと、優し~な~」
つっけんどんな対応も、照れ隠しなことはバレバレだ。嬉しそうに、手と手をすり合わせる。
しかし、ぽつぽつと照明の灯る道を歩けば、自然と無言が続く。遠くで微かに、波の打つ音が聞こえた。
「……やっぱり、駄目なんだな」
呟くような陵弥の言葉に、光は沈痛に眉尻を下げた。
「うん……ゴメンね」
「謝ることじゃないよ。何度も言ってるだろ? お前の責任じゃない。お前が無理っていうなら、それはもう、どんな人間にも不可能なんだよ」
慰めの言葉は、同時に自分自身の無力さとして、胸に突き刺さる。
ああも笑っていたものの――伊吹の容態は、一向に良くなる兆しはない。
ぽつぽつと、言い訳するような語調で、光は口にする。
「本当に、何も見えないんだ……陵くんには、言ったことあるよね? 魂を覗くときは、部屋だったり原っぱだったり、その人を象徴するような空間が見えるって」
「ああ」
その光景を思い出すのか。怖気を堪えるように、回した腕に力が籠もる。
「伊吹ちゃんの魂はね……本当に、何も見えないんだ。何もかもが、暗く重たく覆われているの……灰みたいな、真っ白い霞に」
「っ――」
ぎゅっと握る拳に力が籠もる。忘れられるはずもない、あの時の光景が、脳裏に鮮明に蘇る。
伊吹の魂は、心は……未だに、あの白い世界から抜け出せずにいる。
「何度探しても、傷や呪詛がある訳じゃない。ただ、深い霧の中で、魂がどこかに”吸われ続けている”んだ。だから確証なく、消去法で、そういう結論になるの」
光の言葉を要約すれば、こうなる。
あの一件以来。およそ六年もの間。
伊吹の中には――『何か』が、いる。
不甲斐なさに瞳を揺らしながら、光は続ける。
「本当に相対的な判断で、他の可能性が見つからないから、何かがいるって判断しているだけ。大きな洞窟が見つかっても、そこに何が潜んでいるのかはまるで分からない。そんな感じかな」
異常がある。気配がする。ただし、その本体は皆目検討もつかず、尻尾すら見せない。
両弥も思い出す。六年前。ほとんど記憶もなく、訳の分からないままに全てが一変した、あの霊障。
白い靄に包まれた、あの場所で――彼女に、何があったというのか。
ぶるっと、光は一度、大きく身震いした。
「もしソレが意志を持つとしたら、隠れるのが上手いよ。物凄く、尋常じゃないくらい……一体どんな存在が内に潜んでいるのか……正直、想像したくもない、かな」
おぞましく禍々しい何かが、白い靄の中で、息を潜めている。伊吹の魂に巣を作り、蝕み、弄び続けている。
どうしようもない歯がゆさは、陵弥も同じだった。
「早く、何とかしないと……俺は何としても霊装士になって、この島を出るんだ」
力強い言葉で、自らの胸を打つ。
この島にいた六年間。伊吹の容態は変わることはなかった。
明日にでも急激な発作で息耐えるかもしれない。そんな状態が続いている。
この島では、彼女の内に潜むものは手に負えない。
しかし……希望がないわけではない。
人の手には負えないかもしれない。
だが、神様ならば。
大崩落と共にやってきた、空想でしか語られなかった超常存在。
人智を越えた存在であれば、この症例にも、きっと対応できるはずなのだ。
同意するように、光も頷く。
「バベル本拠地があるヘイブンの側は、伊吹ちゃんの魂にもいい影響があるだろうし……神様なら、きっとこの事態にも対処できるはずだよ」
「ああ……」
そこで言葉を区切り、陵弥は静かに俯く。
「だけど……バベルの本拠地に入るには、霊装士になる必要がある。神に接触したいっていうなら、尚更だ」
横たわる厳しい現実に……霊装士見習いの学徒である陵弥は、次に続く言葉を見つけられない。
『大崩落』で堕ちてきた神は、人と共に協力し、地上世界の奪還に向けて活動している。
しかし神々は同時に、天上界の事柄を、地上世界に持ち込むべきではないとも考えている。
地上世界に与える影響を危惧し、人々と過剰に関わりを持つ事を避けているのだ。
神そのものの存在も勿論だが、一番は、人が扱うに有り余る天上界の物質や知識を指す。
その神々の叡智は全て、『ヘイブン』と呼ばれる、バベルの本拠地に管理されている。
いーすんやアテナのような人々の保護を任とする神や、辺境の地にて開いた『門』は例外としても……神々が居を構えるバベルの本拠地には、地上世界の人間が立ち入ることは、基本的に許されていない。
ただ、霊装士とその近親者のみが、その敷居を跨ぎ、神の加護を受けることが許されている。
だからこそ、陵弥は霊装士になることを目指しているのだが……
陵弥は夕方のいーすんの言葉を思い出す。自分は、このタスク3に必要不可欠で、クレバスが開き『門』とするまでは、ここを出ることができない。
それに向こうは、有史以前から存在する神様なのだ。世界全体を案じる彼らに、たった一人の少女を救えというのは、あまりにも厚顔無恥なお願いだろう。
それならと、いーすんに無理を言わせて、本土にて伊吹の治療をお願いしようとしても……それもまた、不可能なのだ。
魂が薄い、人を構成する要素の足りない伊吹は、大きな感情の振れを感じると、途端に発作を起こしてしまう。
そればかりか――陵弥が彼女の元を離れると、途端に伊吹の体には、耐え難いほどの激しい発作が襲うのだ。
まるで、陵弥が側にいる――それが、希薄化した魂を、辛うじてつなぎ止めているとでも言うように。
彼女の儚い笑顔と魂は、彼がいるというそれだけのことに、危うげな天秤を掛けて乗っているのだ。
笑顔と言葉を交わす時間がなければ。肌と肌を触れ合わせる温もりがなければ……冗談でもなく、彼女の魂は、白い霧にかすむように消えてなくなるかもしれない。
共に行くしかないのだ。学徒としての任を離れ、霊装士として認められ。そうしてタスク3を離れてヘイブンに入り、神の力を借りて、得体の知れない『何か』を取り除くしかない。
でも、そうする方法は……まるで検討もつかなくて。
事件から六年。学徒となり三年。
「何とかしないとな……一刻も早く、アイツの為にも」
決意を新たにする、しかし根拠もない呟きは、潮風がぬぐい去り。
陵弥を取り囲むように果てなく続く闇色の海に飲まれて、掻き消えた。
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