第5話 全てが、白だった


 校長室を後にした陵弥は、そのまま学校を後にして、ある場所へと向かっていた。

 山の中腹にある学校から沿岸に立つそこに行くまでは中々の距離がある。普段は自分の霊装『地極・奮迅』を展開し五分もたたずに到着するのだが、今日はなんとなく、ゆっくりと歩いて向かった。

 二十分ほどの距離。道中何人かの知り合いにも出会ったが、胡乱気な気分が晴れることはなかった。

 夕日はもう殆どが沈み終え、最後の灯火で水平線の空を真っ赤に燃やしている。

 橙色のアスファルトに視線を落としながら、陵弥はぼんやりと昔のことを思い出した。


 六年前……『大崩落』の数ヶ月後。当時十歳だった陵弥と”彼女”の住んでいた村に、『大崩落』の後を追うような形でクレバスが発生した。

 山中の郊外にある小さな村で、霊素濃度も比較的安定した場所だったそうだ。それだけにバベルの対応は遅れ、到着したときには、全てが終わっていた。

 駆けつけた神々と霊装士が目撃したのは、住民だった”喰い滓”が散らばる、余りにも無惨な光景だった。

 その片隅で、茫然自失で双剣を握る陵弥とその傍らで眠る”彼女”は発見され、即座にバベルで保護された。

 陵弥にも、その当時の記憶はほとんど残っていない。

 霊障の発生前は、”彼女”と共に山に入って遊んでいたのを覚えている。無邪気な子供の、ささやかな冒険だ。いつも一緒だった二人は、その日も変わらず手を取り合って……その最中に、悲劇に襲われた。

 その後に焼き付くように鮮明に覚えているのは、白い霧だ。体にまとわりつき、感覚を霞ませ、意識を淀ませる、禍々しい生が脈打つ白。

 後はただ、ひたすらな孤独と、恐怖。

 寂しくて、ただがむしゃらに白をかき分けて……そんな中で、陵弥はそれを見つけた。

 祠だった。野山を走り回っていた陵弥が見たことも聞いたこともない、石造りの小さな、だけど厳かな静謐さを讃えた祠。

 それは祠の御前に、まるで何者も閉ざす門のように、十字に交えて祀られていた。

 厳かな呪符で何重にも封じられた、自らの霊装となった双剣――『地極・奮迅』。

 まるで誘われるようにそれを手に取り――そこからの記憶は、本当にない。

 次に目覚めたときは、自分は生き残りと呼ばれ、クレバスは神々によって『門』として安定化。双剣は自らの魂に『力』として刻まれていた。

 それが六年前。タスク3で療養を受け、霊装士としての力が認められ、学徒となったのが三年前。

 全てを失う災害から立ち直り、力を得て……それでいて尚、陵弥はこの島に縛られ続けている。

「……世界全体の、危機なんだ。そううまくは、いかないもんだよな」

 強引に納得させるように、一人ごちる。

 気づけばずいぶんと歩いていた。目的地に到着した陵弥は、足を止めてその建物を仰ぎ見た。孤島という環境には不釣り合いなほどに、大きくて綺麗な病院だ。弧を描くように建てられた白壁の病院は千人以上の患者を収容可能で、外傷から内傷、果ては霊障までを扱う総合病院だ。

 陵弥は慣れた足取りで病院内を歩き、受付の看護婦に、部屋番号と名前、面会という用件を伝える。向こうも慣れたもので、ほぼ顔パスで時間も取らされることはなかった。

 優しい緑色のリノリウムの床を、控えめな靴音を立てて歩く。途中でガラガラと音を立てる、夕食のトレーがいくつも乗ったカゴとすれ違う。

 タスクと呼ばれる土地は、バベルの警戒態勢下に敷かれ、常に誰かしらの戦力が在中しているため、霊障に苛まれ行き場を失った人々を保護する避難所の役割も果たしている。

 陵弥のように霊障に襲われて住む場所を失った人が、今でもこの島に訪れ……また”彼女”のように霊障に苛まれている人が、この病院に保護されている。

 患者棟の廊下を歩き、『土峰』とネームプレートがかかった個室の前で立ち止まる。

 小さく深呼吸をして、ノックを二回。引き戸のドアを静かに開いた。

「伊吹」

 名前を呼ぶ。ベッドで上体を起こしていた女の子が、晴れやかな笑顔で出迎えた。

「陵弥。お疲れさま。今日はちょっと遅かったね、どうしたの?」

「何でもないよ。晩ご飯は?」

「ちょうどさっき終わったところ」

 他愛のない会話に、土峰伊吹とみねいぶきは笑みをこぼした。

 華やかでおしとやかな笑顔は控えめに言っても魅力的で、蓮の花を連想させた。

 雪のように白い身体、背中まで伸びる艶やかな髪は、対照的な黒。優しさを体現する、形のいい柳眉。日頃から常に笑顔なのだろう、自然に持ち上がった口角は、心にスッと溶ける穏やかな温かさを感じさせた。

 六年前の霊障に襲われた、二人きりの生き残り。生きている人間では、最もつき合いの長い、子供の頃から遊楽を共にした幼なじみだ。

 変わらない彼女の笑顔に出迎えられて、胸がすくのを感じる。

 そのままベッドの側まで歩み寄ると、陵弥と反対側のベッドに、誰かがうずくまっているのに気付いた。上半身をベッドに投げ出して、ゆるくカールしたショートヘアーをベッドに埋めている。

 ひょいとのぞき込むと、幸せそうに涎を垂らした少年の顔があった。

 タスク3の学徒の一人、詠洸だ。

「すー……すー」

「洸……何してるんだ、コイツは」

「一時間前くらいから来てくれてたんだ。陵弥を待つってお話ししてたら……ご覧の通りだよ」

 苦笑して、伊吹もつんつんと洸のほっぺたをつつく。餅のように柔らかに弾み、「にゅわぁ……」なんてまんざらでもない声が返ってくる。 

「ふふっ……ほんと、緊張感のかけらもないんだから」

「これ、伊吹の膝に乗ってるんだろ? 重くないか?」

「全然。むしろ安心する、かな? 体温が高いのかな、洸くんって、触れているとすごくぽかぽかするの」

「ああ、それは確かに」

 洸の体はとても柔らかく、すべすべとしている。女子もうらやむ肌艶だともっぱらの噂だ。

 そんな風に首肯していると、伊吹が目を細め、意地悪な笑顔を作って見せた。

「ふぅーん? 陵弥って、いつも洸くんとベッタリくっついてるんだ?」

「違うよ。単にアイツが人見知りで、俺になついてるだけ……え、何その疑うような目?」

「何でもないよー。ふふっ、やっぱり洸くんって、陵弥にもこんな感じなんだね」

 口元に当てる手に、不意に注意が向く。

 雪のように白い肌は、長い間日を浴びていない証拠だ。か細い腕には僅かながら骨が浮き出ていて、指先の一挙一動にも、重たい体を無理に動かしているような、どこか彫刻のような印象を抱かせる。

 穏やかな、それでいて生気が極端に薄い伊吹の笑顔は、今にも途絶えそうな蝋燭の火を見ているような、そんな儚さを感じさせた。


 六年間。

 伊吹は、この病院から出ることを許されていない。


 魂が希薄化している。それが診察で出た判断だ。

 伊吹の魂は、極端に薄い。何か身体機能や体調に現れるものではなく……『人としての存在』を構築するエネルギーが、彼女には足りていないのだ。

 安定している時は、このように至って普通だが……不定期に、また大きな感情の振れなどを起こすと、伊吹の体は強烈な発作を起こす。

 原因は――未だ、不明。

 故に、その発作の原因もきっかけも明らかにならず、伊吹は六年もの間、絶対安静の療養を続けている。

 きっかけは当然、あの事件だ。陵弥と共に巻き込まれ、共に生き残った霊障。

 ――白い、霧。

 あまりにも不可思議で不条理な、混沌とした災害に巻き込まれ……二人とも、『まとも』ではいられなかった。

 陵弥の手には、人智を越えた霊装が宿り。

 伊吹の体には、原因不明の災禍が取り憑いた。


「……」

 ずきん、と胸が軋む。

 六年間、こうして会い、言葉を交わすことを続けている。毎日、ほとんど欠かさず、陵弥は伊吹に会いに行く。

 変わらない笑顔で、他愛もない話を続け……

 伊吹の容態は、未だ変わらず。

 陵弥もまた、何も進展していない。

「どうしたの?」

「あ? ……ああ、いや。なんでもない。ホラ、今日も禍の襲撃があったろ? そのせいで、ちょっと疲れてるのかも」

 曖昧に笑って、否定する。

 胸の前で振っていた手を、身を乗り出した伊吹が、そっと握り込んだ。

 陵弥は思わず息を止める。困ったような笑みが、陵弥の顔をのぞき込んでいる。

「もう……無理しちゃ駄目だよ? 陵弥、すぐ無茶しちゃうんだから」

「あのぐらい楽勝だよ。俺の強さ、知ってるだろ?」

「うん、知ってる。陵弥は強いもんね……ミリアちゃんには、負けっぱなしだけど」

「ぅぐ……あ、あれは別に! 勝ち負けとかじゃないし!」

 幼なじみにまで言われると、流石に胸にくる。伊吹の手を放れ見苦しい言い訳をする陵弥を、伊吹は面白そうに見つめている。

 慌ただしくなった空気を察したのだろうか。ベッドで幸せそうに寝息を立てていた洸が、もぞもぞと顔を揺らして、涎の垂れた顔を持ち上げた。

「むな……? りょぉ、や……?」

「お、おお洸、ちょうどいいや! ホラ、俺を待ってたんだろ? 起きて診察するぞ、診察」

「しん、さつぅ……?」

 痛い話から話題を逸らそうと、陵弥は大げさに洸に話を振る。

 寝起きのとろんとした目で陵弥を見つけていた洸は……起きたときの逆再生のように、頭をベッドに埋め直し、

「……めん、どい」

「オイ主治医さん? 流石にそれは怠慢がすぎると思うんだけど?」

「ん……りょーや、できる……やって……」

「洸ー? サボりたいからってそりゃないぞー。洸ー?」

「すぅ……」

「もう寝た!?」

 幸せそうに寝息を立て始める洸を、ゆさゆさと揺する。

「……仲いいなー」

 伊吹はその様子を、ずっと見ていたいとばかりに微笑ましげに眺めていた。


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