第一部 始の記憶

エピローグ

 

 1



 ――20XX年 4月3日。午後4時05分。


 今年も公園の桜は、青空のもと薄紅色の綺麗な花を咲かせている。

 見頃にはまだ少々早いが、恐らくこの桜を見に来たであろう人の姿もちらほら見られる。

 数歩手前を歩く茜は、あの頃と同じ太陽のような笑顔。


「そういえばさ――」


 不意に茜が、歩む速度を緩め切り出した。


「んっ?」


 間の抜けた返答を合図に、茜はくるりと振り返る。


「瞬矢言ったよね?」


 さて、なんのことかと視線を宙に游がせしばし思考を巡らせていると、


「ほら! 瞬矢が私を助けてくれたあの時……」


 当時のいくつかの記憶が呼び起こされ、途端に耳の辺りまで熱を帯びるのが分かった。


「さぁ?」


 だがすぐさまそっぽを向き、忘れたとばかりに素っ惚ける。

 鼻先にかかる黒髪が、わずかに春の気候を孕んだ柔らかな風にそよぐ。

 本当は覚えていた。否――忘れようはずがない、あの時自身が彼女に向けて告げた想いを。


「もっぺん、言ってよ」


 茜はあからさまな照れ隠しと思える瞬矢の反応を、見透かしたようにくすくすと笑いながら身を屈め覗き込み、そんな言葉を投げかけてきた。


 2人の間を桜の花びらがひらりと横切り、一瞬彼女の笑顔を視界から隠す。

 その光景に瞬矢は、はっとし目を見張る。

 頬を染め、にこりとはにかんだその笑顔を、向かって左斜め後方より夕日が照らした。

 右手でくしゃりと頭を押さえ、首を大きく右に振り地面に視線を逸らす。


「ばっ……こんな人前で言えるか!」


 仮にも公衆の面前。ましてや3メートル以上も離れたこの距離で言えば、少なからず注目を集めること間違いなしである。


 茜は下唇に右手の人差し指を軽く当てながらしばし考える様子を見せ、そして地を蹴り、一転して開いていた2人の距離を詰める。

 ぶつかりそうになり身構えるが栗色の髪を揺らし、その寸でのところでぴたりと止まった。


「これなら、誰にも聞かれないでしょ?」


 立ち止まった拍子に一旦俯き、すぐさま上目遣いでこちらを見て笑う茜に瞬矢は目を伏せ、敵わないとばかりに小さく笑みを漏らす。

 そして腹を括るのだった。

 本当は、こんなことやたらと言うものではない。だが――、


「もーいっぺん、だけだからな」


 ふっと肩を落とし息をついた瞬矢は、小柄な茜の身長と自分との身長差を埋めるべく、前のめりに少し屈む。


「俺は、お前のことが――」


 言葉を紡ぐ唇に触れた柔らかな感触が、言いかけた台詞の続きを塞いだ。


「――!」


 あまりにも突発的な出来事に、瞬矢は驚き目を見開く。

 春風に、栗色の羽を靡かせ唇に蝶がとまる。襟元を掴み寄り添うそれは、軽く触れるだけのもの。


 触れていた体と唇が離れると、茜は恥じらうように頬を紅潮させ口元に手を添える。

 そして視線を逸らし目を伏せ、俯きがちに呟く。


「……やっぱり、その言葉は取っておいて。重みがなくなるし、薄くなりそうだから……」


 にわかに頬を染めたまま、同意を求めるかの如くちらっと瞬矢を見上げた。

 ひらひらと舞う花びらが茶色い髪に着地し、淡いピンクを彩る。

 心拍が大きく一度跳ね上がると共に、彼女もまた同じことを思っていたのかと頬を緩め、黙って肯定の合図を送った。


 揺れる瞳は互いの瞳の奥に映る自分を探し、2人の距離は次第に近まる。

 栗色の茜の髪をくように、頭に手を当てながらそっと体を抱き寄せ、再び唇を重ねようとしたその時――。

 携帯電話の呼び出し音がそれを阻む。まるで示し合わせたかのような着信音に、瞬矢たちは再び寄せ合っていた体を離す。


「刹那から……かもよ?」


 ズボンのポケットの中で鳴り続ける携帯を手に取り、発信者を確認し眉をひそめる。通話ボタンを押すと、


『――やぁ、兄さん』


 通話口の向こう側から聞こえてきたのは、自分よりも若干高く、けれどもどこか深い響きのある声の持ち主だった。


「なんだ、刹那……何か用か?」


 折角のところを邪魔されたという不満げな意思を露にしながらも、用件を訊ねる。


『――いや、特別用はないよ。……もしかして、邪魔した?』


 通話口の向こうで、刹那がくすくすと笑う。


「お前さ、絶対わざとだろ?」


 耳に当てた携帯に向かい皮肉めいた台詞を放つも、口元には笑みが溢れている。

 2人の他愛ないやり取りに、思わず茜も両手で口を覆い失笑を隠す。


 そう。2年前、一向に意識が戻る気配もなく昏々と眠り続けていた刹那は、丁度瞬矢が意識を取り戻して1ヶ月余りの後、目を覚ましたのだ。


「今、どこにいるんだ?」


 刹那は電話口の向こうでくすりと笑い、少し間を置き答える。

 遠くその背後からは、ひゅう、と風の鳴く音が聞こえた。


「――はぁ!? なんだそれ?」


 刹那の返答に、瞬矢は今にも噛みつかんばかりに声を荒らげる。


『――あ、そろそろ切らないと。またね、兄さん』


「……って、おい! ちょっ……!」


 だが瞬矢の静止も虚しく通話は耳元で機械的な音を上げ、ぷつりと切れた。


「……切りやがった」


 一定のリズムで終話音が聞こえる携帯を耳から離し、通話終了となった画面を怪訝な表情で見ながら呟く瞬矢。

 右斜め隣で、一部始終を聞いていた茜がひょいと覗き込む。


「刹那、どこにいるって?」


 茜が訊ね、瞬矢は終話ボタンを押しもとの場所に携帯を仕舞いながらひとつ溜め息をつき答える。


「さぁな。ただ……」


 一旦言葉を途切れさせ、茜を見やり続けた。


「『少し寒いけど、凄く景観のいいところ』って言ってたな」


 それがどこなのか分からないが、少なくとも元気でいることが分かった。

 ならば、それでいい。瞬矢はそう思うのだった。



 2



 同年、4月3日。午前4時20分。

 まだ薄暗く、朝靄が覆う高地の外れにその人物はいた。


 万年雪を被った山脈を彼方に捉え、冷たく乾いた風にライトグレーのコートの裾をはためかせ断崖に立つ1人の青年。

 北風に靡く、艶やかな黒髪の間から覗かせる茶色い双眸。口元には薄く笑みが窺えた。

 彼の左手には、耳から離した携帯電話。


「ふふっ……。相変わらずだな、兄さんは」


 そう言い、彼――刹那はくすりと笑みを溢した。

 だがその言動からは、彼自身がどこか瞬矢の反応を楽しんでいるようにすら見て取れる。


 刹那は、通話を終えた携帯をコートの左ポケットに仕舞う。

 そしてそこから何か書かれたメモを取り出し視線を落とすと、今度はゆっくりと両目を閉じる。


(彼女のくれた情報が正しければ、この先で間違いない)


 瞼を持ち上げた時、彼の瞳の色は茶色から淡く光を帯びた薄紫色に変わっていた。


 白みだした空のわずかな光に照らされ、視界に青々とした木々が広がる。

 眼下には、ヴルタヴァの如き雄大な湾曲した河川。その先に、今の刹那の目的とする場所があった。

 ぐしゃり、握り潰したメモをポケットに仕舞いながら、ふっとひとつ溜め息を吐く。


「……さて、と。そろそろ行くか」


 薄紫色の瞳で、目標である前方の小高い山を見据え、前屈気味に勢いをつけ軽快に右足で地を蹴る。

 地面を離れたその体は、ふわりと空中で大きな弧を描く。

 そしてその姿は次第に小さくなり、やがて山々の裾野に広がる深緑の先へと溶け込み消えていった。

 彼のいた場所には乾いた風がそっと吹き抜ける。




 【S】―エス―

 第一部‐始の記憶‐ 完

 

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【S】―エス― 始の記憶 三吉亜侑 @strawberry13xx

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