覚醒
1
その日は12月22日。もう、かれこれ2週間以上も彼の姿を見ていない。
薄暗い部屋の片隅、幼い茜は窓の外でちらつく雪を眺める。その表情はどこか寂しげだ。
「……りく」
もう、彼とは会えないんじゃないか。けれどもあんな『約束』をしたのだから、きっと大丈夫――そんなことを考えている時だった。
「……!」
別の窓から音がして、はっと右側を振り返るとそこにはずっと会いたかった人物『りく』がいた。
外は夜の
薄着な彼は窓枠に手をつき足をかけ苦々しい面持ちで部屋の中を覗き込む。
「りく!」
よく見れば、彼の右手からは赤い血が滴り落ち、白いシャツの袖口を染めていた。彼を招き入れ、半開きとなった窓から吹き込む風にカーテンが揺れる。
以前のように向かい合い、絨毯の敷かれた床へ座り込む2人。
「ふふっ……」
「はは……っ」
笑顔を見せるお互いの口から白い息が漏れ、それは戯れるように2人の中ほどで絡み合いひとつに混ざる。
おもむろに、茜は自分が持っていた端に蝶の模様が入った白いハンカチを、彼の右手に巻く。
「これでよし、っと!」
いったい、彼に何があったのか。気になりはしたが、それよりもこうして再び彼と会えたことが、幼い茜には何より嬉しかった。
りくは掌に巻かれたハンカチを目視し、そして茜の笑顔を見ながら、ゆっくりとそれでいて静かに言った。
「ここから逃げるんだ」
まだ充分幼さの残る声に抑揚はなく、薄暗い為、輪郭ほどしか表情は窺えない。
「……りくは?」
予期せぬ彼の言葉にぱっちりとした瞳は更に見開かれ、切り揃えられた前髪の奥で不安げに眉尻を下げる。
どこか思慮深く細めた彼の瞳の奥が、一瞬寂しげに揺らいだ気がした。
「僕は、後から行くよ」
それは、一時の決別を知らせる言葉。栗色の長い髪を躍らせ、固く目を瞑り「いやだ」と大きく横にかぶりを振る。
もう離れたくない、このまま会えなくなるかもしれない。そんな思いがよぎった為だ。
うっすらと瞼を持ち上げた先の視界が滲む。
「……うっ、ひぐ……」
俯いたことで目の
いつの間にか漏れていた嗚咽。
「やっぱり、泣き虫だなぁ」
からかうようにくすりと笑って、りくはそう言葉を発した。途端、彼は幼い茜の両肩をそっと抱き顔を離すと、潤んだ目を見つめながら口元を緩ませる。
ゆっくりと解けた唇が紡いだ言葉。
「大丈夫、絶対また会えるから。だから――」
「忘れないで」そう言って彼は頬をにわかに染め、にこりと微笑んだ。
**
不意によぎったのは、あの日の記憶。コンクリートの床に転がる腕輪に刻まれた【S‐06】と、そしてそれ以外に初めて見るもうひとつの数字。
「僕は、誰……?」
そう言い振り仰いだ彼の瞳と、自身の瞳がかち合う。背後から差す月明かりに照らされ、紺色を湛えた双眸の奥に潜む閉じた瞳孔は、不安定に揺らぐ。
彼の問いかけに茜はすぐに答えることができず、押し黙ってしまう。彼が何者か、その答えはとっくに出ていたはずなのに。
――声、仕草、瞳の色。
茜は懸命に記憶の糸を手繰り、あの時見た『彼』を思い出そうとした。だが思い出せるのは断片的な残像ばかり。
不意に甦る、10年前のものとおぼしき記憶。
『――では宜しく頼む』
頭の中に、聞き慣れた声が響く。
蛍光灯の明かりが煌々と照らす眩い部屋で、彼女の父親、東雲 暁が言う。
彼の傍らには、
男の襟元には、十字架に
「……っ!?」
思わずぎゅっと瞼を閉じて、両手で頭を抱え込んだ。
(な、何!? 今の……)
だが続けざまに『彼は死んだ』という言葉が甦り、思考を断ち切ろうと大きく左右にかぶりを振る。茜が動揺を隠しきれずにいる中で、前方からくすりと一笑に伏す声が聞こえてきた。
「思い出した?」
それは月光に照らされ、輪郭に陰りが出来ているせいだろうか。
口角をつり上げ、だが泣いているような笑っているような、実に曖昧な表情で、茫然とする瞬矢を見下ろし刹那は言った。
「どこにいても、ずっと馴染めず独りでいた。君だってそうだろう?」
不安定に揺らぐ薄紫の瞳で自身の右手を見やり、刹那は続ける。
「君も、自分がみんなとどこか違うことを感じてた。だからいつも他人と距離を置いてた」
「――!」
図星とばかりに肩を震わせ、瞳はこれ以上ないほど見開く。
「っ……!」
どうしてそんなこと――言いかけた台詞は詰まって交互に2人に視線を送り、最終的に刹那を見やる。
まるで全てを見てきたかのような刹那の口振り。だが、瞬矢はそれを否定しようとしない。俯いたまま刮目した視線は、手元の腕輪を捉える。
(なんで何も言い返さないの? 確かに初めは壁があるって思ってた。けど……)
見えない心の壁。まるでそれを隠すかのような素っ気なさ。
だが決してそれだけではないことを、茜は誰よりも知っていた。今までの出来事がフラッシュバックする。
彼が言い返さないのは少なからず認めているからだと悟り、けれども一方的に言われ続ける歯痒さに胸の前で右手を握り、瞬矢を映す視界に熱いものが込み上げる。
「兵器として造られた僕らに、感情も名前も――何もいらない。あるのは目の前にあるものを破壊する衝動だけ」
淡々とした口調で、更に刹那が追い打ちをかける。見開かれ空虚を捉える薄紫色の双眸は、無感動に瞬矢を見下ろす 。
「ねぇ、そうでしょ『瞬矢』?」
抑揚のない耳に障りのよい声が、静かに瞬矢を威圧する。
兵器として造り出され、ただ破壊する為だけの心なき存在。ならば今まで見せてきた表情、その全てが貼り付けた偽りのものだったのだろうか。
――否。どんな形であれ人が『人』でありそこに個がある以上、感情を完全に消し去ることはできないのだ。
「瞬矢!」
どうしようもなくあふれる気持ちに加え、背後の窓から差す月明かりが後押しし、気づいた時には声を張り上げ彼の『名前』を呼んでいた。
「誰がなんて言おうと、あなたは『斎藤 瞬矢』なんだから! たまに優しいけど、どこか不器用で――。だけど……」
発した言葉は尻すぼみとなり、ふっと膝から崩れ落ちる。俯き両手を重ね握り締め、確かめた想いは今自身の中にある確固としたものだった。
この気持ちに偽りはない。
顔を上げ、ゆっくりだがはっきりと伝える。
「例えあなたが何者でも、私は信じてる。だって……あなたはあなたなんだから」
胸の前で握り締めた両手を下ろし肩の力を抜き、にこりと微笑んだ。その両目には、いっぱいの涙を浮かべて。
振り向いた彼は、月明かりのもとにその表情を晒す。
「あ……か、ね?」
辿々しく自分を呼ぶ声。それすら今ではとても近くに感じた。表情はまだ強張っているが、その瞳の奥にはわずかに穏やかさが戻りつつあった。
頷くように首を傾げはにかんだ際、目の端から温かな滴が一筋溢れ落ちる。それが単に悲しみから流れたものなのか、最早分からない。
ただ、茜の語りかけた言葉とはにかみ、それに対して見せた彼の微笑みが全てを物語っていた。
それは、人間の最も純粋な部分にある、最も複雑な感情そのものではなかろうか。時に醜くも、誰しもが少なからず求めてやまない――【愛情】。
そっと右手を差し伸べようとした時、
「――!」
目の前に赤い絵の具のようなものが飛散する。
自分の身に何が起こったのか分からなかった。ただ突然、鋭利な刃先を向け襲いかかるガラスの破片に身動きひとつとれず、固く目を瞑り後方へ尻もちをつく。
恐る恐る目を開けると視界は黒く覆われ――。
「……!?」
目の前の光景に言葉を失う。隣にいたはずの瞬矢が自分を押しのけ庇い覆い被さっていたのだ。
向かって右の背中に破片が突き刺さり、傷口から溢れる鮮血が赤黒くコートを濡らし染めていた。
「なんで?」そう訊ねる声が、あからさまな動揺を表し震える。すると意外にも彼は苦悶で引きつった表情に薄い笑みを浮かべ答えた。
「大切な奴……の、たった1人も護れなくてどうする」
紺色を湛えた黒い瞳の奥には、小さくも確固たる信念に満ちた輝きが……茜がずっと見てきた『斎藤 瞬矢』としての姿があった。
その瞳に、茜はほんの一瞬だが奇妙な懐かしさを覚え、よぎった可能性によもやと目を見開く。
またひとつ展開されたガラス片が空を切り、ざくりと小気味よい音を立てて左の背中、肩甲骨の下に突き刺さる。
「……っ! ……もう、傷つけたくない。傷つけ……させない!」
ひゅう、ひゅうと途切れながらも断言した台詞は、まるで自身に言い聞かせているかのようでもあった。
「――げほっ!」
咳き込むと同時に、茜の左頬にぴちゃっと温かな赤い飛沫が付着する。血反吐は茜が着ている赤いコートにかかり、ぼたぼたと床に滴り落ちる。
「……わかっ、も……やめ――っ」
声にならない声と共に胸を締め付ける感情が込み上げ、目の前が滲む。
(……もう、いいから)
堪えきれなくなった感情が溢れ落ちる。
「これで最後だ」
刹那は少し寂しげに言うと、鉄材が背後から胸を貫く。赤く彩られた鉄材の尖端は、茜の眼前でぴたりと止まった。
途端に今までそこにあった温もりは遠のき、視界を遮っていた体はゆらり赤い軌道を描き粉塵を上げてどさりと床に倒れ込む。
茜は両手をつき瞬矢のもとに這い寄る。彼の体の下には、血溜まりができていた。
「……なんで?」
「そんな顔、すんな……」
彼が伸ばした左手の指先が右頬に触れる。それに伴い溢れる涙を、最早その目に留めることができなかった。それを見て、瞬矢は自嘲ぎみにふっと笑い弱々しく言葉を紡ぐ。
「……やっぱ、だめだな……。ずっと、泣かせてばっかりだ……。茜、俺はお前の……」
言い終えるより早く、頬に触れていた左手の力が抜ける。彼の双眸に宿る命の光は、次第に小さく弱々しく薄れていった。
「瞬矢!?」
揺すっても呼びかけても反応がない。何かを言いかけたまま半開きとなった口、瞳は最早何ものをも映してはいない。
瞬矢の左手を、自らの両手で包むようにして見下ろす。
堪えきれなくなった感情が睫毛を濡らし、その先端から重力に従いいくつもの温かな滴が彼の頬に当たっては弾かれ波紋を描く。
床に広がる血溜まりが膝の辺りにまで浸食を始めていた。
「さよなら」
「!」
茜は咄嗟に声のした方を振り返る。刹那の放った鉄材の先端が牙を剥き、すぐそこまで迫っていた。
2
あれはいつのことだっただろうか。
屋敷の庭から見上げた空には分厚い雲がかかっている。それは太陽を遮り、そのお陰で大気はしんと冷え、今にも雪が降りだしそうだ。
「まってよ、りく!」
幼い彼女は刷り込みされた雛鳥のように背後をついて回り、どさり、乾いた音に振り返るとやはり地面に突っ伏す彼女がいた。
「大丈夫?」
起き上がり地べたへ
「りく、ずっといっしょだよ?」
転んで足を挫いた少女はりくの背中におぶさり、嬉しそうに頬を赤らめ言う。背中から伝わる彼女の温もりだけが、少年の心に灯火をつけた。
「もちろんさ!」
頬に落ちては溶ける雪の冷たさにも負けない『傍にいたい』という気持ちに変わり、足取りも自然と力強いものとなる。
「ねぇ、りく……」
顔のすぐ近くで少女の不安げな声が聞こえてきた。少年は黒髪を揺らし、彼女の方に少しだけ顔を向ける。
少女は、か細く今にも消え入りそうな声で続ける。
「もし、もしもだよ。私たちバラバラになったらどうしよう……」
漠然としたものだが、彼女が危惧するのも無理はない。
暗い場所で眠り続け目覚めた自身の出生を思えばこれから先、いつ何が起こるかなど分からないのだ。
「大丈夫! 例え離ればなれになっても、茜ちゃんはぜったいに僕が見つけて護ってみせるから!」
少女の不安をくみ取ってか、りくはそう言い笑ってみせる。どこからか、夕刻を知らせるメロディーが聞こえてきた。
――ドヴォルザーク作曲、交響曲第9番第2楽章『新世界より』。
(そうだ。僕が――)
だが、その少年と少女が再び会うことはなく……。
「ずっといっしょだよ?」、「ぜったい護ってみせる」それが、10年前に東雲 茜ともう1人の少年りくが交わした最後の言葉だった。
**
ぽたりと頬に当たった水滴は、あの日降っていた初雪よりも温かく、彼の深層を潤わせた。
「――や……っ!」
遠くで声が聞こえた。今にも泣き出してしまいそうな、とても大切な人の声。
《――彼女を、護れ!》
頭の隅々にまで響いた自身の声と記憶に、瞬矢の双眸は失いかけていた輝きを取り戻す。慟哭と共にかっと見開かれたその瞳は、青く淡い光を帯びていた。
背中から胸を貫く鉄材はそのままに、ぎろりと後方をねめつける。途端、体全体を渦のように取り巻く空気が弾け、茜に牙を剥き襲いかかる鉄材を撥ね飛ばした。
突き刺さっていた鉄材やガラス片はその端から細かく粒子分解され、傷口は瞬く間に修復、再生されてゆく。
のそりと起き上がった瞬矢は、自身を中心にゆるりと大気を纏わせながら茜の前に立ち塞がる。
はためく衣服の裂け目から覗く裂傷部分は、わずかに赤みを残すだけとなっていた。
「!?」
常識では到底あり得ない光景に、茜は瞬きも忘れて目を見開く。
「約束しただろ? 『必ず護ってみせる』って」
竜巻の終わりの如くふわりと風がやみ、淡く光る水色の瞳のまま背後の茜に微笑みかける。
「――っ! りく!?」
瞬矢は少しばかり目を見張る。再び彼女にその名前で呼ばれるなど、ましてや自分が『りく』だと気づいているとは、今この瞬間まで思ってもいなかったからだ。
「りく――」再びそう言いかけて茜は下唇を噛み大きくかぶりを横に振り、俯き開口する。
「瞬矢……私が、2人を見分けられなかったから。よく見れば全然違うのに……。だから――」
すでに溢れた涙を堪えるように、時折咽びながらも辿々しい口調で言葉を紡ぐ。
そう。『りく』は彼らの共有名。先だってその名前で呼ばれたのは瞬矢であるが、刹那もまた彼女から同じ名前で呼ばれていたのだ。
そして彼女は、腕輪に刻まれた【S‐06】という数字を『りく』という少年を判別する為の目印にしていただけ。
全てを聞き終えぬ内に瞬矢は瞑目し、口角だけを少しばかり吊りあげ言葉の続きを遮るように言う。
「分かったからもう泣くな」
「お前は悪くない」そう続け、ゆっくりと目を開ける。そして、つい先ほど靄に染まり白濁する意識の中で聞いた茜の言葉を思い出す。
(そうだ、どっちがどっちの数字かなんて関係ない。俺は俺なんだ)
「……茜、以前俺に言ったよな? 『もし自分が分からなくなっても、目的だけは見失うな』って」
「えっ?」
床にへたり込んだまま、きょとんと瞬矢を見上げる彼女から返ってきたのは、間の抜けた返答。
つい2週間以上前のことだったが、もう何ヵ月も前……随分昔のことのように思えた。
刹那の生存を、事件への関与を知った時から瞬矢にはひとつの確固とした目的があり、それだけは何があろうと決して揺らぐことも忘れることもなかった。
あの日の言葉と自身の思いを照らし合わせるかの如く目を伏せ、やがてゆっくりと瞼を持ち上げ開口する。
「お前の言ったとおりだ」
眉を聳やかせ、瞬矢は目の前にいる刹那を見据えた。彼は相変わらず薄紫色の両目を細め、くすくすと笑みを浮かべている。
彼の背後には、直径2、3メートルほどの歪んだ真っ暗な空間。その空間の中、放出されぶつかり合ったエネルギーを中心に細かい光の粒が終結する。
それは、新たな次元を形成しようとしていた。瞬矢はそこにひとつの確信を得、言葉を紡ぐ。
「俺の『目的』は――」
淡い光を放つ水色の双眸は、1人の個を持った人間として確固たる意志のもと眼前の人物を鋭く見つめていた。
「――俺は、
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