第10章 闘う理由。

あの日

 

 1



 それは10年前、とある秋日のこと。1人の少年は自分たちの部屋をこそりと抜け出し、窓のない廊下を歩いていた。


(ここはどこだろう……?)


 半開きとなっているドアの向こうから明るい光が差し込む。光の先を見ようと少年は金色のドアノブに手をかけ、その際わずかに音が鳴る。


「……だれ?」


 窓の外の緑樹でたむろう小鳥のさえずりに混じり、高く、けれども決して耳につかない少女の声が聞こえてきた。

 一瞬、どきりと小さな胸の鼓動が跳ね上がる。だがしかしこの先に広がる世界への探求心に負け、恐る恐るドアを開けた。


「――っ!」


 あまりの眩しさに少年は思わずぎゅっと目を瞑る。差し込む日光にも慣れてきた頃、そろそろと瞼を開く。

 まず視界に飛び込んできたのは、暖色系の絨毯が敷かれた広い部屋に窓際でふわりと靡く白いカーテンレース。そして――。


「あなた、だあれ?」


 広い部屋の奥で床にしゃがみ込む、自分よりも幼い少女の姿だった。

 再び問いかけてきた彼女のそれに、敵意や警戒心などといった類いのものは感じられず、むしろそれらとは対して非なる好奇心で溢れていた。


「僕は……――」


 答えようとしたが、すぐに押し黙ってしまう。少年には名乗ることのできる『名前』がなかったからだ。しかし、自分を自分たらしめんが為の『何か』が必要であり、少年が思案に暮れていると――。


「わからないの?」


 黙ってこくん、と首を縦に振る。


「じゃあ、私が名前つけたげる!」


 白地に小さな花柄のワンピースを着た5、6歳くらいの少女は、「こっちおいでよ」そう言って栗色の長い髪を躍らせ少年が思いもしなかった言葉を放つ。


「……?」


 年の頃10歳ほどの少年はゆっくりと少女のもとへ歩み寄り、暖色系の絨毯の上にぺたんとしゃがみ込む。

 そしていきなり出された少女の提案につややかな黒髪を揺らし不思議に思い、こてん、と小首を傾げる。


 それもそのはず。――名前。そんな概念など、少年の中に存在していなかったのだから。


「んーと……」


 だが少女はそんなことお構いなしといった様子だ。少年の目の前でくりくりとした愛らしい茶色の瞳を游がせ、懸命に『名前』というものを考えている。

 やがて少女は、少年が左手首につけていたデジタル式の腕時計のような物に視線を落とす。そして、そこに大きく刻まれているシリアルナンバーを見て何か思いついたのか、嬉しそうに「あっ!」と声を上げ言う。


「『りく』!」


「りく……?」


 いったい何をもってそのような単語が出たのかと、少年は提示されたその『名前』を鸚鵡おうむ返しに訊ねる。


「ほら、これ」


 少年が左手首につけている、一見すると腕時計のような銀色の腕輪。そこに刻まれた【S‐06】という数字の『6』の部分を指差した。

 なんでも、父親の会社内に『六野りくの』という人がいて、数字と読みが同じことに気づき思いついたらしい。


「ふぅん」


 腕輪に彫られてある数字を見つめ、少年は妙に納得したようにひとつ鼻から息を漏らす。やがて、目を伏せたまま嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう。えっと……」


 ふっと顔を上げ、彼はあることに気づく。


(……この子、なんていうんだろう?)


 きっと彼女にも、彼女だけの『名前』があるに違いない。


「そういや、君の名前は?」


 気づいた時、少年は目の前の少女に名前を訊ねていた。

 この少女は、つい今しがた会ったばかりの自分に『名前』というものを与え、呼んでくれた。自分もまた彼女の名前を呼びたい。

 ……だが少年は、その少女の名前をまだ知らなかったのだ。


「私の名前はね――」


 それは、10月産まれの彼女にぴったりな名前。季節の変わり目になると、木々のほとんどがその色に染まるという。


「いい名前だね」


 名前の良し悪しなどそんなもの彼には分からなかったが、窓の外で太陽に照らされ色づく枝葉と彼女を見比べ、微笑は絶やさぬまま率直に思ったことを口にした。

 ひとつ大きく頷き、両肩を竦ませにこにことはにかむ彼女のそれは、彼にとって見たこともないとても新鮮なものだった。


 うららかな秋の光が差し込むその日、1人の少年に名前がついた。どことなく物静かで、艶やかな黒髪の少年。


「また、来てもいい?」


 少し顎を引き遠慮がちに少年は問う。偶然の出会いだったが、少年はまた彼女と会いたい、そして話したい……そう強く思ったのだ。


 窓から差し込む秋の斜陽を浴びて、桜色に頬を染めた少女は、満面の笑顔で再び大きく頷く。

 笑顔がよく似合う、栗色の長い髪をしたその少女の名は『茜』。


 その日、1人の少年に名前がついた。『りく』――それが、その少年につけられた初めての名前。



      **



「ねぇ、交換しようよ」


 小窓から屋根裏部屋へ日の光が差し込む午後、分身である彼の前にしゃがみ込み、口角をつり上げ片割れの少年は言った。


「えっ?」


 いったいなんのことか分からず「何を?」そう訊ねると、彼は自らの左手首にある腕輪を外し、


「これさ」


 そう言って目線よりやや下にそれを掲げた。


 オレンジ色とも臙脂えんじ色ともとれない、色褪せくすんだ絨毯が敷かれた床で、鏡映しのように向かい合う2人。

 手入れの行き届かない窓から差す日の光が、埃っぽさを助長する。部屋の端に積まれた本の山が2人を取り囲む。


「もちろん、ずっとじゃない。2、3日おきに取り換えるんだ。そうすれば僕らは互いを共有できる」


 瞳の奥を覗き込む彼は、どこか思惑的な笑みで言う。


 こうして【S‐06】と【S‐07】は互いの持つ数字を交換した。互いが全てだった彼らは、その『全て』を共有する為に。つまり数字を交換した時だけ、少年は『もう1人の自分』になれるのだ。

 それはまだ名前がない、加えて彼らだからこそできた芸当。

 ――だがある日のこと。


「僕ね『名前』がついたんだ」


 色褪せた絨毯に両手をつき、身を乗り出して嬉しそうに彼は言う。


「……え?」


 暖かな日差しの中、それとは正反対に片割れの少年の表情が凍る。ずっと、2人きりだった世界。それを変えたのは、1人の少女の存在だった。

 限られた世界に2人きりだった少年は、ただ全てを共有したいと思っただけ。少年は少しばかり視線を手元に落とす。


 思えば、目覚めてこの方、何かいいことがあっただろうか。「名前がついた」そう言い彼が嬉しそうに笑うものだから、その気持ちを表情を壊したくなかった。

 ――嘆息。凍てつき固まった表情をふっと解き、同じく身を乗り出し訊ねた。


「それで、どんな名前なの?」


 黒髪と共に、白いシャツの襟元に結わえられた髪と同色の細く長いリボンが揺れる。

 また同時に、彼らが左手首に嵌めている銀色の腕輪が、くすんだ小さな窓から差す太陽光に鈍く煌めいた。少年は頬を染め、はにかみながら開口する。


「あのねっ――」



      **



 そこは、クリーム色の外壁が特徴的な西洋風の屋敷と、庭には天に向かい真っ直ぐ聳える楓の木。その屋敷の中に少年はいた。


 12月上旬。今にも天気は崩れそうだ。


 片割れの姿が見当たらない。きっと彼は今頃、先日会った恐らくここの娘であろう『茜』という少女と遊んでいるのだろう。


 ある部屋の奥から女の声がした。少年は廊下の壁にぴたりと身を寄せ、少し開いたドアの傍へ這い寄る。


「こうして見ていると、まるで本当に……」


 窓際に立つ白衣を着た1人の女が、その光景を見て不意にそう漏らす。


(……何? 今、なんて?)


 壁に背中を合わせ聞き耳を立てていた少年は、目を見開く。交わされる会話は断片的にしか聞き取れなかった。


「本当にいいんですか? あの子たちは――」


 40代くらいの、この男も白衣を着ている。だが他の者達と比べ、会話の内容にやや牽制ぎみな様子だ。


 左隣にいた白衣を着た男の言葉に、人物は冷静だが重々しい口調で後ろ手に窓の外を見下ろし答える。部屋の外でもう1人、少年が聞いているとも知らず。


「ああ。この研究には、多額の費用をつぎ込んでいる。それに、今さら後戻りなど……」


 「しかし――」と言いかけた言葉を飲み込み、思慮深げに固く口を閉ざす。


(『研究』? ……どういうこと?)


 よぎる一抹の不安から、聞こえてしまうのではないか思うくらい心臓が高鳴り早鐘を打つ。


 眼鏡をかけ白衣を着たその人物は窓の外を黙視すると踵を返し、何かを決断したかの如く言い放つ。


「今日から実験を開始する!」


「――!」


 廊下に息を潜めた少年は、その言葉に目を見張り、一瞬びくりと肩を震わせる。


(……知らせなきゃ!)


 ドアへと近づく気配に、少年は足音を殺し、逃げるようにしてその場を離れる。彼が腕を振り上げる度に、左手首から覗く腕輪。そこには【S‐07】と彫られた数字がちらつく。


 廊下を走り抜ける中、ある一室の前でふと立ち止まる。いつもならさして気に留めないはずの部屋のドアだったが、今日はやたらと胸の奥がざわつく。


 ドアノブに手をかけ、ゆっくりと回し開けた。少年は引き寄せられるように一番奥の机へ。そこで目にしたファイルに、少年はいつの間にか片割れへ知らせることも忘れていた。


 難しいことまでは分からないが、その中でわずかに読めた文字がいくつかあった。


 クローン、変異体、アスタリスク、【S】計画――。


 更にファイルを辿った先にあった名前は――『東雲 刹那』。そしてその写真。それは自分と同じ容貌をした、黒髪の少年だった。


 ずっと、ずっと不思議に思っていた。あの暗く冷たい場所で目覚め、そして何より彼と自分が瓜二つな訳。


 耐え難い真実に打ちのめされ、がくがくと両膝が震える。持っていたA4サイズのファイルの束が、するりと両手から滑り落ちた。


 自身がこの場に存在する理由を知った彼は、右手で左胸を押さえ、シャツに隠れたそれに爪を立てる。


「あぁ……あ、ぁああぁぁ――っ!」


 嗚咽にも近い叫喚、魂からの叫び。それは部屋のドアを抜けて廊下の先まで届き、少年は膝から床へどさりと崩れ落ちる。


 彼らの、限られた小さな世界の中の大きな自由は、その日を境にぷつりと絶たれた。



 

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