崩壊

 

 1



 ――10年前、雲に覆われた空は今にも雪が降りだしそうだった。

 よぎるのは、彼の後を追いかけ転び足を挫いたあの日のこと。

 地面にへたり込み頬を染めながら、それでも握った両手で涙を拭う。すると急に視界が曇り、見上げると――鈍い逆光の中、笑顔で手を差し伸べる彼がいた。


「大丈夫?」


 そう言って首を傾げた際に、艶やかな黒髪がさらりと彼の顔にかかる。伸ばした手には、銀色の腕輪が光を反射し眩しく輝く。

 そこに刻まれた数字は【S‐06】。


(瞬矢、……刹那? りく……あなたは誰?)



      **



「ん……」


 妙に息苦しい。唇に走る違和感。柔らかな髪の毛の質感が鼻筋にかかる。


(……瞬矢? ――違う!)


 咄嗟に唇へと噛みつく。


「っ!」


 密着していた互いの体がするりと離れる。その隙に茜は突き放し手中から逃れ、よたよたと後退した。

 茶色い瞳を潤ませ、刹那に対し敵意の眼差しを向ける。違和感はいまだ残り、口元を押さえ、膝からへたり込む。留まりきれなくなった感情が幾筋も頬を伝い、ぽたぽたと溢れ落ちた。


 刹那は腹を抱えるように身を屈め、左手の指先で口の端に滲む血を拭う。


「ふっ、はは……っ!」


 俯きその手で顔半分を覆い、糸が切れたように笑い始めた。


「相変わらず泣き虫だなぁ。ねぇ『瞬矢』、そう思う――!?」


 けれども、いるはずの場所に瞬矢はおらず、壁に突き刺さる血のついた鉄骨だけが残されていた。


(えっ、いない?)


 ふっと目の前が暗くなり、天を仰ぐと影が差した頭上から瞬矢が一気に肉薄し、大きなモーションで振り被る。


「――!」


 予想外の一撃に、刹那はわずかに反応が遅れる。

 鈍い衝撃音の後、立ち上る粉塵。振り下ろされた鉄パイプは、ゆうにコンクリートの床を打ち砕く。


「瞬……矢?」


 茜は目をしばたたかせ、ひとつ呆けた声を上げて眼前の彼を見つめる。


 体勢を低く屈めたまま淡い水色の瞳で飛散したコンクリート片の合間からぎろりと刹那をねめつけ、もう一撃。

 だが、その一撃も刹那には見切られていた。彼は半歩後退しながら、攻撃が繰り出されるぎりぎりのところで薄紫色の双眸をかっと見開く。


(動きを読まれてる!)


「瞬矢!」


 束の間、周囲に襲う風圧。


「……きゃっ!?」


 思わず両腕で顔を覆い、固く目を伏せる。ゆっくり目を開けると、ひしゃげた鉄パイプを手にした瞬矢は茜の眼前に背を向け立つ。

 そろそろと胸元に下ろされた手を握り、瞬矢を見上げる。前にも見たことのある、あの綺麗だが冷たい水色の目が恐ろしかった。

 近づくことを躊躇っていると、瞬矢は淡く光を帯びた水色の瞳をふっと瞼の内に隠し、顔だけで少し振り返り言う。


「助けんの……遅くなってごめんな。少し、離れててくれ」


 再び瞼を持ち上げ微笑む彼の双眸はいつも通りで、むしろ柔らかな光を宿した黒水晶のよう。けれどもその瞳は、どこか寂しく切なく揺らめいていた。



 2



 何が起こったのか――それは、ほんの数分前に遡る。

 激昂し、だが同時に瞬矢は、自身の内側から溢れ出る衝動的な力を感じていた。それは以前にも感じたことのあるもの。


『――力は使うな』


 その言葉も理由すらも忘れ、ただ目の前の現状をどうにか打開できるなら……それだけがあった。轟音と共に自身を阻む鉄材は吹き飛ばされ、一部は自由を得る。


(……これなら)


 解放された右手で鉄骨を抜き取る。傷口から出血するが、細胞の活性化により高速再生されてゆく。

 両手で右脇腹を抉り掠めていた鉄パイプを掴み引き抜くと、思い切り背後の壁を蹴る。力任せの跳躍は天井ぎりぎりにまで至った。


 闘争本能に任せた水色の瞳に、大きな茶色い目いっぱいに涙を溜めた茜の姿がちらりと映り、思わずはっとする。

 だがもう止まらない。空中で真っ直ぐな軌道を描き、構えたそれを振り下ろした。しかし、それも紙一重でかわされ、鈍い音を立てて床を叩く。


「――チッ」


 砕け散る大小のコンクリート片。着地と共に小さく舌打ちし、左を軸足に再度攻撃を繰り出す。

 背後で茜の声がした。視線を戻すと同時に、刹那の双眸は薄紫色に見開かれ――。


「――!」


 見切られていると分かっていながら、そのまま振り下ろす。

 瞬矢が違和感に気づいた時、鉄パイプはぐにゃりとL字型に捩れ変形していた。次いで波の如く襲い来る圧に、咄嗟に両腕を交差させ防ぐも弾かれる。


「――っ!」


 乾いた音と粉塵を巻き上げ両足で地面に着地し、ゆっくりと立ち上がる。

 茜の気配に背を向けたまま一瞥をくれる。感情的、衝動的な行動、そして何よりもこの目に身を縮こまらせ酷く怯えていた。

 伏せた瞳からは、小さく温かな滴がぽたぽたと溢れ落ちる。右手に巻かれた白いハンカチ、そこにはうっすらと血が滲む。


『君が突き放すから、彼女が傷つく』


 不意に、先ほどの刹那の言葉が脳裏を掠める。もう大切な人を悲しませないと傷つけないと、ここへ来る時そう固く誓ったはず。なのに――。

 最後に彼女の笑顔を見たのは、いつだったろう。思い返せば、随分と遠い昔のことのようで。ふうっと肩の力が抜ける。


(『泣き虫』か……)


 徐々に冷静さを取り戻し、すうっと瞑目すると顔だけで茜の方を振り返り言う。


「助けんの……遅くなってごめんな」


 ゆっくり開いたもとの穏やかな黒い瞳に、わずかな悔恨を湛えて。

 再び視線を正面に向け、L字型に変形した鉄パイプを床に放る。それは床で一度軽く跳ね、冷たく乾いた音を上げてコンクリートに擦れながら停止し、景色の一部と化した。


「少し、離れててくれ」


 鉄パイプが地面に転がる音を耳に入れながら、目の前の人物を見据え言う。

 眼前に佇む刹那の背後の空間が、ぐにゃりと歪に捩れて見えた。錯覚とは思えないその現象に、瞬矢は目を細め訝しむ。

 一瞬でも力を使った影響が出たのだろうか。

 もう、『力』は使えない。


 だがそもそも、勝ち負けなど端から視野に入れてはいなかった。ただ、目の前に立っている自分と同じ顔の彼。 きっと、彼の中に潜むその闇を一番理解してやれるのは自分しかいない――と、そう思ったのだ。

 幸い、あの一瞬に解放された力の影響で傷はほぼ再生されていた。あと少しなら……そう思い、一歩を踏み出す。


 瞬矢にはある確信があった。刹那と対峙したあの時、確かに彼から伝わってきたいくつかの思念。

 それは、人間ならば誰しもが持ち得る『愛憎、嫉妬、羨望』といった他者に向けられる感情の類いだ。

 その感情の全てを自分に向けられることが、どうしようもなく嬉しかったのだ。なぜならば、それは彼がまだ『人』であるという証だから。


「無駄だよ」


 刹那は淡く光を帯びた薄紫色の瞳で見据える。ごうっという音と共に生じた風圧で、瞬矢の体は後方へと弾き飛ばされた。


「ぐあ……!」


 真っ直ぐな軌道を描く体は、そのままコンクリートの壁へと叩きつけられる。鈍く襲う衝撃に低く呻き声を上げ、顔を歪めた。


 身体能力以外は生身の人間と同等。能力を解放した状態の彼を相手に、到底敵う訳がなかった。

 だが思いは収まらない。コンクリートの壁に叩きつけられても、尚。


「力、使いなよ」


 右手を前方にかざし、薄ら笑みを浮かべながら刹那は言った。彼が近づく度、喉が締め付けられ体は壁にめり込む。


「……っ、やな……こった」


 気道を圧迫され顔を歪めながらもへらりと笑い、掠れた声で断言する。

 かっと目を見張り、刹那の薄紫色の光彩はより輝きを増す。今にもくびり殺さんばかりの勢いだ。部屋を照らす蛍光灯が炸裂音と火花を上げ、次々と砕け散る。

 真っ向から自分を見据える刹那の背景が歪んで見えたのは、決して酸素が不足した幻覚という訳でもないだろう。


 ――力は使えない。霞む意識の中で薄紫の瞳を視界に捉えながら、瞬矢はその理由を思い出していた。

 もし本当に東雲 暁の語ったとおりなら、これ以上力を使い続けることは危険だ。

 だが、喉元を締め付ける力は益々もって強まり、彼の背後に見える空間もそのいびつさを増す。


 刹那は口角をつり上げ目を細め、ぐいと顔を瞬矢に近づけその黒い瞳の奥を覗き値踏みする。やがて、確信を得たかのように言った。


「さっきのあれ、偶然か」


 まるで興味が失せた玩具を扱うかの如き所作で左側へ払い飛ばした。体はコンクリートの床を跳ね、再び粉塵が舞い上がる。軽く宙に跳ねた体は2メートルほど床を擦り、ぎりぎり茜の手前で止まった。


「――、瞬矢っ!?」


 声を上げ茜が這い寄る。反射的に背中を向けたことで、正面から床に打ち付けられることだけは回避できた。すぐさま起き上がり茜の左斜め前に片膝をつき、手の甲で口の端を拭うと、刹那を見上げながら言う。


「ふ……やっぱりな。お前は感情を捨てきれちゃいない。だろ?」


 どこか核心に触れたかのような笑みで。

 もしも本当に感情のない殺人兵器に成り果ててしまっていたならば、ついさっき、あの瞬間になんの躊躇いもなくくびり殺しているはずだ。だが、彼はそれをしなかった。


「殺人兵器だろうがなんだろうが、やっぱりお前も“人間”なんだよ」


 向き直りゆっくりと歩を進める刹那は、瞬矢の発した一言にぴたりと足を止め、俯きがちなその表情により深い影を作る。


「ほんの少し思い出したくらいで……知ったくらいで、全部分かった気にならないで」


「……刹那?」


 『刹那』そう瞬矢が言った途端、彼は頭を垂れくつくつと堪えきれない笑みを漏らす。


「『刹那』……か」


 やがてその笑みは、嘲るような懐かしむような言葉を紡ぐ。


「昔、僕らは数字で呼ばれてた。名前なんて、単なる個を識別する為の記号にすぎない」


(……数字?)


 瞬矢はコートの左ポケットから【S‐06】と刻まれた銀色の腕輪を取り出す。


「数字ってこれのことだろ? 最後に別れたあの日から、ずっと持ってた……。刹那、お前も同じ物を持ってるはずだ」


 あの実験映像に映っていた腕輪の数字は、これと同じものだった。ずっと持っていたのだから、この数字が自分のものであることは間違いない。

 だが刹那は、揺らぐ薄紫色の瞳で瞬矢を見下ろし、彼が手にしたそれを視界に捉えごちた。


「あぁそれか、懐かしいね。でも――」


 一旦言葉を切り、ふっと瞑目する。雲間から覗く三日月が笑う。


「それ、本当に君のもの?」


「!?」


 窓から差す月光に半身を照らされ告げる刹那の言葉に、瞬矢の表情が固まる。

 ぐにゃり、空間が歪む。

 ――完全な思考停止。時間をかけて繋ぎ合わせた記憶が、靄の中に落ちてさ迷う。

 すると刹那は目元と口元に湛えた妖しげな笑みをそのままに、小首を傾げ訊ねる。


「……忘れたの?」


 次いで彼は、瞬矢の予想だにしない言葉を放つ。


「僕が君を、あの深くて暗い眠りから起こしてあげたんだよ」


 薄紫色の目を見開く刹那。意識は白い靄の中、見上げた瞬矢の黒い双眸にその瞳がぴたりと重なる。



 3



 ――あの頃、毎日のように通いつめていた。


 年の頃は9歳か10歳くらいだろうか。白いシャツの襟元に髪の色と同じ艶やかな黒い細めのリボンをあしらい、焦げ茶色のハーフパンツに黒いハイソックスを身につけている。

 その少年が向かったのは、屋敷の地下の更に奥へ位置する無機質な暗い部屋。――彼が目覚めた部屋。


 暗闇の中で一際明るい光を放ち、人1人が軽く入れる大きな試験管のような物の前で少年は立ち止まる。ぼんやりと確認できる後ろの壁には、鮮やかな花にとまる揚羽蝶の写真が飾られていた。


「まだ眠り続けるの?」


 端から見れば独り言かと思われる。彼が言葉を向けた先には、薄黄色をした培養液の中で無数のチューブに繋がれ眠る少年がいた。

 勿論それで少年が何か応えてくれる訳もなく――。時折、呼吸に合わせゴボ……と管の通った口端から小さな泡沫を吐くばかり。


 試験管の外へ伸びた個体に栄養を送る管の端から、また別の青い液体を半分ほど注入し、再び正面に回り込むと呟く。


「ずっと、待ってるよ」


(君が目覚めるのを――)


 その少年の容貌は、目の前で語りかける彼と瓜ふたつで、黒髪に整った顔立ちをしていた。だが、培養液の中にいる『彼』の方が幾分幼くも見える。

 やはり彼が目覚めないのを確認し、少年は茶色い目を細めて寂しく微笑むと言った。


「また来るよ」


 培養液の中で眠り続ける彼を今一度視界に納めると、踵を返し部屋を去る。


 ――そんな日々が続いた、ある日のこと。

 試験管の中の彼は、相変わらず細い管がついた口端から断続的に泡沫を吐く。そんな『彼』を見つめる少年の様子は、いつもとどこか違っていた。

 彼の茶色い双眸を艶やかな黒髪が隠す。俯き加減なその表情に笑顔は窺えない。


 彼をそのようにしたのは、他ならぬ周りの大人たちである。

 彼は“ひとり”ではなかった。だが、彼を取り囲む環境……そして何より心は孤独そのものであった。


 薄黄色の培養液に柔らかな黒い髪を揺らめかせ、敢然たる眠りに就く片割れの少年。ガラスの表面を、右の掌でそっと撫でる。


「……もう、君しかいないんだ」


 陶磁器のような肌に象られた、彼の小さな形のよい唇が、消え入りそうな声で言葉を紡ぐ。

 ガラスに額と両手を押しつけた、少年の小さな肩が震える。理由も分からず溢れる滴が、伏せられた彼の長い睫毛を濡らし、頬を伝い落ちた。


《――起きてよ。ねぇ……、独りは嫌なんだ……》


 怒りと悲しみが織り混ざった彼の思念に震える空間。受取人を探して飛び交う、見えない蝶。瞼を固く閉じ、届くことを信じて再度少年は強く思った。


《――目ざめろ!》


 すると培養液の中の指先がぴくりと動き、ゆっくりと重たい瞼を持ち上げた。


「――!」


 はっと顔を上げ、潤んだ茶色い両目を見張る。伸ばした右手はガラス越しに重なり、半目する彼の瞳は少年を見下ろしにわかに微笑む。


「は、ははっ! やった……!」


 半歩後ずさり、両目を見開いたまま思わず感嘆の声を上げる。

 目覚めた少年は培養液に身を漂わせ、試験管のガラスを内側から手探り出口を探す。


(そこから出たいんだね)


 それは、互いの意思が通じ合えた瞬間。

 途端、炸裂音と共に巨大な試験管を照らすライトは割れ、ガラスに深く大きなひびが入る。生じた亀裂は次第に広範囲へと亘り、いっぱいに満たされていた培養液が小さな噴水の如くあふれ出す。


 亀裂から無数の気泡が立つ巨大な試験管の中で、彼は黒髪を振り乱しながらもがき、自ら体に繋がれたチューブを外しにかかる。

 その様子を茶色い瞳で見上げながら少年は左斜め後ろへ後退した。すでに、そこに悲しみの色はない。


 やがて耐久性を失った試験管は、音を立てて足元から砕けた。中にいた少年は、一気に流出した培養液と共に雪崩れ落ちて床へ倒れる。


「……げほっ、はぁ……あ、あぁ――!」


 環境の整った試験管の中からいきなり放り出され、寒さで小さく蹲り小刻みにその身を震わせる。少年は、一糸纏わぬ彼に置いてあった毛布を羽織らせ言った。


「おはよう。君が起きるのを、ずっと待ってたよ」


 両膝を折り身を屈め、目覚めたばかりの彼に微笑みかける。


「?」


 だが彼は小首を傾げ、黒い瞳できょとんと見つめ返す。目覚めたばかりの少年の心は、赤子のように無垢だった。びしょ濡れで顔に貼りついた黒髪の毛先から、水滴がぽたぽたと滴り落ちる。


「さぁ、一緒に行こう」


 微笑みを湛えた茶色い瞳の少年は、すっと自らの右手を差し出す。目覚めた黒い瞳の少年は、差し伸べられたその手を取り立ち上がる。



 4



 一定の距離を置き、重なる2人の双眸。電流のように伝わってきたのは、自分が目覚める直前の彼の記憶。少しずつ、少しずつ眠っていた記憶が甦る。


(そうだ。あの時真っ暗な闇の中で、確かに誰かの呼ぶ声が聞こえて。でも……)


 瞬矢は手元の腕輪に視線を落とす。銀色のそれは、月明かりを受け鈍く輝いていた。

 やはりそこに刻まれた【S‐06】は自分が持ち続けた数字で、またそれが自分のものでないという確固たる確証もなかった。

 意識は晴れない靄の中で、瞬矢はひたすら答えを模索する。


 その姿に、刹那は伏し目がちにふっと口角をつり上げる。そしてコートの右ポケットから全く同じ腕輪を取り出し、眼前に掲げ言う。


「君のは、こっちだよ」


 そこに刻まれた数字を瞬矢がよく見えるように無下に放る。

 金属とコンクリートがかち合う冷たい音と共に軽やかに床を擦れ、足元へ滑り込むもうひとつの腕輪には【S‐07】と刻まれていた。


 今まで兄弟と思ってきた存在を疑りたくはなかったが、そうやって自分を言い含めようとしているのかもしれない。また、その言葉を受け入れるのに、腕輪以外の確固たる証拠もない。

 そう、確証はない。


「これだけじゃ証拠にはならないだろ!?」


 顔を上げ身を乗り出すように視線を刹那へと移し、彼の提示したそれを全力で否定した。いや、受け入れられなかったのだ。もしも受け入れてしまったなら、信じてきたものが確実に崩壊してしまうから。

 だが刹那は、くすくすと口元に軽く握った左手を当て笑い言った。


「証拠ならあるさ」


 口元からゆっくりと下ろされた左手の指先は、着ているハイネックシャツの襟にかけられた。そして顔を少し上向きにぐいと左肩から鎖骨、胸部の辺りまでを露にする。


「ほら」


「――!」


 彼が見せつけた左胸のそれに、瞬矢は言葉をなくし目を見張る。月明かりに照らされ浮かび上がるそこには、控えめにだが黒字ではっきりとこう刻印されていた。

 ――【S‐06】と。


 刹那はぱっと襟から左手を離し、刻印は再び服の下に隠された。下ろした手を後ろへ回し、至って冷静な口調で言う。


「言ったろう? 僕らには名前なんてなかった。そんなのただの記号だって」


 足元に転がった【S‐07】と自身の左手の中にある【S‐06】の数字。双方が視界に留まり、頭の中でぐるぐると渦巻く。


「あの日、交換したじゃないか」


 前方で刹那の声が聞こえるが、もう、まともに頭を働かせ考えることができなかった。

 それは、『斎藤 瞬矢』としての自己の崩壊。今、この時まで時間をかけて繋ぎ合わせた記憶は、ひっくり返したジグソーパズルのピースのように崩れ落ちた。


 斎藤 瞬矢である自分。

 東雲 刹那のクローンである自分。

 あの場所で目覚めてからの自分。


 眼前の彼が見せた“それ”により、全てが一瞬にして否定され、肯定された。10年前、左肩に受けた火傷の痕が疼く。

 ならば、自分はいったい何者なのか……。


(……『瞬矢』? 『刹那』? 『りく』? もし腕輪を交換したとして、なら本当の俺は、おれは……)


 倒錯する意識が、屋敷の地下で目覚めたあの頃をさ迷う。


「瞬……矢?」


 風に吹かれ、かすかに鈴の鳴るような声に、彼はゆっくりと顔を上げて茜の方を振り仰ぐ。


「僕は、誰……?」


 

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