第9章 語られる真実。
対峙
1
屋敷で起きた火事から2週間あまりが経過し、年が明けて間もない頃。――そう。まだ少年だった彼が『斎藤 瞬矢』として斎藤家に迎え入れられ、ほどなくしてのこと。
「今、刹那の声がした」
それは午後の昼下がり。その頃の瞬矢は不可解な発言で、度々継父母を困らせていた。
継母は困ったように眉尻を下げ、艶々しい黒髪の間から覗く頭に巻かれた包帯を撫で言った。
「あなたの弟は火事で死んだの」
「――えっ?」
左側頭部からするり両肩に手を置きゆっくりと諭すそれは、
だが、幼い瞬矢は心のどこかでその言葉を呑み込みきれずにいた。いや、もしかすると突きつけられた現実を受け入れたくなかっただけなのかもしれない。
そんな思いも、暗示のように紡がれる継母の言葉に段々と薄らいでゆき……。『刹那は死んだ』いつの間にかそれだけが彼の心を支配していた。
(刹那……)
ただリビングの窓から見える四角い青空をぼんやりと眺め、あの時の火事で死んだ弟、刹那を想うのだった。
**
瞬矢たちが『東雲 刹那』を雛型としたクローンから造り出された存在であり変異個体だということは、すでに話しただろう。
そもそも、クローン自体はオリジナルが何であれ、生物の形を成した時点ではまだ赤子の姿でしかない。
大きな試験管のような容器に満たされた培養液の中で生を受けた彼らは、自我の覚醒後、成長促進剤を与えられた。
急速な身体の成長と、それによる副作用。高熱に加え節々の軋みと激痛で、冷たい床に蹲り身悶えのたうち回る。
次いで投与された2種類の薬品。ひとつは能力を極限までに引き出し、もうひとつはそれを抑制する為に。
目的は生きた殺人兵器、傀儡にすること。
喜怒哀楽、その他『辛さ、苦しみ、思いやり』などといった一切の感情は不要と、全ては完璧な兵器に仕立てる為。その為ならば、彼らの『人』としての権利は二の次。
彼らは2度に亘り肉体的、精神的な苦痛を余儀なくされたのだ。度重なる薬の投与と、幾度となく自らの分身の死を目の当たりにするという形で。
全ては彼らを善悪の根幹すら持たない兵器へと仕立て上げる為。
そして最終的に残ったのが【S‐06】と【S‐07】――、つまるところ瞬矢たち2個体である。
心なき者たちのエゴイズムにより造り出された、人ならざる存在――それが【S】。
だが、強大な力は時として創造者すら持て余す。ある日、いち個体は研究者たちの意に反し、暴走する。
元々、操ることのできる代物ではなかったのだ。いや、人が『ヒト』を生み出し利用するなど、本来あってはならないこと。
失敗作、危険物……。彼らは彼らを造り出すよう頼まれた者たちから不要とされ、そのような烙印を押された。
こうして【S】は、決して公に知られることのない過去の遺物となり果てたのだ。
**
――外は明かりひとつない真の闇夜が蔓延っていた。
東雲 暁は語ろうとしなかったが、自分たちを造り出すよう依頼した者が刹那のこれまでの行動に繋がっている、と。そして話は、地下で中途となっていた追跡装置に至る。
「じゃあ、俺もあいつも追跡装置は同じ場所に?」
屋敷跡を出て細い林道を通りながら、瞬矢は少し前を歩く東雲 暁に対して、体内に埋め込まれた追跡装置の場所を訊いていた。
やがて「ああ」と答え、前方を歩いていた彼の足取りがぴたりと止まる。
「もうひとつは――」
一拍置いて彼は振り返り、すっ……と自身の左肩の辺りを指差す。
「左胸の辺りにある、製造ナンバーの刻印の下だよ」
木々はざわめき、背後に枝葉と雲の隙間から顔を覗かせた三日月が照らした。再びくるりと前へ向き直る。
「ああ。でも、確か君のはあの時の火事で消失したんだったかな」
思い出したように呟き右手を持ち上げる。瞬矢からは彼の背中と声色しか窺えないが、恐らくは軽く握った右手を口元へ当てているのだろう。
「……」
歩みを止めた瞬矢はおもむろに視線を落とし、自らの右手で火傷の痕が残る左肩から胸の辺りを押さえる。
東雲 暁の話を聞きながら瞬矢は思う。
茜はこのことを、自分たちが造り出された経緯のことを知っているのだろうか。ふと先ほど添付されてきた画像ファイルの茜の姿を思い出し、瞬矢の胸中に焦燥感が募る。
頬を撫でる冷たい夜風が、更にそれを煽り立てた。自然と足取りも早まり、後を追いかけながら瞬矢は問う。
「あいつの位置情報は分かるか!?」
瞬矢に訊ねられ、東雲 暁は端末の表示画面を切り替えた。追いついた瞬矢もそれを覗き込む。
「これって……」
表示された点滅する赤い座標は、この屋敷跡のすぐ側を示していたのだ。
座標を追い辿り着いたのは、もとは何かの施設だったろうコンクリートで出来た3階建てくらいの廃墟。
入り口付近の木の枝にかかる、黒っぽく細長い布が月明かりのもとわずかだが視界に映り込む。
懐中電灯の局所的な円形の明かりで照らす。夜風にはためくそれは、以前茜に貸してそのままとなっていた深緑色のマフラーだった。
周囲に柵はなく、廃墟の入り口付近まで歩み行くと、木の枝にかかっているそれを掴み取る。
「ん?」
違和感に思わず声を漏らす。
マフラーには直径5センチメートル四方の白いメモ用紙がテープで貼られてあり、2行ほどの文字がボールペンか何かで綴られていた。
瞬矢はメモに綴られた文面に目を通す。そこにはこう書かれていた。
『私はこの建物の2階に。助けて、瞬矢』
明らかに彼女のものではない筆跡。そもそも茜は、このような大人びた字を書かない。……誘っているのか。
立ち止まり、今一度思考を巡らす。もしも自分が刹那だったら、全てを知った時何をするだろうと。
――答えは明白だった。
彼は、自分が何者であるかそしてなんの為に造り出されたのか、その存在を知る人間全て消しにかかるだろう。勿論ここにいる茜の父、東雲 暁も含めて。
「ここで待っててくれ! 茜は必ず――」
折角生きていた、再開できる人を危険に晒させる訳にはいかない。もう、誰かの……彼女の悲しむ姿を見るのはご免だった。
黙って肯定する彼の返答を背に受け、廃墟の入り口へ駆け出そうとしながらふと思う。
だがもしその事実を茜が知ってしまったなら、彼女もその1人に含まれるのではないのか。そして刹那自身も……。しかし、どうやって。
その答えの糸口となる台詞を突きつけたのは、他ならぬ東雲 暁だった。
「瞬矢君……だったね。君がもし彼と対峙することになっても、力は使わないでほしい」
くるりと彼の方へ向き直り訊ねる。
「力って、使ったら何が起きるんだ?」
それは少なからず自分も関係していることであり、そして使うなとは何故なのか知っておく必要があった。少し間を置き、目の前の彼は答える。
「斥力だよ」
「斥力?」
あまりの突拍子もない発言に小首を傾げ訝る。
そもそも『斥力』とは重力の対である。常に一定の負荷がかかっているこの地上において、必要以上の斥力が発生するなど物理的に起こりえないのだ。
しかし――。
「どうして?」
すると東雲 暁は目を伏せ、やがて少しばかり天を仰ぐ。
「君は、宇宙がどうやってできるか知ってるか?」
彼の突飛な発言に、ただ黙って大きく首を横に振る。そんなこと、今まで考えた試しがなかったからだ。
宇宙は、我々の与り知らないところで常に一定の力がぶつかり合い誕生している。それはなんなのか。
――答えは明確。
そう、
そして新たな宇宙を生み出すその主なエネルギーとなっているのが、他ならぬ斥力である。
「もし彼が『力』を解放した状態で、君までその力を使ったら――」
黙って言葉の続きを待つ。やがて静かにゆっくりと紡がれる彼の言葉に、瞬矢は大きく目を見張った。
「そん……な!?」
何故、そうなるのか。それは、先ほどの話にあった平行宇宙論と大きく密接している。
想像できるだろうか。
例えるならば、頂上の見えない超高層マンションのように隣接する無数の部屋であり、それが同時に無限に存在する。その内のひとつがこの世界なのだ。
それらは一定の距離をおき、絶妙なバランスを保っている。
膨大な斥力のぶつかり合いによる創成。
もし、あるひとつの空間に突然別の空間が現れたら……。もとの空間は、たちまちその均衡を崩してしまう。
――
「……分かった」
そこまで聞き、瞬矢は納得せざるを得なかった。
「君も覚えがあるはずだ」
確かに覚えはあった。だがそれらは全て偶発的なものであり、瞬矢自身、それを自らの意思で引き出し利用する術を心得てはいなかった。
瞬矢は思う。本当に全て丸く収められるのかと。すると、そんな瞬矢の心中を察したかの如く彼は言う。
「君には、君にしかない大切なものを持っているじゃないか」
「ここにね」と、指先で瞬矢の心臓辺りを示した。瞬矢は指し示された場所へ目線を落とす。
「その為に君を斎藤家に預けたんだ」
ゆっくり辿るように視線を送ると、彼はにこりと笑う。その笑顔は研究者としての貼り付けた冷笑でもない、温もりある1人の人間のそれであった。
瞬矢はその源を知っていた。
それは直接肌に触れた際に伝わる体温とはまた違う、そう、例えるならばころころと移ろう天気のように温かなもの。
不確かで移ろい易い。だが確かに温かく、時に身悶え、狂おしいまでに存在するそれは――【心】。
再び踵を返し、目の前の廃墟を見据え駆け出した。
**
――ガラス張りの重いドアを開け正面入り口をくぐる。当たり前だが1階フロアは暗く、明かりはついていない。
正面に向けた懐中電灯の光が、突き当たりの窓に反射し映る。その様は、不気味さすら感じさせた。
靴底が床と擦れる度に長い歳月をかけて積もった埃が宙に舞う。無数のそれらは懐中電灯の光の中で、ほんの一瞬の脚光を浴びる。
ざっと辺りを照らすと、すぐ右手に上階へと続く階段が窺えた。
もしメモの内容が正しければ、茜は2階のどこかにいるはずだ。懐中電灯に照らされた、すぐ右手の階段へと歩を進める。
暗がりの中に階段を上る靴音だけが響く。暖かみを一切感じさせないその音は、静寂であるからこそ余計に反響し際立つ。
2階へと向かう途中の踊り場にある小さな四角い窓からは、ぼんやりと霞んだ三日月が笑いかけた。仄かな明かりに闇が切り開かれる。
しかし、それも一時のこと。分厚い雲の向こう側に、微笑みを湛えたその姿を潜めてしまい、辺りは再び闇に包まれる。最早、懐中電灯のわずかな明かりと己の勘だけが頼りだった。
階段を上りきると、左側の壁に再び白いメモ用紙がテープで貼られていた。そこには、やはり黒インクで何か2行ほどの文字が書かれている。
やおらそれをむしり取り、目を通した内容に瞬矢は訝り眉をひそめる。
(……。どういう意味だ?)
――『彼は、目の前の自分と対峙する』
筆跡は、先ほどのものと同じだった。
メモの意図は定かではない。だが恐らく『彼』とは自分もしくは刹那で、『目の前の自分』というのは、そこに向き合うもう1人の自分のことだろう。
(これは、刹那から見た俺? それとも俺から見た刹那を表したもの?)
見ようによっては、どちらの視点からでも捉えることができる。
……どちらでもいい。分かったところでこれらの行動に変わりはないのだから。
メモをぐしゃりと握り左手の内に納め、左右に分岐した長い廊下を見やる。
――さて、問題はどちらに進めばいいかだ。
まずは左、そして右とゆっくり交互に照らし廊下の先を確認する。
左はひと部屋ずつあるだけで、すぐ突き当たりだった。右は数メートル置きに一定の間隔で端まで部屋が並んでいる。
部屋数は思ったほどない。しかも、場所も2階とはっきりしていた。
理由として、あのメモは十中八九、刹那が書いたものに相違ないからであり、彼が場所を偽る理由が思い当たらなかったからである。
まずは、数と場所が限られている左側の2部屋から確認することにした。床に向けられていた懐中電灯を正面に
まずは向かって右側の部屋からだ。
一見代わり映えしないドアノブに手をかけ、それと共に全身をすっと走り抜ける緊張感。そのせいか急激な喉の渇きを覚え、ごくりと唾を飲む。
早まる鼓動と呼吸に合わせ、取っ手を捻りドアを開ける。部屋の中はしんと静まり返り、人の気配は感じられない。
念の為、部屋の隅々をまんべんなく照らしてみる。――が、やはり誰もいないようだ。
右の奥隅に、どこぞを解体した際に出たのだろう廃材が積まれている。どこからか隙間風が吹き込み、より部屋が無人である空虚感を際立たせた。
(……違ったか)
踵を返し反対側のドアへ。先ほどの部屋に比べかなり狭い。埃っぽさは相変わらずで、どうやらこちらは清掃用具などを入れておく倉庫になっているようだ。
となると、残るは右側の通路のみ。清掃用具などが詰め込まれた倉庫の前を離れ、先刻上ってきた階段の前を通り過ぎる。
当初は懐中電灯の明かりだけが頼りだったこの目も、今ではだいぶ闇に慣れてきた。
入り口上部にある見慣れたマークの意味。照らさずとも分かる、その場所はトイレ。
目線を正面に戻す。
ふと視界の先、廊下の真ん中辺りに何かが映り込む。小さく色は黒っぽいが、暗闇の中で輪郭のはっきりとしないそれに瞬矢は思わず目を細める。
試しに懐中電灯の光を当ててみた。円形の光のもと浮き彫りとなったのは、小さく黒い
嘴のような鍵爪のようなそれに見覚えがあった。歩み寄り左手で拾い上げたそれからは、途中でぷつりと切れた赤い糸が垂れている。
「茜……」
瞬矢は手の中のそれを見つめ、ぽつりと溢す。
間違いない。それは最後に会った時、茜が着ていたコートのボタンだった。糸の断面が揃っていることから、自然に外れたのではなく意図的に切り取ったものと考えられる。
瞬矢は拾ったそれを手の内に納め集中し、瞼をゆっくり閉じる。意識してそれをするのは初めてだったが、少しずつ、瞼の裏に映像が浮かび視えてくる。
向かって廊下の左側、奥より2番目の部屋から出てきた人物――刹那だ。彼は嘴形のボタンが置いてあった場所、つまり瞬矢のすぐ目の前に立つ。
彼は、口角をつり上げ笑みを浮かべる。何か含みを持たせたような笑みを。
次に視えたのは、部屋の中で刹那がコートからボタンをひとつ切り取り手にする姿。彼は、ボタンを置いた床から視線を上向け笑う。屈んだまま見せるそれは、どこか挑戦的ともいえる笑みであった。
――集中した意識を現実へと戻し、瞬矢は再び瞼を持ち上げる。
(ああ分かったよ。待っていろ、今そこへ行って決着をつけてやる!)
強い意志を宿した黒水晶のような双眸で、きっと廊下の奥を見据えた。左手を握り締め、意識下において視た場所を目指して突き進む。
向かって左側にある奥から2番目の部屋の前で立ち止まる。立ち止まってすぐ懐中電灯の明かりを消した。このドアの向こうが明るいことを、すでに知っていたからだ。
左手に握り締めたメモ用紙とボタンを、着ていた黒いコートのポケットに捩じ込み、その空いた手でドアノブを掴む。ひとつ呼吸を整え勢いよくドアを開ける。
暗闇から一転、眩い光に目を細める。
恐らくブレーカー操作だろう。ドアを開けたことがきっかけか。無機質だが、闇を暴く蛍光灯の白っぽい光が部屋を照らす。
向かって右奥に視線を送ると、白いパイプ製のベッドに小柄な体を横たえる茜の姿が確認できた。駆け寄ろうとしたその時、
「彼女なら、大丈夫だよ」
聞き覚えのある声と共にキィンと耳鳴りがし、その不快な音に耳を押さえ顔をしかめる。すると部屋の端から自分と同じ顔の人物、刹那がその姿を現す。
彼はゆっくりと歩を進め、自分と茜の間に立ちはだかり正面を向くと、思案するかの如く伏せた瞼を開ける。
《君とこうして会うのは、10年ぶりだね》
じっと瞬矢を見据え、笑みを湛える唇は結ばれ三日月を描く。その声は耳ではなく、直接頭の中に響いてきた。
《僕は僕の目的を達成する。その為なら、なんだって利用するさ。――例え、大切なものでもね》
刹那は、にいっと口角をつり上げる。
「……っ」
《そんなことの為に……》
刹那の言葉に苦々しく表情を歪める。沈黙の中、互いに向き合う瞬矢と刹那。2人の【S】。
目視できないが、対峙する2人の間にあの日窓の外に見た烏揚羽が舞う。ひらひらと行き交う言霊。先達てそれを散らしたのは――。
「っざけんな!」
つい感情的に、瞬矢は右手に持っていた懐中電灯を刹那に対し投げつける。だが彼は妖しげな笑みを崩すことなく、かといって避けることもせず、すうっと左手を正面に翳す。
綺麗な放物線を描き回転を繰り返す懐中電灯は、刹那の2メートルほど手前でぴたりと停滞し、宙に漂う。
刹那は翳した左手をさっと真横へ払い、指先で弾く。ガラス部分は呆気なく砕け、宙で粉々に分解された。
ぱらぱらと床に落ちる破片を一瞥し、左手を下ろす。
彼の動作に合わせ、自身の髪とライトグレーのコートの裾がふわり靡く。
「危ないなぁ。彼女に当たったらどうするのさ」
そう言った刹那はくいと顎を上げ、視線だけ見下ろす形で口元に冷笑を浮かべる。
一時の感情に任せ投じたそれはあまりにも呆気ない結果を辿り、頭に昇った血が一気に引き、最早冷静さを通り越して嘲笑さえ込み上げる始末だ。
まずは茜を奪還しないと始まらない。
視界の端に廃材を捉え、じりっ、コンクリートの破片を踏みしめる音と感触。共に地を蹴るフェイント。――しかし、
「させないよ」
「――!」
静かに言う口調からは、こちらの意図など全て見透かしている、そんな節があった。
思わず動作が鈍り、目を見開く。
瞬間、見えない……だが確かに感じた風圧に弾き飛ばされ、コンクリートの壁に思い切り叩きつけられる。
「……がっ!」
衝突音と同時に上がる乾いた呻き声。背中を強打し、鈍く走る痛みから上手く息ができない。右手で胸の辺りを押さえ、ずるずると冷たい床にへたり込む。
「くっ……」
(こりゃ……罅、入ったかな?)
その顔はにわかに引きつっていた。奥歯を噛み締め前のめりに床に左手と膝をつき、ゆっくりと呼吸を整え眼前の刹那へ視線を送る。
刹那は先ほどと同じ場所に佇んだまま、黒髪の合間から覗く薄紫色の双眸で、じっと瞬矢のことを見据えていた。
視線を送り合う、同じ容貌の2人。ただ違うところがあるとすれば、それは雰囲気。
刹那――彼が纏っている空気とでもいうのだろうか。だがそれは決して瞳の色だけの話ではなかった。
下ろしていた右腕をすうっと真横へ掲げた途端、薄紫色の光彩はより光を増し、艶やかな黒髪をそして衣服を軽やかにはためかせる。
辺りに散乱した破片は宙を漂い、右手を翳すと周囲に展開される鉄骨などの廃材。重々しい音を上げ、刹那の背後でベッドが浮く。
「どうする?」
ゆるりと天井に向け右手を翳したまま小首を傾げほくそ笑み、ベッドから独立し宙に漂う茜を一瞥した。
彼女がいるからには迂闊には手を出せない。
刹那はそんな心理を全て分かった上で、あえてそこに付け込んだのだ。
展開されている物のひとつ、折り畳み式の簡易机に視線を送る。
「――ッ!」
薄紫色の視線を向けると共に机は牙を剥く。
かわすしかない。左方向から押し迫る簡易机を跳びかわし、着地した。
視線を正面に移すと、無数に展開される鉄材。だが、胸部へ走る痛みに一瞬反応が遅れる。
(しまっ……!)
思うより早く、方々から雨露の如く一斉に襲い来る。全てかわす――否、数が多すぎだ。
案の定、その内の何本かが瞬矢の体を貫いた。反動で、粉塵を巻き上げ壁に打ち付けられ、加えて畳みかけるように襲いかかる鉄材の数々。
走り抜けるのは、細胞を形成する分子構造の一部を破壊する熱を帯びた感触。
粉塵が収まり確認すると、右腿と左手首を細い鉄骨が貫き、右脇腹を掠めていた。
「君がいけないんだよ?」
そう宣う彼は、薄紫色の双眸を見開く。
すうっと瞑目し、再度発生した重力に従い落下した茜は刹那の手中に落ちる。
すっぽりと納まった茜の体を両腕で絡め取る。右手を頬にあて左手を腰周りへ送るその仕草は、永年欲しくとも手に入れられなかったものをようやく手にした時のそれであった。
髪の毛にぎりぎりの距離で唇を這わせ、茜の耳朶に甘噛みすると、耳元から顔を少し離し目線だけで語りかける。
《君が突き放すから、彼女が傷つく》
「ほら、こんなふうに」
白いハンカチが巻かれた彼女の右手を取り、自らの唇に近づけた。右手をゆっくりと下ろし、再び茜の頬に触れる。
「君は僕が欲しかったものを簡単に手に入れた。難なく、あっさりと。だから……」
一旦言葉を切り、目を伏せ続けた。
「君の大切なもの、ひとつくらいもらうよ」
髪を
その上に指を滑らせた。下ろされた左手の指先は、肌が剥き出しとなっている腿の線を内側へとなぞり上げる。
「ぁ……っ」
無意識にも感じた違和感からか、茜の口の端から甘やかな吐息がひとつ漏れる。
「――っ……やめろ!」
だが、周囲を鉄材に阻まれ身動きがとれない。
もがけばもがくほど傷口から赤い血がどくり、どくりと脈打ち溢れ出る。そしてそれは、体の至るところを貫いた鉄骨を滴り、温かく衣服を染めた。
指はシャツの裾へするりと滑り込み、遠慮がちに覗く色白の腹部。頬は体温の上昇に伴い、わずかな紅潮を見せる。
抜け出さなければ――。例えどれほど出血しようと、もがき肉裂けようとも。
その時、瞬矢にわずかな変化が起こる。
焼けつくような痛みに表情を歪めながらも、憤り震えるその双眸は水色に淡く光を帯び、細かなコンクリート片を浮遊させた。
「ぐぅ、つっ……!」
食い縛った犬歯を剥き出しに低く唸り、変色した青い瞳でねめつける。その光景は、さながら狡猾な蛇に対して牙を剥く獣のようであった。
向かい合う2人のそれは鏡合わせでありながら決して【対称】ではなく、むしろ相反している。
それぞれに個があるとはいえ、いつどこで、何が2人をこうまで違えたのか。それは恐らく当人たちしか知り得ないだろう。
だが刹那は瞬矢の様子など気にも留めず、むしろその反応を楽しんでいるかのようだ。
再び茜の下顎をくいと持ち上げ自分に向かせると、口元を親指で準える。
「ん……」
漏れたのは、
「!」
その時、瞬矢の中にある何かがぷつりと音を立てて切れる。
「――刹那あぁぁ!」
静まり返った室内に、瞬矢の慟哭が響き渡る。
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