ある日の邂逅

 

 無機質で殺風景な白い部屋を暖色と変える午後の黄昏に包まれながら、彼は1人回顧する。


 それはもう、いつのことだったか……。彼にとっても思い出せないくらい昔の記憶。

 ただ、この時期独特のからりとした気候と日差しがそれを思い出させるのだから、その日が麗かな秋日だったということだけは確か。



      **



 クリーム色の外壁をした屋敷の裏手から、1人の少年はひょこっとその姿を覗かせる。

 枝葉の合間から差す温かな日光を受け、目にかかるほどの黒髪が艶々と煌めく。

 たおやかな風がふわりと吹き、少年の髪の毛と同じ細い黒色のリボンが白いシャツの襟元で揺れる。


 紅葉鮮やかな庭園をゆっくりと歩く彼の視界に、見知らぬ人物が映り込む。

 茶色い髪はひとつに結わえられており、黄色いブラウスと乾いた芝のようなうぐいす色の長いスカートを履いた柔らかな物腰の大人の女性。

 地面にしゃがみこむ彼女は優しい眼差しで、屋敷の表側にある色とりどりの“何か”を見つめている。


(……誰だろう?)


 初めて見る顔であった為、少年は多少訝りながらしきりに首を捻り、速度を緩めた歩みはクリーム色の外壁の横でぴたりと止まる。

 すぐ傍らには楓の大樹。かさ、と少年の足元で落ち葉を踏む音が。


「……あら」


 彼女は少年に気づき“何か”から屋敷の右端へ視線を送る。その距離、およそ5メートル。


「――!」


 小さな胸が早鐘を打ち、少年は表情を強張らせる。だが彼女は気に留める様子もなく、むしろにこりと微笑み返す。


「君、ここの子?」


 彼女の笑顔の奥にある真意を量るべくじっと見据えたまま、黙ってこくりと頷く。

 すると彼女は、笑みを湛えたまま「こっちへおいで」と小さく手招きをする。その所作からは、不思議と悪意は感じられなかった。

 ゆっくりと彼女のもとへ止まっていた歩を進める。


「何……してるの?」


 おずおずと訊ねる少年の問いに答えるかの如き柔らかな笑み。


「……これ、コスモスを見てたの。今年も綺麗に咲いたわね」


 そう言って彼女が視線を移す先には、幅細いつんつんした葉やピンクに白に赤紫……と色鮮やかな一群があった。


「コスモス?」


 尚も笑みを湛える彼女の視線を辿り、小首を傾げ、幼い声は不思議そうに復唱する。

 それもそのはず。少年はこれまで知識をこの屋敷内で与えられた本にのみ頼り、想像するしかなかったのだ。

 彼の中では全てが偶像的。しかも彼が偶像の殻を破ったのは、つい最近『あの子』に会ってから。

 なので勿論『コスモス』というものがどのような花かなど、周知の対象外。

 だが彼女は少年に対して別段咎めるでもなくましてや訝るでもなく、実に柔和な笑みでこう言った。


「そうよ。秋の桜と書いて『秋桜コスモス』っていうの」


 そして、落ちていた小石で地面に字を書き教えてくれたのだ。


「ふぅん?」


 少年は分かったような分からないような曖昧な返事をし、瞳で土に書かれた『秋桜』という文字を見つめる。

 そして彼女は穏やかな笑みを湛えたまま、さらにこう続ける。


「この花の意味はね【愛情】と【調和】なのよ」


「……」


 【愛情】そして【調和】。それは少年にとって最も縁遠く、最も得難いものだった。


 花にすら『個』を示す意味がある。ならば、己のここに在る意味とは何か。

 風に揺れるコスモスをぼんやりと視界に捉え、少年は1人幼き胸の内で答えなき自問を繰り返す。

 だが考えたところでその答えなど出るはずもなく、少年は目を伏せた。ちょうどその時、


「――斎藤さん」


 低く落ち着きのある声が後方より彼女を呼び止める。

 眼鏡をかけ、グレーのネクタイを締めた男はここの屋敷の主だ。珍しく今日は白衣を着ていない。

 彼女は目の前の男とすぐ近くの少年を見比べ、何か閃いたかの如く両手をぱんと合わせ訊ねた。


「あら、暁さん。あっ……! じゃあひょっとしてこちら息子さんかしら?」


「……ええ、まぁ……」


 ちらりと少年を一瞥し、右手で軽く頭を押さえながら言葉を濁す。

 それからしばらく、『斎藤』というらしい女性と男は談笑を交わしていた。

 傍らでその光景を眺めながら、少年は存在理由について思う。


 左手首にはめられた銀色の無機質な文字盤のついた腕輪が滑りしゃら、と鳴る。

 手首から伝わるひんやりとした感触が、少年を容赦なく現実に引き戻す。

 太陽の光を浴びた少年の茶色い瞳は、自己を形成する全てに対する疑問とわずかばかりの不安に曇り揺らぐのだった。

 やがて談笑に一区切りついたのか、ふと彼女が少年に視線を送り訊ねる。


「そういえば君の名前は?」


 少年は一度左手首に視線を落とし、茶色い瞳に戸惑いの色を滲ませたがそれも一時のこと。


「――りく」


 やがて考えるかのように目を游がせぽつりと呟く。一瞬、酷く冷たい突き刺さるような視線を感じたが、少年はあえてその視線の送り主を見ないようにした。


「そう。『りく』っていうの」


 終始にこやかな笑顔を絶やさぬまま『りく』という名前を復唱し、そして――。


「よろしくね」


 柔らかな物腰でそう言った彼女を、太陽が背後から眩く照らした。

 にこやかに彼女は膝をかがめ、そっと髪から左頬にかけて触れる。

 少年は今まで感じたことのない温もりに、ただでさえくりくりと丸い目をこれでもかといわんばかりに見開く。

 そしてこう思う。

 もしこの人が自分の母親だったなら……と。


 それは決して口にすることのできない淡い希望で、少年は喉元まで出かけた言葉をぐっと呑み込む。


 それから、しばしばその斎藤という女性と庭先で会うようになった。

 彼女はいろいろと話してくれた。自分たちには子供がいないこと。

 そして彼女と東雲夫妻、特に夕子夫人とは旧知の仲であること。

 それは、相手が幼い彼だからこそ話せたことなのかもしれない。

 だが母親の名前が出たことで、話の主導権は少年へと移る。


「僕、母さんがどんな人か知らないんだ……。顔だけなら見たことあるけど……」


 気がつけば、無意識にいつも左手首にある腕輪の留め金を弄っていた。すると、思いがけず彼女はこう言った。


「大丈夫よ、りく。あなたのお母さんも、優しい人よ」


 少年は、はっと彼女の顔を見上げる。

 嘘偽りのない感情と醸し出す雰囲気は、少年が初めて『あの子』と会った時に感じたものと酷似していた。


 ――押し寄せる罪悪感。

 彼女に嘘をついてはいけない。もしもついていいとすれば、それはただひとつ、彼女の為の嘘。


「……ない」


「えっ?」


 笑顔のまま彼女は小首を傾げる。

 少年は本当のことを少しだけ話したくなり、思い詰めたように視線を落とし、そして呟いた。


「……『りく』じゃない」


 彼女に『りく』という名前が渾名あだなであることを告げる。

 そして、自分にはもう1人兄弟がいることも。

 葉の上で、今にも溢れ落ちそうな水滴が日の光に照らされきらきらと輝く。

 乾いた秋風が吹き、屋敷一帯の草木をざわめかせた。

 顔を上げた少年は、その綺麗な顔に大人びた笑みを浮かべる。


「僕の名前はね――」



      **



 ――20XX年 10月24日。


 午後3時58分。殺風景な部屋。窓から差す西日が黄昏色に染める。

 在りし日への懐古。実際にはほんの一時であったが、もう随分と長い時間昔のことを思い出していたように錯覚させる。

 相も変わらずただ一点を見つめる茶色い両のまなこは、あの日と同じ不安定な色に揺らぐ。


「……母さん」


 静寂を打ち破り思わず漏れ出た声は青年のもので、彼が見下ろす先には、白い病室のベッドに眠る1人の女性がいた。

 枕元のネームプレートに走り書きされた名前。――女の名前は『東雲 夕子』。

 彼女の手にはすすけた1枚の写真が大事そうに握られている。

 無邪気な笑顔の黒髪の少年と、その母親を写したものだ。

 彼はその写真にそっと視線を移す。俯きがちな表情は、どこか懐かしく、けれどもどこか寂しげに。

 静かな病室に佇む彼の姿は、今は過ぎ去りし遠き昔を懐かしむ、どこか郷愁にも近いそんな想いが遠目にも滲み出ていた。


 やがてオレンジ色は西の空へと身を潜め、青の中にうっすらと緑を帯びた夕闇が訪れる。

 いつしか、病室から青年の姿は消えていた。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る