闇を照らす光

 

 1



 ――20XX年 10月25日。


 午後3時40分。瞬矢は、茜の母親がいる病棟へと通じるエレベーター内にいた。

 上へと上昇するエレベーターのランプを見つめながら、様々な考えを巡らす。

 全ては、真実を知る為。


 やがてランプの光が3階を示し、到着を知らせる軽快な音が鳴った。

 ドアが開くと同時にエレベーターを降り左へ曲がる。

 詰め所で名前を記帳した際に、看護士の不思議なものでも見るような反応が多少気になりはしたが……。


 落ち着いた色調で統一された廊下は、何度目かの光景。

 慣れとは恐ろしいものである。

 以前までは不快極まりなかった白い空間、消毒薬の匂い、白衣を着た人をもいつの間にやらなんの嫌悪も抱かず踏み込めるようになっていた。

 それも全ては、瞬矢自身が昔、それと条件をほぼ同じとする場所にいた事実を知ってしまったからなのか。


 病室へ入ると、窓際のベッドにいた彼女が気づき、にこりと微笑む。これももう、何度目かの光景。


「さっきまで茜が来てたのよ」


 傍らには折り畳み式のパイプ椅子が置かれたままになっていた。

 茜とは、あれ以来会っていない。


「……そうですか」


 わずかに生じた動揺を笑顔の下へと押し隠し、傍らでおざなりとなっている椅子に座りながら答える。

 一旦瞑目し、意を決して開口する。


「東雲 刹那はあなたの息子ですね? しかも彼は12年前に亡くなっている」


 今度は『弟』とは言わず、東雲 刹那の名前、そして屋敷の裏にあった墓石のことを話す。

 すると、彼女の表情が固まり瞳の奥に動揺の色が窺えた。

 だがすぐさま口角をつり上げふっと笑う。そしてその唇から紡ぎ出されたのは、瞬矢の斜め上を行くものだった。


「いいえ、刹那は……あの子は生きてるわ」


 手元の写真から、誰もいない隣に視線を移し「だって――」と言葉を続ける。


「昨日ね、あの子ここに来たの」


「――!」


 彼女の思いもかけない言葉に、瞬矢は驚愕し目を見開く。その視線はゆっくりと右隣に送られた。


(あいつが、ここに? そうか。だから……)


 先ほどの、エレベーターを降りてすぐの詰め所でのことを思い出す。

 それは面会人の欄に名前を記帳しようとした際のこと、居合わせた看護士の1人に言われたのだ。


「息子さんですか? このところ毎日おみえになられて」


「いえ……」


 おおらかな看護士の言葉に対し、やんわりと否定した。

 勿論、瞬矢は以前に件の写真を持ち寄って以来、ここに訪れてはいない。

 だがこの看護士の口振りは、いかにも毎日訪れているようであった。

 そして名簿に書かれた名前と瞬矢を見て、なぜか腑に落ちない様子で不思議そうに小首を傾げたのだ。


 ――その時はそれがなぜなのか分からず終いだったが、なるほど、同じ顔をした人間が別の名前を使っていれば訝しむのは当然のこと。

 口元に手を当て、思考のさ中にあった瞬矢を引き戻したのは、茜の母、夕子の言葉。


「ちょうどそこ……今あなたがいる場所のすぐ隣に立ってね、私のこと『母さん』って。私、ほんとは起きてたんだけれど、なんか顔、見れなくて――」


 彼女の嬉しそうに弾む声も、今はどこか遠くに聞こえた。

 帰り際、置かれた面会者名簿をぱらぱらと捲る。


 10月24日、面会人氏名――『東雲 刹那』。


 さらに前日、前々日と面会者の記録を遡る。


 東雲 刹那(23日)、東雲 刹那(22日)、東雲……。


 いずれも同じ名前が記されていた。思わず右手で口を覆う。


(……なぜ?)


 自分でも分かるくらいに全身からすうっと血の気が引く。

 よたよたと面会者を記した帳簿から離れ、エレベーター脇の壁に身を預ける。

 手探りで上のボタンを押し、同時に生じた疑問。


『なぜ、12年前に死んだ人間の名前がここにあるのか?』


 東雲夫妻の息子である刹那と弟である刹那。2人は瞬矢の中で不等号であった。

 だが、違っていたのかもしれない。

 茜の母親が言うとおり、本当はどこかでひっそり隠れ生きていたのかもしれない。見せかけの墓石だけを建てて。

 だとすれば、彼の兄である自分は、そして茜は……。

 『東雲 刹那』と『刹那』。今まで自分が弟と認識してきた彼は、果たしてどちらなのだろうか。


 エレベーターの到着する音が、病棟のフロアに響いた。



      **



 午後5時10分。瞬矢は帰路についていた。

 辺りはすっかり夕闇に包まれ、外灯や過ぎ行く車のライト、そして店頭の光が忍び寄る闇を煌々こうこうと照らす。

 そんな折、瞬矢がたった今から入ろうとするビルの前に誰かがしゃがんでいるのが窺えた。


「ん?」


 暗がりの為、ぼんやりとしか窺えない人物に小首を傾げる。

 やがて暗闇のもと不明確だった人物の顔を、通り過ぎた車のヘッドライトがにわかに照らす。


(……デジャヴか?)


 ヘッドライトにより明らかとなったその人物を目視し、瞬矢は内心独りごちた。


 ちなみにデジャヴとは、『まだ起きていない出来事をすでにあったように体感すること』をいう。

 なのでこの場合、正確にはデジャヴではない。――ものの喩えである。


 必然というのは偶然の度重なりであり、あらかじめ用意されたもの。

 そして眼前にいる人物は、紛れもなく茜であった。

 制服のシャツの上に袖がない薄い駱駝らくだ色のセーターを着た彼女は、そのぱっちりとした茶色い瞳で“あの時”のように空から垂れ込める闇を見上げている。


(……どうして、なんでここに……!?)


 先刻の病院でのこともあって、困惑する思考が頭の中をぐるぐると巡り、瞬矢は一旦引き返そうと試みる。

 だが相反して足は勝手に進み、ビルの入り口手前でぴたりと歩みを止めた。


「あっ……」


「…………」


 通りの一角に、静寂を切り取ったかの如く妙な間が流れる。無言で立ち上がる茜。


「お前さ――」


 静寂を打ち破り、先に切り出したのは瞬矢。そしてそれを遮ったのは、他ならぬ茜の言葉だった。


「やっぱり瞬矢には、私がついてないと!」


 覗き込むように瞬矢を見上げ、にこりと笑う。


「勝手にしろ」


 ふん、と軽く鼻を鳴らし背を向けると、俯きがちに目を伏せる。止まっていた歩を進めた時、右隣に立っていた茜が言った。


「どうせまた、アイスばっか食べてんでしょ!?」


 あながち外れてはいない鋭く切り込んだ茜の台詞に対し瞬矢は、すうっと右手をあげながら答える。


「余計なお世話――、だ!」


 語尾を強め、そして傍らを通り過ぎる際に右手の中指と人差し指で軽く茜の額を小突く。


「……って!」


 ぴしゃりと、わずかに響いた炸裂音。

 茜は小さく声を漏らし、反動で一瞬後方に仰け反り額を押さえた。

 そして口を尖らせ、潤んだ両目で恨めしげに瞬矢をねめつける。


「い……言いつけてやる!」


(……誰にだよ?)


 恨みがましくぽつりと呟いた茜の言葉に、瞬矢は心の中で突っ込みを入れるのだった。

 いつもとなんら変わらない、他愛もないやり取り。だが瞬矢自身、茜と接することで心のおもりがとれ、ふっと軽くなる気がした。

 理由は分からないが、彼女の言動全てが後ろ向きな思考すらも掻き消してくれるような、まるで心にかかった分厚いもやが晴れていく……そんな気分にさせてくれるのだ。


 改めて覚えた、日だまりの如き感情。暗がりに紛れ、くすりとわずかに頬を緩ませる。


「あー、そうかそうか。勝手にしろ」


 背を向けたままひらひらと右手を扇ぐ。


 茜は小突かれた額をさすると、何やら物思いに肩を落とし、ついた溜め息と共にその表情を緩ませる。

 そして肩までの茶色い髪をふわりと躍らせ、小走りで後を追うのだった。



 2



 時は遡り2時間前――。東の空はうっすらと夕焼け色に染まり始めていた。

 校舎を背景に正門を抜けようとした時のこと。


「東雲!」


 不意に背後からかけられた低めの声が茜を呼び止める。同時に左手首へ圧がかかり、仕方なく立ち止まることを余儀なくされた。


「何?」


 声の主が誰だか分かった茜は、振り返り明らかに怪訝な表情と声色でそれに応える。

 振り返った先には声の主、四宮の姿が。

 声の主こと四宮は、ややトーンダウンした口調で言う。


「こないだお前といたあいつ、絶対普通じゃない。あの目……、バケモンだ」


 以前、腕を締め上げられた際の感覚を思い出したかのように話す。


「そんなことっ……!」


 四宮の言葉に茜は思わず声を荒らげる。

 瞬矢が普通じゃない、そんなこと言われなくても分かっていた。

 ただ、瞬矢に対する化け物を見たかのような発言がどうにも許せなかったのだ。


「何も知らないくせに!」


 左手にかけられた四宮の抑制を振り切り、駆け出した茜は速度をあげて街並みへと溶け込む。

 いつしか街は黄昏て、東の空に夕闇が迫っていた。

 瑞々みずみずしい淡く色づいた唇を真一文字に結び、ぎゅっと瞼を閉じた。

 その際、茜の脳裏をつい先日に聞いた彼女の言葉がよぎる。

 ――それは10月23日、今からちょうど2日前のこと。



      **



 学校の帰り際、西日を受けながら茜は見慣れた景色の続く歩道を歩く。

 その足取りは、決して軽くはなかった。原因は昨日、瞬矢から受けた連絡。


『――。もう、ここには来るな』


 一時の間。その後、いつもよりトーンの低い声で吐き出された台詞。


「えっ?」


 理由も告げられず、いきなり切り出された瞬矢の台詞に疑問符ばかりが並び、上手に言葉が出てこない。


「……ちょっ!?」


 訳も分からないまま回線はぷつりと切れ、携帯の向こうから一定のリズムで虚しく響く通話終了の機械音。

 その内容はあまりにも一方的で、言葉から理由を知ることは不可能に等しい。


 ――昨日、なぜ彼はあのようなことを言ってきたのだろう。

 答えの出ない堂々巡りな思考に項垂れ溜め息ひとつ終止符を打ち、とぼとぼと歩道を歩き続ける。

 視線の先に長く伸びた人影が映り、ずっと垂れていた頭を持ち上げ、人物を視界に映す。

 その人物は新田 香緒里だった。


「こんにちわ」


 眼前に立つスーツ姿の彼女は、そう言って口元に形式的な笑みを湛え、わずかに頭をもたげた。

 彼女は瞬矢を疑っている。きっとまた何か訊きに来たに違いない。

 軽く一瞥した後、そう暗に思考を巡らせ、会釈だけを返すと再び歩を進める。


「あなたに話があるの」


(ほら、やっぱり……)


 茜は今、虫の居所が悪かった。瞬矢を疑っており、尚且つ刑事である香緒里の言葉に内心毒づく。


「私は別に話すことなんかないです」


 ふいっと地面に目を逸らし、彼女の横を通り過ぎようとした。だが、


「昨日、彼に会ったわ」


 彼女の放ったその一言に、一定して澱みなかった茜の歩みがぴたりと止まる。


「――……っ」


 「なぜ?」振り返り訊ねようとした。だが喉の奥で空気を凝固したような何かが詰まり、声にならない。


 自分にはもう来るなと言ったのに――どうしようもないもどかしさに歯噛みし俯く。

 自分がなぜこうまで彼に執着するのか不明であった。

 だが、どちらにせよ自分が会っていない時、彼女が瞬矢と顔を合わせていたことにあまりいい気はしなかった。

 当の香緒里は一瞬「あら」と目を少し開き、やがて口角をつり上げ宣う。


「随分と分かり易い反応するのね。あなたも」


 からかうような口調で口元に軽く握った右手をあて、くすくすと笑う。

 香緒里は、同性の茜から見ても美人の部類である。凛とした佇まいと所作からは、自分とは違うどこか大人びた雰囲気が漂っていた。

 茜の心境を察してか、香緒里は口元にあてていた右手をすっと下ろし柔らかな微笑へと変え言葉を紡ぐ。


「安心して。もう彼のことは追ってない。それに、私には持て余してしまうから」


 彼女曰く、10年前の父親の情報と引き換えに協力することになったと話し、一旦言葉を途切れさせる。

 やがてどこか遠くに視線を送り「彼が弟と同じなら、少なからずそこに闇がある」そう言ったのだ。

 そして、遠くにやった視線を茜へと移し続ける。


「彼にはあなたが必要よ」


「私が……?」


 彼女の言葉の意図するものが分からず、茜は小首を傾げる。

 それを見て、たった一言「ええ」と答え、彼女自身が見たことを思い出すように半目し言葉を続ける。

 オレンジ色の夕日が自然と表情に影を作り、より美しさを際立たせた。


「進むべき道を違わないよう、傍で照らしてあげる人間が。彼が自身に巣食う闇に飲まれないようにね」


 そこで言葉を切り、くるりと茜に背を向け、


「まっ、どうするかは自分で考えなさい」


 ひらり、左手を軽く振ってみせる。

 彼女の言葉を呑み込むことで精一杯だった茜は、去ってゆく香緒里の後ろ姿を、ただただぽかんと見つめていた。



      **



 ――25日、午後4時30分。道路を行く車のけたたましいクラクションが、茜を現実に引き戻す。

 目に映る街並みは、あの時のようにオレンジ色に染まっていた。

 立ち止まり、ビルの3階の窓を見る。

 電気はついていない。とりあえず、もうしばらくここで待ってみることにした。


 人は時間を持て余し、1人でいる時ほど色々と考えてしまうものだ。過去のこと、そしてこれからのこと。


『何も知らないくせに!』


 あの時四宮に言い放ったそれは、他でもない自分自身に向けられた言葉。

 思えば、自分は瞬矢のことをどれほど知っているのだろうか。

 また、瞬矢も自分のことをどれほど知っているのだろうか……。

 茜はビルの合間に蔓延る深淵を眺めながら思考を巡らせる。


『――茜ちゃん』


「……!」


 不意に明るい少年の声と口元だけを捉えた笑顔が脳裏によぎる。

 わずかだが茜はその声と笑顔に覚えがあった。昔、よく一緒になって遊んだ、今では顔もぼやけて思い出せないその子。


(名前……、なんていったかな?)


『――約束だよ』


(そうだ。私、その子と約束したんだ。……でも、何を……?)


 断片的な記憶の欠損。思い出そうとする度に襲う割れるような頭の痛み。

 顔も名前も忘れたその子と、何か大切な約束をした。それはとてもとても大事なことだったはず。


 いくら考えても思い出せない罪悪感にさいなまれ、胸の内が重く締め付けられる。

 それを少しでも軽減すべく、ふっと天を仰いだ。

 昔のことをほとんど覚えていない。自分もまた、瞬矢と大差ないのだと。

 その時、左斜め上から差した影が目の前の光を遡る。そのまま左上へ視線を送ると――。


「あっ……」


 茜は思わず声を漏らす。自分のいたビルの入り口の手前で、足を止めた瞬矢が物言いたげにこちらを見下ろしている。


「お前さ――」


 少しの間を置き、彼が何か言おうとした。


『どうするかは自分で考えなさい』


 彼女の言葉が頭によぎり、考え深げに少し俯く。一時の間を置いておもむろに立ち上がり、にこりと笑んだ。



      **



 無機質な蛍光灯の明かりが照らす薄暗い廊下。靴音だけが響く。

 数歩手前を歩く瞬矢の広い背中を見つめる。

 新田 香緒里の言ったように、本当に彼の中にも闇があるのだろうか。

 眼前にいる彼と、以前に屋敷跡で覗かせた表情とが交差する。


 部屋の照明スイッチを押す。蛍光灯は数回点滅した後ぱっと光を放ち、暗い部屋に明かりが灯る。

 部屋の中央に置かれた小さめのガラステーブル。そのテーブルを挟むように対になった革張りのソファ。

 どれもとうに見慣れた物だが、今はやけに懐かしく思えた。


 考えてみれば、ここに来た時点で心の中はすでに決まっていたのかもしれない。

 閉じられたドアにそっと凭れて床へ視線を落とす。


「そういえば……」


 がさがさとテーブルの上に散らばった資料を片づける音。そこに混じり聞こえた瞬矢の声。そしてその視線は、訝しげに手元の買い物袋へと向けられていた。


「ああこれ? こないだ誕生日だったから」


 そう言って手元の買い物袋から直径15センチメートル四方のケーキの箱を取り出す。


「……ねぇ」


 本当はこれをきっかけにできれば、そう思い小振りのケーキをテーブルの上に広げながら訊ねた。


「瞬矢の誕生日っていつ?」


 もし近いようなら一緒に祝おう、そう思ってのこと。当の瞬矢はソファにふんぞり返りながら答える。


「んー、俺か? 確か2月28日だったかな」


「とっくに過ぎてんじゃん!」


 思わぬ誤算に突っ込みを入れてしまう。それに対し瞬矢は「残念だったな」と、まるで見透かしたような笑み。


「まぁ、本当かどうかは分からないがな」


 とんでもないことをあっけらかんとした表情で話す瞬矢。

 その口振りからは、自身がいつ、どこで産まれたかなど大して気にも留めていないように思えた。

 まるで大切なのは生い立ち云々ではなく、今ここに在り続けることだと言わんばかりに。


「まぁいいや、ついでだし」


 茜は付属でついてきた透明なビニール入りの小さくてカラフルな蝋燭ろうそくをひっ掴み、対になっているソファへ腰を下ろす。


「ついでかよ」


 俯き苦笑するも、何かを祝うという事柄に対してはまんざらではなさそうだ。

 手持ちのビニール袋から3本ほど蝋燭を取り出しケーキに立てた。あとは火をつけるだけだと辺りを探す。


「ん、俺するよ」


 言うと瞬矢はズボンのポケットからライターを取り出し、手際よく火をつけていく。

 ぽつりぽつり、蝋燭の芯の部分に暖かなオレンジ色の火が灯る。


「けど、ついででもこんなふうに人から祝ってもらうなんて何年振りかな。でも――」


 言いかけた言葉を、ふっと喉の奥へと押し込むように溜飲した。


「……でも?」


 茜は小首を傾げて彼が言いかけた言葉の続きを問う。

 それを見て相槌を打つようにひとつ頷いた彼は、ゆらゆらと揺れる蝋燭の火を黒い瞳に映し続ける。


「でもあいつには、こうやって一緒に何かを祝ってくれる奴、いたのかな……って」


 その言葉に茜は、はっと目を見開く。

 自分は瞬矢のことばかり考えていた。なのに瞬矢は、刹那のことまでも考えている。

 当たり前だ。例えどんな人間だったとしても、唯一血を分けた弟なのだから。

 あの櫻井とかいう男は、どうだったのだろう。

 もし刹那に、彼に喜びも悲しみもその全てを心より共有し合える者がいなかったとしたら……。

 きっと耐えられないだろう。そう考えた時、胸中とても苦しくなり、茜は両手を膝の上で握り締めた。

 重く垂れ込めた思いを吹っ切るかの如く、軽くかぶりを振り、無理やりに笑顔を作る。


「じゃあ、1人分追加だね」


 ガラステーブルの上に置かれた透明な袋から、緑色をした追加の蝋燭を1本取り出しケーキにさす。


「ああ、そうだな。あいつの分も」


 それを見て瞬矢も先ほど同様、澱みない所作でテーブルに置かれたライターを取り、蝋燭の先端に火をつけた。


「そうだね」


 蝋燭の先端で揺らめく4つのオレンジ色をした灯火に視線を落とし、茜は静かに肯定した。

 眼前の小さな灯火を見つめる茜の脳裏に、先刻の香緒里の言葉がよぎる。


(……私は、瞬矢にとっての光になれるかな?)


「茜……」


 切々たる思いを巡らせていたところ、不意に瞬矢が呼びかける。


「?」


 いきなりなんだろうと顔を上げて言葉の続きを待つ。やがて瞬矢は、はにかむように視線を逸らしぽつりと言った。


「――誕生日おめでとう」


「――!」


 予想だにしていなかった言葉に茜は一瞬目を丸くしたが、すぐさまにわかに頬を染め、小首を傾げてふわりと笑う。そして一言。


「ありがとう」


 温かな蝋燭の灯かりの中で、茜は口元に湛えた微笑と共に決意する。

 もしあの刑事、新田 香緒里の言ったとおり、本当に瞬矢の中に闇があって、それを照らせるのが自分だけなら、たとえこの先何があっても彼の光になろうと。


 

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