我が目に棲む闇
――薄暗い廊下。今どの辺りを歩いているのかすら分からなくなっていた。
(やっぱり、こういう場所は慣れないな。あの頃を思い出してしまう)
やがて、薄暗い闇の一部を切り取ったかのような光が差す。
――【第2研究室】。
そう書かれたドアの中を覗くと、長い髪をひとつに纏め白衣を着た女が1人、試験薬をマウスに投与していた。
その様子を見た彼はくすりと笑みを浮かべ、気配を殺したまま室内へと入る。
途中、プラスチックの透明ケージの中でせわしなく歩き回る白いマウスがいた。
それを見て彼は微笑み近寄ると金網を開ける。
後ろ足で立ち上がり、きょろきょろ辺りを見回すマウスをそっと手で抱えると、すぐ近くの壁に凭れ開口した。
「久しぶりだね。――『先生』」
突然の人の気配と投げかけられた言葉に、白衣の女は驚き振り返る。茜の父親の元同僚、渡辺 真理だった。
「せっ……!」
『刹那』そう言おうとしたが、言葉に詰まってしまう。
後ずさり慌てた為に試験管やシャーレなどが床に散乱し砕ける音が響く。
彼――もとい刹那は、妖艶な笑みを口元に湛え言った。
「あの頃も今も、やってることは変わらないんだね」
――しばしの沈黙が過ぎ、やがて何かを理解したかの如く真理は訊ねる。
「2人を殺したのもあなたね?」
彼女の問いに、刹那は否定も肯定もしなかった。ただ俯き加減にくすくすと声を殺し笑う。
「このマウスは僕……いや、『僕ら』の代わり……でしょ?」
彼女の質問を聞いてか聞かずか、そう言って口元に笑みを湛えた刹那は、掌の上でしきりに周囲を見回すマウスを軽く撫でた。
そして再びケージに戻すと真理のもとへ1歩、また1歩と歩み寄る。
逃げようとする真理を「逃がさない」と言わんばかりに横目で捉えた。
見開いた両目の瞳孔がぎゅっと閉じ、薄紫色に光を帯びる。
途端、真理の体が空間を切り取ったように宙で留まる。
さっと右手を前に
先ほど同様、刹那が左手を翳すと、台の上に散らばった解剖用のメスが4本ふわりと宙に浮く。
そして空中で真理に刃を向け留まり合図を待つ。
「――ッ!」
左手が振り払われるとそれらは一斉に空を切り、白衣の両袖を貫き壁に深々と突き刺さる。
抗う間もなく壁に
刹那は薄紫色の瞳のまま、後ろ手にゆっくりと真理のもとへ進む。
そして、姿勢をかがめて彼女に目線を合わせ、悪戯っぽい笑顔で一言。
「立場、逆転しちゃったね」
壁に右手をつき、近づけた顔を逸らして耳元でこそりと囁く。
「僕は知ってたよ。先生がどんな目で僕を見てたか」
言葉と共に口の端から漏れ出た吐息がかかり、壁から離れた右手が撫でるようにブラウスの襟元へと伸びる。
刹那は笑みを湛えたまま、彼女の肢体に自身の体を滑り込ませた。
「……っ」
恐れからか、何かを悔いるように両目に涙を溜める真理。
耳元から顔を離した刹那は、今度は彼女の頬に右手でそっと触れ、どこか悲しげに続ける。
「ねぇ、覚えてる?」
――10年前。
**
それはいつのことだったか。薄暗く長い廊下を、少年は白衣を着た1人の大人に手を引かれ歩いていた。
繋がれた手はかくも大きく温かく、少年『刹那』の心までをも包み込む。
襟元に黒い細めのリボンがついた白シャツと茶色いハーフパンツ、黒っぽいソックスを履いた刹那は頬を紅潮させ嬉しそうに笑っている。
なぜこうなったのか。それは、ほんの10分前のこと――。
廊下を手探り、壁づたいにふらふらと人の気配を求める刹那。
その前に、部屋の場所を示すかの如くドアの端から差す明かりとそこから漏れる複数の声が届く。
刹那は小首を傾げ、それでも引き寄せられるかのように明かりの方へと歩を進める。
「ですが……!」
あまり高くはないが、声質からして1人は女。もう1人は――
「……これは決定事項だ」
低く落ち着きのある声。――男だ。
(いったいなんの話だろう?)
もっとよく話を聞こうとドアに体を密着させ耳を傾ける。
「――!」
部屋の内側からドアが開き、避けようとした為にぐらりと後方へバランスを崩す。
ドアの前では、白衣を着て眼鏡をかけた30代くらいの女が驚いた様子で刹那を見下ろしていた。
明るく切り取られた部屋の奥には、同じく白衣を着た黒髪の男の姿が。
彼はかけていた眼鏡の奥で刹那を一瞥し、それ以降は目を合わせようとしない。
「あ……あの、僕……」
彼女は姿勢を低く目線を合わせ、優しく微笑みながら右手で刹那の頬にそっと触れ言う。
「大丈夫よ。あなたは何も気にしなくていいの」
まるで母親を思わせるような笑顔が、彼の大きく茶色い瞳に映り込む。それは、幼い刹那にとって第3者からの温もりを初めて感じた瞬間だった。
「さぁ、行きましょう?」
するりと撫で下ろされた右手は、刹那の左手を優しく取る。
少し歩いたところで女は立ち止まり、すぐ左側の照明スイッチを押した。
明るく照らされた窓のない廊下。
突き当たりには、焦げ茶色をした木製の重々しい雰囲気を放つドアがあった。
その木製のドアが近づくにつれて刹那の足取りは重くなり、やがて半分を歩ききったところでぴたりと止まる。
「もう、ここにはいたくないよ」
晴れない表情を垂れた艶やかな前髪の奥へと隠すように俯き、刹那は呟く。
「どうして? ここにはあなた1人じゃないし、寂しくないはずよ?」
女も足を止め、少し困ったような口調で訊ねる。
「だって、みんな僕を冷たい目で見るんだ。それに『ヒケンシャ』って……」
尚も俯いたままの刹那は、今にも泣き出しそうな声で話す。
ここにいる周りの大人たちが、無意識に刹那へ向ける視線。
それを幼いながらも敏感に感じ取ってしまったのだろう。その理由も分からないまま。
「……ねぇ」
「なぁに?」
彼女は刹那を愛でるような眼差しで見下ろし、笑顔で小首を傾げた。
「先生は、僕のこと好き?」
『先生』と呼ばれた白衣の女を不安げに見上げ返答を待つ。
彼女は少年を頭の天辺から爪先まで準えるように見つめた後、こう答えた。
「ええ、勿論よ」
それを聞いた途端、今までの不安げな表情から一転して、ぱあっと明るいものへと変わってゆく。
「よかった!」
にわかに頬を紅潮させた彼は、嬉しそうに少年らしい無邪気な笑みを見せる。
繋がれた手は、大きく温かく――。
**
――“あの日”を再現するかのように真理の頬に触れていた右手がするりと撫で下ろされ、しなやかな指が顎を支える。
刹那は、相変わらず目線を合わせたまま言った。
「本当はね、先生だけは生かしてあげようと思ってたんだよ」
顎に添えていた右手をぱっと離すと、散らかった研究室の台に腰を下ろす。
子供のように宙で両足をぶらぶらとさせて、真理の方へちらりと視線を移した。
刹那の言葉を聞き、真理の瞳にほんのわずかな希望の光が宿る。
だが、刹那はそれを見逃さなかった。
まるでその希望の芽を摘み取るかの如く、彼女に背を向け楽しげな口調で言い放つ。
「でも、やめた!」
台からひょいと床に飛び下り、辺りをうろつく。
そう。刹那には、初めから彼女を救う気などなかったのだ。
2、3歩進んだところで、ふと何かを思い出しでもしたかのように天井を見上げ呟いた。
「そういえば……」
天井から視線を逸らし、背後の真理を捉え言う。
「『彼女』の記憶も書きかえたんだね」
研究室の無機質な照明を映す、その目はとても冷ややかだ。
刹那の問いかけに、彼女は黙ったまま否定も肯定もしない。それを見て嘲笑し続ける。
「……まあいいさ。どうせそのうち思い出すから」
今一度ケージの中で
「それに、そろそろ『彼』も気づくはずだ」
「あなた、いったいどこまで知って――!?」
少し振り返り口角をつり上げ、まるで「全て知ってる」とでも言わんばかりの妖しげな笑みで応える。
踵を返すと再び真理のもとへ歩み寄り、ズボンのポケットから水色と薄紫色をした薬品が入った栓つきの試験管を取り出す。
「――! それ、まさか……」
刹那は「ご名答」とでも言いたげにくすくすと笑う。
それを右手に持ちかえ、彼女の目前にちらつかせながら言った。
「さて、ここに2種類の薬があります。先生もよーく知ってる【S】の起源」
ごくり、息を飲む真理に刹那は顔を近づける。
「僕が、何も知らないとでも思った?」
見開かれた両目は真理を捉えて放さず、淡い薄紫の薬品と瞳の色が交差する。
「先生に分かる? 本当のことを知った僕が今までどんな思いでいたか」
「ね……ねぇ、お願い刹那。やめて……」
身動きが取れない状態で首だけを前に垂れ助けを乞う。
だが、そんな真理の言葉を聞いた途端に刹那の顔から表情が消えた。
彼は右手に持っていた薬品をズボンのポケットへ仕舞い、前髪の奥に本質を隠す。
やがて何が可笑しいのか刹那は前かがみに腹を抱え、右手で顔を覆い肩を震わせ「くく……っ」と必死に声を殺して笑う。
そして、笑みをまじえた口調で言った。
「やめて、助けて……? あの時、同じことを言った僕に先生、あなたはなんて言った?」
『――大丈夫よ。心配ないわ』
肩を震わせていた失笑は止み、がらりと刹那の口調が変わる。
「話し相手なんて他にいなかった……だから、先生や先生の周りにいる人たちのことも信じようと思った。なのに――」
今まではどこか嘲ったような、皮肉めいた言葉を吐いていた。
だが、それは一転して静かな悲しみと怒りに満ちたものとなる。
すうっと顔の上で右手を滑らせ、指の間から覗く薄紫の瞳は射るように真理を見据える。
蛍光灯はチカチカと点滅し、白い
点滅していた蛍光灯が次々に炸裂音をあげて砕け散る。
淡く光を帯びた薄紫の瞳と渦巻く冷気が、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
刹那を中心に1メートル四方の物が宙に浮かぶ。
そしてそれらは、彼を覆い渦巻く冷気の周りでゆらゆらと漂う。
宙に浮いた物の中から先の尖ったガラス片を示し指を鳴らすと、くるり鋭い刃先を真理に向ける。
「さよなら」
右手を振り下ろすと同時に、ガラス片は真理に向かってヒュン――と空を切った。
「いっ……いやああぁぁっ!」
誰もいない研究室に、真理の断末魔にも似た叫び声が木霊する。
透明ケージの中のマウスは、ルビーのような赤い目でただその光景を見つめていた。
唯一の明かりだった蛍光灯は粉々に割れ、暗闇に包まれた研究室に佇む彼は呟く。
「それに、僕は『刹那』じゃない」
しばらく現場を眺めていた刹那だったが、不可解な言葉を残し研究室を後にした。
**
建物の屋上に出た刹那は、
吹き上げた風に、柔らかく艶やかな黒髪がそよと
まるで、暗闇という名の
「……広いな。でも、なんて狭いんだ」
すうっと目を開け、微笑み混じりに街のネオンを見下ろし独りごちる。
タンッ、軽快に地を蹴り闇夜へと跳躍した体は空中で緩やかな弧を描き、加速度をあげて地面が近づく。
伝わる重力と共に手をつき静かに着地する。
立ち上がった際、不意に頭の中に流れてきた懐かしいメロディー。
刹那は無意識のうちにその曲を口ずさむ。
「とーおきーやーまにー……」
やがてそれはぴたりと止み、
「……ふふっ……はははっ!」
当初は楽しげに鼻歌をまじえていた彼だったが、まるで壊れた玩具のように両手で顔を覆いけたけたと笑う。
背後には、ついさっきまでいた研究所が不気味に
この時、刹那の目に何が映り、そして何を感じていたのか。
それを知る者はいない。やがてその姿は、深い闇夜に消えていった。
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