第4章 それは、悲しく残酷なものばかりではない。

再会の旋律

 

 1



 ――20XX年 5月8日。


 翌朝8時10分、渡辺 真理が遺体で発見された。

 第1発見者は同研究所のスタッフで、この研究室へ顔を出したところ発見に至ったらしい。

 すでに現場へやって来ていた鑑識課の1人である男が、香緒里たちを見つけ言う。


「いやぁ、新田さん。今回も酷いもんだ。あれじゃまるで【標本】ですよ」


 ――【標本】。

 鑑識の言ったその表現は、あながち間違いではない。

 だが現場をより凄惨なものに感じさせたのは、体に突き刺さったガラス片と、壁や床に生々しくこびりついていた血痕だった。

 それらを一通り視界に捉えた香緒里は、眉をひそめ訊ねる。


「目撃者は?」


「それが――」


 山田は香緒里の後ろをちらりと見て、どうにも切り出し難そうに首を押さえる。

 香緒里は山田の視線の先が気になり、顔だけで振り返った。


「……ネズミ?」


 透明ケージの中のマウスを一瞥する。


「実験用のマウスっすよ。事件当時、他には誰もいなかったみたいで」


 訝り顔の香緒里を見て、山田は一度くすりと笑い言った。


「……で、被害者に“あれ”はあったの?」


 ふいと目を逸らし鑑識の男に訊く。

 男は一言「ええ」と答え、手袋をはめた指先で血に染まったシャツの襟元を捲る。

 香緒里たちは、ガラス片に飾られた被害者の頚部を覗き込む。


「【S】……――」


 血にまみれて分かりづらかったが、左の首元には確かに同じ【S】の文字が刻まれていた。


「今、この周辺からごく最近の指紋を検出してます」


 鑑識の男は言う。


「ありがとう。前に渡した手紙の指紋との照合も頼めるかしら?」


 香緒里の言葉に、男は苦笑いを見せながらも承諾した。


「あの……」


 割って入った山田の一声に、香緒里は振り返る。


「いえ、ね。監視カメラに映ってた映像なんですけど……」


 言いかけて山田は言葉を濁す。


「何?」


 香緒里は、怪訝そうな顔で山田が言い澱んだ言葉の続きを促した。


 モニターに映し出されたそれは、研究所の外の映像。

 時刻は、丁度被害者の渡辺 真理が殺害された頃を示していた。

 そして監視カメラの画面上から、突如降って湧いたように現れた1人の人物。

 ハイネックシャツとジーンズに身を包んだ、黒髪の青年だ。

 彼はすうっと立ち上がり、画面の前でにたりと笑う。

 まるで、自分が録られているのを理解したような、そんな笑みであった。


「……何?」


 それは、ふと感じた映像への違和感。

 監視カメラの映像を食い入るように見つめ、何度も巻き戻しと再生を繰り返す。そして確信する。


「そんな……あり得ない!」


 身を乗り出した勢いで、一時停止ボタンを押す。

 そう。この監視カメラが設置されているのは、地面から10メートル以上離れた3階くらいの位置。

 つまり、無傷で着地するなどまず不可能なのだ。


(【S】あなたは何者なの?)


 一時停止の画面の中、青年は香緒里たちに向かい口角をつり上げ妖しく笑う。



 2



 同日、午後4時03分。警察が瞬矢の任意同行を要請した。

 3人目の被害者、渡辺 真理の左頬や壁から出た指紋と手紙に付着していた瞬矢の指紋がほぼ一致したのだ。

 その日、瞬矢のもとを訪れた茜は、到底信じられない光景を目撃する。


「えっ、何……?」


 刑事が何か言ったことに対し「知りません。任意でしょう?」そんな押し問答を繰り返していた。

 だが、やがて辺りを見回しひとつ溜め息をつき、


「分かりました」


 腑に落ちないながらも人目をはばかってか、同行を求めた刑事の後に続く。

 偶然その様子を目にした茜は、何が何やら分からずただただ狼狽え、ビルの前に立ち竦む。


「なん……で?」


 茜が瞬矢のもとを訪れた時、すでに彼は警察車両に乗り込む寸前だった。


「瞬矢!」


 思わず荒らげた声に、瞬矢は足を止めて振り返る。咄嗟に駆け寄り、その右腕を掴む茜。


「なんで!? 捜してくれるって言ったじゃない!」


 目に涙を溜め喚きたてる茜の頭に瞬矢はぽんとその大きな手を乗せ、ズボンのポケットから何かを取り出し渡す。


「これ、預かっといてくれ」


 もうだいぶ慣れ親しんだ、当たり前のようになった温もりの中に、わずかにひやりとした感触が残るそれは、部屋の鍵だった。

 驚いて見上げた茜に、瞬矢はにこりと笑い、まるで「ちょっと行ってくる」とでも言わんばかりに再び背中を向ける。

 それは、子供に留守番を頼むものと酷似していた。

 茜はその後ろ姿を黙って見つめる。


 1人残された茜は、制服姿のままがらんとした部屋を見渡す。

 いつもこのドアを開ける度、来客用のソファにふんぞり返ってふてぶてしい笑顔を覗かせていた彼。

 その姿を窺えないことが、今ではどこか寂しく感じられる。

 鼻から抜けるような溜め息をつき、持ち主不在のソファに力なく座り込む。

 頬づえをついたりしてみたが、やはりそれは埋まることはなく、やがてごろりと寝転がる。

 まるで、心にぽっかりと穴が空いたような感覚だった。


 オレンジ色の夕日が、ブラインドの隙間から差し込み部屋を照らす。

 ――静寂。壁の掛け時計と机に置かれたガラス時計、そのふたつの秒針の音だけが鳴り、茜の頭を冴え渡らせた。


『大丈夫。約束は守る』


 去り際、そう言って悪戯っ子のように歯を見せ笑う瞬矢の顔がふっとよぎる。――と同時に、以前遭遇した瞬矢の双子の弟『刹那』の顔が浮かぶ。


(私が、なんとかしなきゃ!)


 瞬矢以外に、自分しか『刹那』の存在を証明できる人はいない。

 そう考えた茜はソファから立ち上がり、部屋を飛び出す。



      **



 翌、9日日曜。茜は瞬矢のアリバイを証言しようと警察署まで来ていた。

 だが親しい者の証言は証拠とされないと突っぱねられ、ひとつ溜め息をつきとぼとぼと引き返す。


(やっぱり、瞬矢がいないと)


 無意識のうちに自分が瞬矢に依ってしまっていることに気づき、嘲笑と共にまたも深い溜め息をつく。

 いくらわめいたところで相手にされないのは分かっていた。


(このままじゃ、本当に瞬矢が犯人にされちゃう。でも、どうすれば……)


 警察署の入り口で、眼鏡をかけた1人の男とすれ違う。瞬矢と同年代くらいだろうその男が口ずさむ懐かしいメロディー。


(この曲……!)


 その旋律に、茜は思わず振り返る。

 それは幼い頃、夕方になるとどこからか流れてきたアントニン・ドヴォルザークの『新世界より』だった。


「瞬矢なら大丈夫だよ」


「!」


 聞き覚えのある声に、背筋がぞくりと凍りつく。声のした方を見ることができず、背を向けたまま訊ねた。


「『刹那』……なんでしょ? あなたいったい何が目的なの?」


 背後で刹那がくすりと笑ったように感じた。


「今に分かるさ」


 『今に分かる』茜がその言葉の真意を理解する間もなく、矢継ぎ早に刹那は続ける。


いずれまた会おう」


 風がふわりと掠め、茜の肩ほどまでの茶色い髪を揺らす。


「待って!」


 慌てて振り返ったが、すでに刹那の姿はそこになかった。

 警察署の前で佇む茜の脳内を、あるひとつの懐かしい記憶が支配する。


 その日の晩、犯人逮捕のニュースが流された。

 男の名前は『櫻井さくらい りく』。瞬矢と同じ21歳だ。

 警察は彼の全面自供を受け、捜査は実質終了される。

 これにより【S】の連続殺人事件は幕引きしたかに思われた。しかし――。



 3



 午後。櫻井 陸が逮捕されたことで瞬矢は無事、無罪放免となった。

 警察署の入り口を出たところで茜が駆け寄り迎える。

 だが、瞬矢にはどうにも腑に落ちない点があった。それはほんの少し前のこと。


 瞬矢の視界に、刑事に連れられ一定の歩調で歩いて来る1人の男が映る。

 白っぽいハイネックのシャツにジーンズ、眼鏡をかけたその男は、すれ違いざま瞬矢に言った。


「彼の指示かって? 違うね。僕は、自分の意思で動いてるだけさ」


 口元に笑みを湛えてはいるが、その口調はとても淡々としたものだ。

 ふと足を止め、何かを考えるかのような表情で天を仰ぐ。


「ああ、そうそう」


 そう言って男は思い出すかのように続ける。


「彼から君に伝言だ」


 一度振り返り横目で瞬矢を捉えると、にっこり笑い言った。


「『【鍵】を大切に』」


(【鍵】……?)


 なんのことかと訝しむ瞬矢は、眉をひそめ、問い返すように彼を見据えた。

 窓から差す光が、男の横顔をにわかに照らす。

 傍らにいた刑事に促され再び歩き出した彼は、どこか聞き覚えのある鼻歌をまじえる。


 そして現在。櫻井という男の残した言葉もそうであるが、なぜ警察が櫻井を逮捕に踏み切ったのか。

 そして早々の捜索終了。

 自分への疑いが晴れたのは喜ばしいことだが、その反面、瞬矢は警察内部の体制に疑念を抱かずにはいられなかった。

 瞬矢は今一度、いぶかしげに警察署の建物を振り仰ぐ。



      **



 ――7月16日。事件に終止符が打たれてから早2ヶ月が経過し、至るところで蝉の鳴き声が聞こえるようになっていた。

 街を行き交う人々にも半袖が目立つ。


「でも、やっぱり変よ」


 夏休み前のテストも終わり、久々に顔を見せた茜が切り出す。

 彼女も例に漏れず夏物の制服に身を包んでいる。


「ん?」


「いくら自首してきたからって、証拠もないのに……」


 どうやら茜も、瞬矢と同じことを考えていたらしい。


「まぁな」


 しかしそのお陰で助かったのは事実であり、複雑な心中、瞬矢は曖昧な返事しか返せなかった。


「それでね、何か手掛かりになりそうなものがないかって家中探してたら、こんなのが出てきたの」


 そう言って、茜は鞄から1枚の写真を取り出し見せる。

 それは、西洋風のコテージを背景に笑顔を向ける幼い茜の写真だった。


「なんとなくしか覚えてないんだけど、昔行ったことがあって。ひょっとしたらここにいるのかもしれない」


 目の前に差し出された写真を見る。

 裏面には、鉛筆文字で『茜 4歳。××山 コテージにて』と書かれていた。


「じゃあ、行ってみるか」


 現状で、彼女の父親の居所を示すものはほとんどない。

 ならば、少なくとも行ってみる価値はあるのではないかと思ったのだ。


「えっ?」


 驚いて目を見開く茜に、瞬矢は笑いながら顔の横で車の鍵をちらつかせる。


「免許、持ってたんだ」


「ま、こーいう時の為に一応な」


 山中にひらけた土地が現れ、目の前に写真で見た西洋風の大きなコテージが窺える。まるで別荘のようだ。

 辺りを緑に囲まれたそこは、まさに避暑地と呼ぶにはもってこいな場所だった。

 コテージ前の駐車スペースには、白い乗用車が1台停まっていた。


「あっ! あれ、父の車!」


 その言葉に車を停めるとほぼ同時、茜は後部座席のドアを開け駆け出す。

 地面に最近ついた車輪の跡はなく、長期間この場にあることを想像させた。

 瞬矢は踵を返しコテージを眺め、階段の先にある玄関らしきものを見つけ歩み寄る。

 木製のドアを2、3度ノックするも応答はなく、賑やかな蝉の鳴き声だけが一帯に響く。

 今度は、茜がドアを叩き呼びかける。


「お父さん私、茜だよ! いるなら返事して!」


 だがやはり届くのは、無言の返答。

 何か様子がおかしい。そう感じた瞬矢は、右手で茜を1歩後ろに下がらせドアノブを掴む。

 ゆっくり、ドアノブを回してみると玄関に鍵はかかっておらず、恐る恐るドアを開ける。


 室内は、照明など一切ついてなく窓からの明かりのみで薄暗い。

 部屋に立ち込める臭いに手で鼻と口を覆う。

 広いリビングの真ん中、確かに“それ”はあった。


 ぶらんと宙に垂れた両足。はりに結わえられたロープ。

 顔は逆光でよく見えないが、眼鏡をかけた男の姿に瞬矢は見覚えがあった。


(この男、まさか……)


 それは以前、意味不明な言葉と共に、瞬矢の腕に水色の薬品を注射した男と酷似していた。


(なぜ……なぜだ!?)


 全身からいやな汗が一気に吹き出る。蝉の声が耳につく。

 瞬矢は目の前に広がる光景から視線を逸らすことができず、手探りで後ずさろうとした。

 手探りの指先がデッキのボタンに触れ、機械的な音が鳴る。

 それと同時に、オーディオから流れてきた音楽。

 アントニン・ドヴォルザーク交響曲第9番、第2楽章『新世界より』。

 あの櫻井という男が口ずさんでいた曲だ。

 この一致は何か関係があるのか、それともただの偶然なのか。東雲 暁と櫻井には接点があるのか。

 瞬矢の思考は、ますます混乱を極めた。


「瞬矢、どうかした? それにこの曲――」


(茜……!?)


 まるで、中の様子を窺うような茜の声ではたと我に返った瞬矢は振り返る。

 視線の先には、玄関先からひょいと顔を出しこちらを覗き込む彼女の姿があった。

 やはり茜も異変に気づいたのだろう。小首を傾げ、訝りながらも玄関からコテージ内へと足を踏み入れていた。

 彼女にこの光景を見せてはいけない。そう思い、咄嗟に声を荒らげる。


「――っ、来るな!」


 だが、声を飛ばし駆け寄った時にはすでに遅く、茜は視線の先に“それ”を捉えていた。


「……!」


 あんぐりと開かれた口は言葉を失う。


「い……いやぁ……っ!」


 響いたのは、叫喚。両手で頭を抱え茜は膝から崩れ落ちた。

 瞬矢は視界を遮るように割って入り、支軸を失った茜の体を両手で支える

 その場の雰囲気とは到底不釣り合いと思われる雄大な旋律が、蝉の声に混じり悲しく響く。



      **



 警察の到着後も茜はずっと俯き、その間一言も発しなかった。

 遺体は死後しばらく経っていた為に身元の判別はが難しく、後に歯形などから10年前に失踪した茜の父親、東雲しののめ あきらであることが判明する。

 現場に遺書らしきものは見当たらなかったが、状況から自殺と断定された。同日、午後3時40分のこと。


 警察署内の廊下の椅子に座り、瞬矢の隣ずっとふさいだままでいた茜。

 不意に、口元に感情とは裏腹な笑みを見せ震える声で言う。


「覚悟なら、とっくにできてたはずなのに……なんでかな?」


 覗かせた笑顔とは相反し、膝の上で両手を握り締めた。

 小刻みに震える手の甲に、涙がぽたり伝い落ちる。

 同時にすとんと、瞬矢が着ているシャツの胸元に顔をうずめむせぶ。


「ごめん……。こういうの苦手なの、分かってる。けど、しばらくこうさせて……」


 現状を理解していた瞬矢は突っぱねることもできず、シャツに顔をうずめる茜の小柄な背中をさする。


「ああ。今回だけ特別だ」


 そう小さく呟いて。

 自分と最も近しい者の死。それがどれほどのものなのか、瞬矢には想像し難くかける言葉も見当たらない。

 今この時、瞬矢は改めて実感した。血は繋がってないが、自分には両親がいる。そして、刹那が……。

 その有り難さ。尊さ。


 ただ思うこと。それは――この出来事が悪い夢であったなら、どんなによかったことか。

 現実にしては、あまりにも悲しすぎる再会だ。

 ――蝉時雨。窓から差すオレンジ色の夕日だけが、2人を温かく優しく染め上げた。

 いまだ耳について離れない夕方のたおやかな旋律に、瞬矢は俯き加減にそっと目を伏せる。

 鼻先にある彼女の髪から、ふわり、夏のかすかな香りがした。


 今は、このままで――。



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