記憶の鍵

 

 1



 ――ざわり、風に凪ぐ木々の音で浮遊していた意識は留まる。

 顔を上げると目の前には、欠けた月を覆い隠す樹木がそびえていた。

 すぐ傍らには大きな屋敷があり、点々とついた窓の明かりが茜を見下ろす。

 いつもより目線が低い。広い庭にぽつんと佇む茜は、違和感に自らの両手を見やる。


(私の手……小さくなってる?)


 だが、少女が変化を感じたのは手だけではなかった。

 身の丈から衣服に至る全てのものが変わっていたのだ。

 覚えのある服装。切り返しのついた白いスカートも長く伸びた髪の毛も、全てが、5歳頃のそれだった。


 突然、屋外から屋内へと周りの風景が変わる。

 恐らく、先ほどまで外で見ていた屋敷の中なのだろう。

 目の前には温かな照明に照らされた長い廊下が続いていた。突き当たりには、古い木製のドアが聳える。

 なぜだかそのドアに呼ばれたような気がした。


(なんだろう?)


 導かれるように、古びたドアの前へと歩を進める。

 ドアノブと目線が同じくらいで、それが幼少の時分であることを改めて知らしめたのだった。

 しかし、やはりそれは夢でしかなく、ドアノブにゆっくりと手を伸ばす。


「茜!」


 栗色の長い髪を躍らせ振り返った茜は、白衣姿で駆け寄ってくる父親を見上げる。

 彼はドアから茜を引き離し、そして床に膝をつき言う。


「ここには入っちゃダメだ」


 「なんで?」そう訊こうとしたが、父の真剣な眼差しに切り出すことができず、ぐっと言葉を飲む。


「いいかい?」


 目線を合わせ、再度言い聞かせる。

 黙ってこくりと頷くも、なぜ父がそのようなことを言うのか――。

 幼心、そんな思いにかられながら廊下の突き当たりにあるドアをじっと見つめる。


「さ、母さんのところに行ってなさい」


 促すように父は立ち上がりそう言う。真剣な表情から、珍しくほんの一瞬だけ柔らかな笑みを見せた。

 いつも眉間に皺を寄せ険しい顔をしていた父、あきら

 茜の記憶には、そんな父の姿しか残っていない。

 去り際に茜は振り返りドアを見る。ドアは沈黙のまま、どこか寂しげな影を落とす。

 ただそのドアから漂う雰囲気は独特で、しかし恐怖というものは感じられなかった。


(いったい、何があるのかな?)


 『トロイメライ』の、ゆったりとしたピアノの旋律が廊下に響く中、次第に意識は遠のき……。


「――!」


 暗い部屋の中、はたと目を覚 ます。

 ベッドから上体を起こし、自分の両手を確認する。ぼんやりと映る両手は5歳のそれではなく、現在のものだった。


(夢……?)


 昔のことを夢に見る、それだけならばよくあることだろう。

 だが夢にしてはやけに鮮明で、尚かつ、父の言葉やドアノブの感触などもリアルに感じられた。


 ――20XX年 10月18日。


 部屋の明かりをつけ枕元の目覚まし時計を見ると、時刻はすでに午前2時を回っていた。

 妙に目が冴えてしまった為、ホットミルクを作り部屋へ戻る。

 体の芯まで伝わる温かさに、張りつめた気持ちが少しずつほぐれていくのが分かった。

 軽い音を立て小さな木のテーブルにカップを置く。

 そしてベッドの上、夢と記憶の合間でしばしの間、独り膝を抱える。


(あれは、確かに夢だった。でも……)


 茜は明かりを消し布団をかぶり直すと夢を見ないよう願う。

 やがて訪れた睡魔に、再び深い眠りに就いた。



 2



 同日、午後1時20分。雲ひとつない秋晴れの日。

 2ヶ月前とは異なり、空が少し遠くに感じられた。

 瞬矢たちは、事前に調べておいたメモに書かれている場所へ向かう準備を始めていた。

 準備といっても実質用意する物はほとんどなく、待ち合わせたという方が正しいだろう。


「お前さ、ほんとについて来る気か?」


 瞬矢が窓に背中を預け訊ねると、茜は手を止め答える。


「もし今回の事件……ううん、10年前あったことに父が関わってたとしたら知りたいの」


 一息つくと「それに……」と、更に一拍置き続ける。


「あの時、決めたじゃない」


 ソファに置いてある深緑色のダウンを小脇に抱え、そう言って茜はにっこり気丈な笑顔を見せた。


「そうだったな」


 瞬矢は思い出して参ったとばかりに苦笑し、手元に視線を落としながら相槌をうつ。

 その手には、件の腕時計とメモが握られていた。

 茜の言った“あの時”、それは2ヶ月前。


 8月18日、午前11時30分。瞬矢たちは最寄りの時計店に来ていた。

 店の至るところに様々な時計が所狭しと並べられ、なかなかレトロな雰囲気を漂わせている。


「こりゃ、時計じゃあないな」


 時計店の店主は眉間にしわを寄せ、険しい顔で言う。更にはこうも続ける。


「この【S‐06】って数字。シリアルナンバーじゃない」


 ならば、今まで瞬矢たちが腕時計と思っていたこの物体はいったいなんなのか。

 店を出て尚そんな思いがよぎり、しばし手の中のそれを見つめる。


(あと残ってるのは、このメモだけか……)


 店先では、中にいる時よりも蝉の鳴き声が一層鼓膜に響いた。


「『全てはここにある』か。となるとやはり東雲 暁が……」


 どうやら知らない間に独りごちていたらしく、しまったとばかりに茜の方を見やる。


「いいよ。正直、あまり実感湧かないんだ。思い出が少ないせいかな?」


 そう言ってこうべを垂れた彼女は寂しく微笑む。


「それに、夢を見たの。初めて見るのに懐かしい……たぶん昔の夢。ドアがあって、でも『絶対入っちゃダメ』だって」


「でも、結局その理由は分からないままだったんだけど」


「だからね、私も父のこと知りたいし、最後まで付き合うよ」


 圧倒され、瞬矢は頷く。すると数歩先でくるりと振り返り満面の笑みを見せ言う。


「決まりだね! さっそく調べなくちゃ!」


 燦々さんさんと降り注ぐ太陽が、笑顔の彼女を眩しく照らした。

 彼女の、曇天すら散らしてしまうほどのその笑顔に、瞬矢は目を細めるのだった。


 一旦戻った瞬矢たちは、パソコンでメモに書かれた場所を調べる。

 検索結果は何件かあり、その中から住所と該当するものにカーソルを合わす。


 『この屋敷の建てられた一帯は私有地であったが、建物は10年前に火事で焼失』とあった。

 屋敷の所有者は東雲しののめ あきら――、茜の父親だ。

 更に画面をスクロールすると、屋敷の外観を写した画像が表示された。


「あっ!」


 その瞬間、画像を見た茜が声を上げる。


「ここ、夢で見た……」


「本当か?」


 瞬矢が訊ねると、茜は頷き静かに答える。


「間違いないよ。この木……」


 もしや、本当に六野の言葉どおり全てがこの場所にあるのではないか、そう思えた瞬間だった。



      **



 そして時は現在へと戻り、茜はあらかじめ表に回してあった黒の軽自動車に駆け寄り、早く来いとばかりに手を振る。

 その様子を例えるならば、久々の散歩に心躍らす小型犬……といったところだろうか。


「……ったく」


 多少の呆れ、そして本日2度目の苦笑と共に瞬矢も車に乗り込み、いざ出発。

 屋敷の住所は車で1時間ほどのところ、人里離れた山奥に位置していた。


 時刻は午後3時10分。10月中旬ともなれば、山奥は日が傾くとさすがに肌寒い。持って来ていた上着を羽織る。

 どうやら、屋敷が焼失したというのは事実らしい。

 すぐ右側には、部分的に焦げ付いた樹木が天に枝を広げ聳え立っていた。

 ふと右側に視線を送ると、焼け跡の真ん中に佇む茜がその木を見上げている。

 吹いた風にひらひらと飛ばされてきた、灰と土にまみれ、すすけた一枚の写真。瞬矢は、それを身をかがめ拾い上げる。

 写真には、女性と共に無邪気に笑う少年が写っていた。

 それは、ことある毎に瞬矢の意識下に現れた黒髪の少年。


「お母……さん?」


 すぐ隣で聞こえた茜の言葉に、再度少年の隣に写っている人物を確認する。

 確かに、そう言われてみれば面影があった。

 写真の裏側を見ると、掠れたボールペン字でこう書かれていた。


 ――『刹那 7歳』


 弟の幼い頃の写真だ。なぜ、自分の弟である刹那が茜の母親と共に写っているのかは分からない。

 だが、もう一度写真の弟を見て瞬矢は微笑み呟く。


「あいつも、昔はこんなふうに笑ってたんだな」


 写真に写る幼き弟の屈託のない笑顔に、ほんの少しだけ救われた気がした。

 ふと茜へと視線を移す。が、すでに茜は瓦礫が残る焼け跡の中心部へ歩を進めていた。


「茜?」


「この場所……知ってる」


 立ち止まり一点を見据え呟く。

 恐らくドアがあったであろう、ぽっかり縦長の口を空けた瓦礫の一部を見つめていた。


「もしかして、例の夢の?」


 こくりと頷き存在しないドアを開けるように手を前へ差し出す。

 すると突如、茜が持っていた時計のようなものから「ピ、ピピピッ――」とけたたましい電子音が鳴る。

 突然のことに驚いた茜はそれを投げ捨て、瞬矢は横へ飛びのく。

 電子音を発するそれは銀色の放物線を描き、砂塵をあげて地面へ落下した。

 見れば文字盤の横にあるランプが赤く点滅し、ぱっと青に変わる。

 同時に地面の土が隆起したかと思うと、コンクリートのオートロックドアのようなものがせり上がる。

 四角く切り取られた部分からは、地下に続く暗い階段が姿を現す。

 地面にぽっかりと開いた空間に広がる闇が「こちらへおいで」と手をこまねく。


 そう。それはまるで、瞬矢たちの来訪を待っていたかのように。

 ひんやりとした空気に混じり、かび臭さも相まってか地下へと続く階段は不気味な雰囲気を醸し出していた。

 だが、この先へ行けば知ることができる。

 【S】が示唆するもの、10年前に繋がる真実――。


「兎に角、行ってみよう」


 初めて見る気がしない階段に初めは怯むも、思い切って足を踏み入れる。

 地下へと続く通路は人が行き交えるほどの幅で、側面のコンクリート壁は無機質にひんやりとしていた。

 中ほどまで下りた時、左腕に違和感を覚える。

 見ると茜がジャケットの上から左腕をしっかり掴んでいた。


「……オィ」


 自分でも分かるくらい怪訝な声だ。茜は、はっとした表情で「ごめん」そう言いするりと掴んでいた手を離す。

 恐らく、この地下の冷たく陰鬱な空気に気圧されてしまったのだろう。

 瞬矢とて、それが分からなくもない。

 だが安にそれを良しとしてしまえば、今まで自らの中で築き上げてきた何かが崩れてしまう。そんな気がしたのだ。

 階段を下りきったところで、またも目の前に金属製のドアが立ち塞がる。


 ――『【鍵】を大切に』


 ふっと瞬矢の脳裏に、櫻井の言葉がよぎる。


(【鍵】、まさか……)


 手にしていた銀色のそれに目をやる。先ほど同様、ドアの前に文字盤をかざす。

 相変わらずのけたたましい電子音と共に、重いドアの鍵は解錠される。空気を吐き出す音がし、瞬矢たちの髪をふわりと撫でた。

 予想以上に部屋は広く、だがとても荒んでおり、お世辞にも【綺麗】とは形容し難い。

 薬品と埃と黴臭さに混じり、わずかだが血の臭気が鼻腔を掠める。

 照らし出された壁は部屋の中心からひび割れ、至るところに血痕がついている。

 床には、割れた試験管やガラス片などが散らばっていた。

 歩く度にジャリジャリと砕けたガラスを踏みしめる音が響く。

 左奥へ進むと朽ちた椅子があり、肘掛けと足首の部分には自由を制限する革製の拘束ベルトが備わっていた。

 その椅子にも壁同様に変色した血痕が付着し、過去にこの場所で何かがあったことを容易に想像させる。

 ひゅう、と入り口から風が吹き込む。肌に感じる風の流れで、それがどこか別の場所へ抜けているのが分かった。


(……隙間風?)


 ぐるりと反対側を見渡すと、突き当たりの壁にもうひとつ先ほどと同じような金属製のドアが見受けられた。

 どうも、ここ地下のドアは全てオートロックになっているようだ。

 鍵となっている部分に文字盤を翳してみる。

 耳をつんざく高々とした警告音。


『――認証コードヲ、入力シテ下サイ』


 同時になんとも単調な機械音声が誘導する。どうやら、このドアを開けるには認証コードなるものが必要らしい。


「そう何度も上手くはいかない……か」


 独り言のように呟いて瞬矢は俯き苦笑する。


「瞬矢、これ……」


 鍵はあれど、認証コードが分からなければどうしようもない。

 瞬矢は目の前のそのドアを諦め、茜の方へと踵を返す。

 茜が手にしていたのは、録画していたと思われる小型の定点カメラだった。

 パワーをオンにすると電池はわずかにだが残っており、画面右下に日付が表示される。

 それは、10年前の12月22日。

 乱れた画像とノイズに紛れ、何か喋っているのが分かった。


『……の依頼で……為の薬を造ることになった。これは……で、水面下に進めなければならない』


 次第にはっきりとしてきたその画像に映る人物こそ、まさに茜の父親であった。

 奥には、研究者の姿が4人ほどありその中に殺された渡辺、中川、六野の姿も窺えた。


『何度目の実験になるだろう。多くの失敗例の末、level 3まで引き出せる薬を造り出すことに成功した』


 画面が切り替わり、1人の少年が映し出される。

 少年は椅子に座らされ、手足は付属の革ベルトによって拘束されていた。

 すでになんらかの薬を投与されたのか、少年の目は酷く虚(うつ)ろだ。


「あの子、写真の……」


 液晶画面が部屋の片隅を照らす中、映像を見つめる茜が思い出したようにぽつり溢す。


「……ああ」


 ほとんど溜め息に近い相槌をうちながらも、瞬矢は見逃さなかった。

 少年の左手首に、自分が持っているものと同じ銀色のオートロックキーが嵌められているのを。

 運ばれてきた保管用ボックスの中から、注射器に入れられた淡く光る水色と紫色の薬品を取り出す。


『これより、最終テストを始める』


 東雲氏がそう言うと、右側にいた白衣の男がふたつの薬品のうち、紫色の薬品を少年の右腕に注射した。次の瞬間、


『うぅ……ああああぁあっ!』


 少年の慟哭と共に地鳴りが轟く。

 壁には亀裂が走り、周りにいた研究者たちは方々へ吹き飛ばされ、炸裂音。

 画面の中はたちまち現在と同じ惨状と化した。


「……っ、ひどい!」


 記録された映像に茜は小さく身を震わせ目を逸らす。

 茜の言葉が少年に対して行ったことへのものなのか、それとも少年の力に対してなのかは分からない。

 ただ次第に酷くなる頭部の痛みに、瞬矢は眉根を寄せ歯噛みする。

 記憶の中の、少年が笑う。


 耳障りな雑音が混じり、ぷつり画面は暗転。

 しばらくの後、再び画面に茜の父親の姿が映る。音響に甲高いノイズを響かせ、彼は言った。


『――どうやら、実験体【S‐06】は連続する2種の投薬により我々の予想を遥かに逸した力を……』


「っ!」


 炎の記憶の中で、同じ顔をした彼は言った。


『――――――』


 その声と映像の中の東雲 暁の声が重なり、吐き気に襲われ、瞬矢はよろめき体をぶつけながら階段を這い上がる。

 ようようの体で地面からせり上がったコンクリートのドアに手をつき、浅く単発的な呼吸で新鮮な空気を肺に送り込む。

 やがて頭痛も嘔吐感も収まり、ある別の思いが瞬矢の胸中を支配する。


 疑心、葛藤、自己嫌悪――。

 混在となって渦巻くそれは確実に彼の心を蝕み、締め上げた。

 秋の夕暮れの爽やかな風が吹き、辺りの木々をそよがせる。


「うぅ……」


 胸の辺りを押さえ、小さく呻き声を漏らす。地上はすでに黄昏が迫っていた。


「うああぁーっ!」


 どさりと力なく膝をつき、画像の少年のように天を仰ぎ叫ぶ。

 その際、地面から巻き上がったすすがさらさらと風に舞った。

 実験、薬品、【S‐06】――。

 ようやく全てを理解し、じわり視界が滲む。


「はぁっ……」


 ひとつ乾いた息を吐き、視線は空を游いだ。滲む視界の先を、淡い黄金に色づいた雲が流れてゆく。


(そうか、そうだったのか……)


 項垂れ、手元の写真に視線を落とす。

 そうしたことにより、ぽたり、ぽたりと重力に従い温かな滴が溢れ落ち、地面に小さな円形の染みを作る。



 3



 午後4時00分。確認できる記録映像は、一連のことがあり、カメラ本体が床に放置されたところで途切れていた。

 やがて画面左上に電池切れのマークが点滅し、ぷつりとカメラの電源が落ちる。

 それでも尚、茜は暗くなった画面を見つめ続けた。


(お父さんは瞬矢に、この兄弟に何したの? いったい、お父さんは何を造り出そうと……)


 答えなど出ないと分かっていながら、茜は暗に思考を巡らす。その時、地下にまで静寂を打ち破るかのような慟哭が響く。


「!」


 我に返った茜は髪を躍らせ振り返り、カメラからメモリーカードを引き抜き階段を駆け上がる。

 急勾配な階段を思い切り駆け上がった為、呼吸が乱され脈拍も早い。

 ゆっくりと肩で息を整え、そして訊ねた。


「……瞬矢?」


 ひとつ息を呑んで1歩2歩と足を進め、だが先ほどの映像を思い出して踏み留まる。


(私ってば、今さら何怖がってんの!)


 一瞬でも自身の内側に首をもたげた恐れを払拭するかの如く、きつく瞼を閉じて大きくかぶりを横に振る。


「俺と弟は昔、ここにいた。俺たちはあいつらの実験体だったんだ」


 まるで記憶を手繰るように、手元の写真を見て言う。

 今まで頼りにしてきた広く大きな背中は、見たことがないくらい小さく弱々しかった。

 頭を垂れ瞬矢は言葉を紡ぐ。


「はは……。ほんとバカだよな、今まで忘れてたなんて……」


 俯いたまま乾いた笑顔に加え、自嘲じみた言葉を吐き捨てる。声は心なしか震えていた。


「初めから【普通】になんて、なれるわけなかったんだ」


 写真を右手の甲に押し付ける形で顔を覆う。

 わずかに窺える歪んだ口元から嗚咽が漏れる。

 それはいつの日か、桜の木の下で瞬矢が見せた表情とどこか似ていた。

 ただひとつ違っていたのは、指の間から溢れ落ちる温かい小さな雫。

 手にしていたメモリーカードを、胸の前でぎゅっと握りしめる。

 ここでもし安易な慰みの言葉をかけたとして、きっと気休めにもならない。

 声をかけたくともかける言葉などそう易々と見つからず、歯痒さに1人下唇を噛む。

 じわり、自然と視界が滲んだ。

 追い風が吹き、後押しされるように止まっていた歩を進める。

 背後から手を回し、ゆっくり片方ずつ地面に膝をつく。

そしてそっと震える背中に頬を寄せた。


 また冷たくあしらわれるのでは……そう思ったが、茜の予想に反して瞬矢は何も言ってこようとはしなかった。

 そのことに安堵しつつも、幾分かの物足りなさを覚え瞼を閉じる。

 ジャケットからかすかに漂う煙草の匂いが鼻腔内を擽る。

 体勢はそのままに、茜は独り言のようにそっと呟く。


「……帰ろう」


 それは探しに探し、迷い抜いた果てにようやく見つけた一言だった。

 夕焼けが辺り全てをオレンジ色に変え、2人を優しく包む。

 どこか遠くから、夕暮れを報せる懐かしい曲が聞こえてきた。



      **



 太陽は山際に沈み、空には星が輝きだす。

 道路脇に停められた黒い軽自動車。その車のドア部分に凭れ遥か遠く、まだ夕日の気配を残した山並みと等間隔にそびえる鉄塔のシルエットを眺めていた。

 車のラジオからは音楽が流れる。

 物思いに煙草をくゆらす瞬矢から発せられたのは、意外な一言。


「くよくよしたって仕方ない、か……」


 いきなりなんのことかと茜は目をしばたたかせ、瞬矢を見上げる。


「お前の言った言葉だ」


 そう言った瞬矢の瞳には先ほどまでの弱々しさはなく、いつもの表情に戻っていた。

 そういえばそうだったと目を伏せはにかむ。そして天を振り仰ぎ、ひとつ溜め息をつく。


「よかった」


 茜は口元に笑みを残しつつ、遠くの山の端に点々と建つ鉄塔を眺め言う。


「何が?」


「別に、なんでもないよ」


 にわかに頬を紅潮させ、ふいっとそっぽを向く。


「?」


 茜のその姿に、瞬矢はきょとんと小首を傾げる。


「じゃあこれ、瞬矢に渡しとくね」


 くるりと身を翻し、あるものを瞬矢へ手渡す。

 それは、先刻茜がカメラから引き抜いたメモリーカードだった。

 手渡されたそれに視線を落とす。その際、ほんの一瞬だが寂しげな表情を窺わせたのを茜は見逃さなかった。

 だがそれは、注意していなければ分からないほどにわずかな間。


「帰るか」


 すぐさまもとの表情へと戻り、上着のポケットに仕舞い言う。

 その口調は、至って明るいものだった。それに、茜は黙って笑顔で頷く。

 横目でそれを確認した瞬矢は、煙草を携帯灰皿に捩じ込み乗車する。


 星ぼしが空に輝きを増した頃、2人の乗った車は屋敷を後にした。

 ここでの出来事はそれぞれの胸中に思うところを残す結果となり、それが今後の2人の運命を大きく変えることになろうとも知らず。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る