第5章 例え『バケモノ』と呼ばれても。

刹那

 1



 ――20XX年 10月20日。


 午後4時10分。瞬矢は1人、茜の母親が入院している病院を訪れていた。

 先日、屋敷跡で拾った写真。そのことで、どうしても彼女の母親に訊いておきたかった為だ。


 病棟の詰め所を過ぎたところにある、相変わらずの4人部屋。

 向かって右奥の窓際のスペースに茜の母親、夕子はいた。

 瞬矢に気づいた彼女は、にこやかな笑みを向け会釈をする。つられて瞬矢も足を止め一礼を返す。


「あなたに訊きたいことが……」


 ポケットから例の屋敷跡で拾った写真を取り出し見せる。


「この写真に写っている少年、彼は――」


 言い終える前に彼女は血相を変え、瞬矢から写真をもぎ取り顔に近づけた。

 そして、よもや写真に穴が空くのではないかというほど凝視する。


「この写真、どこで?」


 震える声で訊ねる彼女に、瞬矢は一度床へ視線を送り考える素振り。そして再び彼女を見て答えた。


「10年前に火事があったあの屋敷です。でもなぜ、あなたが弟と一緒に?」


「弟……」


 彼女は一度瞬矢をちらと見やり、再び写真に視線を落とし、たった一言そう復唱する。

 やがて、何かを思い返すかのように押し黙ってしまう。しばしの沈黙の後、


「ごめんなさい」


 俯いたまま、誰に宛てるでもなくぽつりと呟く。


「あの子のことは訊かないで」


 手の中の写真をじっと見つめ、今にも消え入りそうな口調でそう言った。

 夕日が窓から差し込み影を伸ばす。


「分かりました」


 瞬矢は瞑目し、溜め息混じりに仕方ないといった表情で縦に首を振り了承する。

 悲しく写真を見つめる彼女から、無理やり話を訊きだそうという気にはなれなかった。

 静かにその場を去ろうとした時のこと。


「あの……っ」


 不意に呼び止められ、何ごとかと振り返る。


「この写真、いただけるかしら?」


 彼女の問いかけに瞬矢は口角をつり上げ一言返す。


「ええ、どうぞ」


 すでに写真の画像データは取ってあったので、そのことに関してはあまり問題なかった。

 再び軽く一礼し、今度こそ踵を返す。


「刹那……」


 病室を出た途端、彼女の嗚咽にも似た声が届く。その声は、確かに弟の名前を呼んでいた。

 その声が妙に体の芯まで響き、脳内を揺さぶる。

 眉根を寄せ苦悶に満ちた表情の瞬矢は、右手で視界を覆うように頭を抱えるのだった。



 2



 同日、午後8時50分。

 拘置所前で、目深に被った灰色のフードの影に顔を隠し、1人の人物が月明かりのもと姿を現す。

 人物はにいっと妖しい笑みを湛えると、長く垂れた黒い前髪の間から紫色の目が覗く。


 地を蹴り、コンクリートの高い塀を跳躍した。反動でフードが脱げ、姿が明らかとなる。

 その人物、刹那。

 静かに地面へ着地し、建物にぴたりと背中を合わせると壁を2度叩く。


「刹那か?」


 壁の内側から、くぐもった櫻井の声が聞こえた。その言葉に刹那は沈黙で答える。

 言葉など交わさずとも分かり合える――それほどのものが、この2人の間にはあるのだ。


「こうやって2人で話すのも久しぶりじゃないか?」


 一方的に話すのは、櫻井。雲の合間から月が顔を覗かせ、にわかに照らす。


「なぁ、刹那。覚えてるか? 初めて会った時のこと」


 コンクリートの壁越しに櫻井が投げかける。


「……ああ」


 刹那は俯き目を伏せ懐かしみ、思い出すかのように答える。

 ほんの一瞬だが、口元に微かな笑みが窺えた。

 それは約10年前のこと――。



      **



 ――10年前の3月上旬。

 とある施設の敷地内の庭先では、高らかな子供の声が響く。

 その子供たちと同じくらいだろう、黒髪の1人の少年。

 彼は端で腰を下ろし、抱えた膝に半分ほど顔をうずめ酷く退屈そうに皆が遊ぶ様子を眺めている。


(結局ここも、僕のほんとの居場所じゃないんだ)


 自らの本音を吐き出すように小さく息をつき、足元に生えた名も分からぬ草をつまむ。


「ねえ」


 突然掛けられた声に意識を引き戻され、振り仰ぐとそこには白いシャツを着た眼鏡の少年がいた。彼は少年の顔を覗き込む。


「……誰?」


 訝しげに問う少年だったが、彼はすぐに、にこりと人当たりのよさそうな笑みを見せ答えた。


櫻井さくらい りく。僕もここの住人」


「り……く?」


 かつて呼ばれた懐かしい名前。それと同じ名前に少年は驚き茶色い目を見開く。


「なんで1人でいるの? 運動苦手とか?」


 陸の問いかけに少年はすっと瞑目し、大きく首を横に振る。


「……逆だよ」


 再び深い溜め息を漏らし、自分と同じ歳の子供たちを見た。

 持ち前の身体能力のせいか、何をやっても目立ってしまう。

 結局、何かに属そうとしても『自分』という存在は浮いてしまうらしい。


「あんまり僕に関わらないほうがいいよ」


 だがそのことで彼はかえって興味を示したようで、不思議そうに「なんで?」と訊き返す。

 色々と質問の多い奴だ……と今度は目も合わさず倦怠感たっぷりに答える。


「僕は【ヒト】じゃないから」


 だが返ってきたのは、あまりにも意外な言葉だった。


「へぇ、そりゃ面白い」


 どうやら彼を遠ざける為の発言は逆効果となり、ますます興味を持たせてしまったようだ。

 普通なら、少なからず眉をひそめ訝るものなのだが……。

 縁なし眼鏡の奥で、少年への関心に切れ長の瞳を輝かせる陸。

 その姿に、変わった奴だと少年は初めてくすりと笑う。


「そういや、まだ名前聞いてなかったね」


 うららかな陽気の中、彼の言葉にかつてを思い出す。


「名前……か」


 天を仰ぎ考えるような素振りを見せ、そして自分の中で最も思い入れがあり、最も相応ふさわしいであろう頭に浮かんだひとつの名前を答える。


「東雲……刹那」


 それが彼、櫻井 陸と刹那の出会いだった。


 それから何度か彼と話すようになり、その日も施設内の人気ひとけがない階段に座って談笑する。

 窓からの日差しだけが暖かく照らす。

 今まで極力、他者との関わりを避けていた刹那だったが、不思議なことに彼とは馬が合った。


 聞けば陸もまた両親を知らず、愛が如何なるものかも知らない。

 窓からの斜陽を受け笑ってみせたその瞳の奥には、同種の闇が宿っていた。


(ああ、そうか……)


 その時なぜ彼とここまで気が合うのか初めて理解し、頬を緩ませる。

 そして刹那もまた、自分の知りうる全ての“秘密”を彼に話した。

 初めは興味深々に聞いていた陸だったが、語り終えると同時に真剣な表情になり呟く。


「でも、それが本当なら彼は――」


 だが刹那は何か確信でもあるのか、ふっと空を見上げて陸の言葉を打ち消すかの如くきっぱりと言う。


「きっと生きてるよ。分かるんだ。だって、彼と僕は同じだから」


 口元に笑みを湛え、わずかに細めた目元からは実に穏やかな表情が窺える。

 そんな刹那の左手首には、【S‐07】という数字が刻まれた銀色の鍵が腕時計のようにつけられ、それは鈍い日の光を受けまばゆく輝いていた。



      **



 空には薄い雲がかかり、朧月おぼろづきが見下ろす。

 相変わらず冷たい壁の向こうから、櫻井のくぐもった声が聞こえる。


「改めて考えたら、君に巧く遣われてた気がするよ」


 姿こそ窺えないものの、口調から櫻井の失笑する様子が容易く想像できた。


「ま、こんなこと言ったって今さらだろうけどさ」


 再び月が顔を出したその時、今まで相槌ばかりだった刹那が初めて開口する。


「ここまで来れたのも君のお陰さ。それより――」


 言い終えるより早く、櫻井の返答が最後の言葉を打ち消す。


「――大丈夫、分かってるよ。君の“秘密”は誰にも言わない」


 その口調は妙に落ち着きを孕んだもので、何かを悟っているようでもあった。

 刹那は今一度口元に笑みを湛えると、壁から背中を離す。

 ひゅう、と10月下旬のさらりとした夜風が吹き抜けた。


 ――拘置所内。


「楽しかったよ。刹那」


 まるで、別れの言葉でも言うように独りごちる櫻井。

 だが欠けた月が照らすその場所からは、すでに刹那の姿は消えていた。

 ゆっくりと雨雲が天を這うように、月明かり、そして瞬く星を侵食する。


 ――午後9時40分。立ち込める暗雲に月光は遮られ、湿りを帯びた空気が雨の訪れを感じさせた。

 彼が今いるそこは、段ボールや廃材が積まれた倉庫か物置のような場所。

 その殺風景な場所とは到底似つかわしくないクラシック音楽が流れる。


 ベドルジハ・スメタナ連作交響詩第2曲『モルダウ』。

 ステレオから流れるその曲にしばし耳を傾け、やがて着ていたコートを綻びが目立つ長椅子に置く。

 そして遠巻きにある半透明なビニールカーテンを目視し、ゆっくり歩み寄る。

 カーテンの端に手をかけたその時、流れていた曲は『モルダウ』から『新世界より』に切り替わり、雰囲気をまたがらりと変化させる。

 伏し目がちに刹那は、そっと掴んでいたカーテンを引く。


 くたびれた白いパイプベッドの上に横たわる1人の人物。その体には、無数の管が繋がれていた。

 肌は病的なほどに血色が悪く、刹那同様、すっと通った鼻筋と整った唇に艶は見られない。

 唯一、骨格から人物が男性であることが窺える。

 彼を視界に捉えた刹那は、ふっと口元を緩ませ一言。


「ただいま」


 所どころ脚の錆びた簡易机に置かれたパソコン画面をちらりと見やる。

 そこにあるのは、今現在ステレオから流れている曲のリスト。

 どうやら、ランダムに選曲されているらしい。

 接続先のモニターには、彼の血圧や心拍数が波形となって表示されていた。その数値をさっと確認し、刹那は言う。


「調子いいみたいだね」


 恐らく起き上がる力もないであろう彼は、頬に皺を寄せ三日月の笑みで、パソコン画面に視線を送る。


「この曲、好きなのかい?」


 すっかり潤いをなくし、ひび割れた唇に一瞬見せた肯定の笑み。それに応えるかのように再度流れる曲に耳を傾け、笑みを湛えながら言う。


「僕もだよ」


 その笑顔と口調は、親しい者に向けられるそれの如く穏やかで優しいものだった。

 ベッドに横たわった彼は、渇ききった唇の端から息を漏らし、わずかに言葉を紡ぐ。

 ほぼ唇の動きのみでしかないその声を、刹那は顔を寄せて読み取り答える。


「ああ、彼に会ったよ」


 近づけた顔を上げると同時に、ふっと目を細めた。

 とうとう降り始めた小雨が、ぱらぱらと屋根そしてくすんだ窓を不規則に叩く。

 不意に彼が何かを伝えようと乾いた息を吐き、点滴の管がついた右手の指をシーツの上で力なく游がせる。


「ん、なんだい?」


 それに気づいた刹那は、再び彼の言葉が理解できる距離まで顔を近づけた。


「――……っ」


 彼が耳元で何かを囁いた途端、刹那の顔からみるみるうちに笑顔が消える。

 それは、先ほどまでの穏やかな微笑とは一変して一見無表情、けれどもどこか葛藤を漂わせていた。

 顔を離し直立した刹那は、前髪の奥に表情を隠し彼にこう問う。


「どうして?」


 打ち付ける雨音はより一層激しさを増し、加えてステレオから流れる音楽が、刹那を困惑と葛藤のさ中へと追い込む。


 ヒューッと気管支を鳴らし口元を歪め彼は、枯れ木のように細い右腕を弱々しく自らの左胸へ置いた。

 そして再度動かされた右手。

 その指先は、ふらふらと宙を迷いながら『刹那』というまとを目指す。

 指先は刹那の心臓辺りで震えながら止まり、その後力尽き手は落ちるように空をなぞらえる。


「……分かったよ」


 刹那は黒い前髪の間からわずかに表情を覗かせ了承する。

 俯き加減なことから微笑を湛えているようにも窺える。

 だが、無機質な照明のもと彼を映すその目には困惑や葛藤はなく、むしろ悲しみの色が揺らめいていた。

 彼は、刹那の言葉に安堵したかの如く笑う。そのくすんだ褐色の瞳にうっすらと温かなものが滲む。


 流れる音楽は『新世界より』を終え、目下『アメイジング・グレイス』に移ろうとしていた。

 足元の保冷パックから、試験管に入った水色の薬品と注射器を取り出す。

 その薬品全てを針から注射器に入れ、刹那は言う。


「【影の命】――。これで最後だ」


 むき出しとなった針を彼の右腕に射し、通称【影の命】と呼ばれた水色の薬品を一気に送り込む。


「――っ! ひゅ……、っが……!」


 途端に彼の呼吸が荒くなり、体は真っ直ぐ伸ばした四肢を指先まで強張らせ、激しく痙攣けいれんする。


「……っ!」


 びくん、びくんと何度も小刻みに痙攣するその体を、歯噛みし押さえ込む刹那。

 モニターからは、単発的な警告音がけたたましく鳴る。

 やがてモニターの波形はフラットになり、同時に痙攣を繰り返す体もぱったり動きを止めた。


 ステレオから流れる音楽と雨音の合間を縫って、絶えずモニターから発せられる一定の高音が、殺風景な屋内に耳鳴りの如く響き渡る。

 今もかすかに潤いを残す彼のまなこ

 刹那はその瞼を自らの掌でそっと閉じ、しばし佇む。


「後は任せて……。ゆっくり、おやすみ」


 静かに語りかけると、いまだ単調な高音を発し続けるモニターの電源をぷつりと切った。


 ――午後10時05分。雨足は一向に衰える気配を見せない。

 刹那は唯一開け放した窓の縁に凭れ、ぼんやりと遠く闇に呑まれた真っ黒な山並みを眺める。

 不意に頭をよぎったのは、刹那同様、彼も好きだと言ったあの曲。


「……とーおきやーまに、ひはおーちて……」


 刹那は無意識にその曲を口ずさんでいた。


「りく……」


 あてどなく暗雲立ち込める夜空にぽつり呟く言葉は宙をさ迷い、やがて大気に溶け消えていった。

 ぽつりと刹那の顔に着地した雨粒が、涙のように頬を濡らす。

 その姿は無垢な少年のようであり、また、海底より出でては弾け消える気泡にも似て儚げであった。


 

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