第3章 暗躍する『S』。

接触

 

 1



 ――20XX年 5月5日。


 最初の事件が発生してから、すでに1ヶ月が経過していた。

 ゴールデンウィークも後半を迎えたその日、警察署内の一室に香緒里の声が響く。


「何故ですか!?」


 突然下された本部からの判断に、香緒里は酷くいきどおっていた。


「香緒里さん、まあ落ち着いて……」


 そう言って1歩後ろからやや控えめになだめるのは、香緒里の同僚であり3歳年下の山田やまだ 裕也ゆうや


「山田、あんたは黙れ!」


 自分とあまり変わらない背丈の彼の頭をぺしゃりと小突く。


「いてっ!」


 心なしか涙目になりながら、叩かれた頭部を撫でる山田。

 それを尻目に香緒里は、目の前の上司にあたるであろう男へ歩み寄り声を荒らげる。


「納得できません!」


 左手で感情任せに傍らにあったデスクを叩く。

 「だって……」続けようとした時、それを説き伏せるかの如く割って入る。


「諦めろ。俺たちは上の命令に従って動く駒にしかすぎないんだよ」


 香緒里の上司にあたる50代後半くらいのその男は、苦虫を噛み潰したような顔でそう言った。

 香緒里は深い溜め息をつく。

 今回の事件に深入りするなと上から念押しされたのだ。

 だが、せっかく真実に手が届くかもしれないというところで諦める訳にはいかなかった。

 何より警察本部の判断は、真実をつまびらかにするという香緒里の信念とは全く真逆なものである。

 何より、父の意志にも反すること。


(これじゃあ、あの頃と何も変わらない)


「捜査、行ってきます」


「新田ぁ! お前、まだ親父さんのこと……」


 歩みを止めた香緒里は、込み上げてくる過去の思いを払拭するかのように一度首を振り遠くを見据え言う。


「今回の事件に私情を挟むつもりはありません。それに、父のことは関係ないですから」


 香緒里の姿は扉の向こうへと消えて行った。



      **



 午後2時を過ぎた頃、香緒里たちは瞬矢のいる事務所兼住居の建物の前まで来ていた。

 仁王立ちで太陽の光を左手で遮るように建物を見上げる香緒里のその姿は、いささか男らしくすらある。


「先輩、被疑者が若いイケメンだからって惚れちゃダメっすよ?」


 山田が冗談混じりに言う。


「大丈夫! 年下には興味ないから」


 きっぱりと断言した香緒里の言動に対し、山田はショックをあらわにする。


「何もそんなにはっきり……」


「……ん? 今なんか言った? ほら、行くわよ!」


 顔だけを山田に向け、「早く来い」とばかりに左手で2、3度ひらひらと扇ぎ目の前の玄関をくぐる。


「えっ!? あっ、はい!」


 はっと我に返り、弾かれたように慌てて香緒里の後を追った。

 香緒里たちは、階段脇にあるエレベーターで3階の一室へと向かう。


 部屋の手前までやって来た時のこと。ドアが開き、中から1人の少女が香緒里たちの脇をすり抜け階下へと走り去ってゆく。


(彼女は確か……)


 すかさず山田に合図を送り、気づいた彼はひとつ頷き後を追う。

 残った香緒里は、開け放されたドアから顔を覗かせ立て付けに背中を預けると腕組みし声をかける。


「喧嘩?」


 その問いかけに斎藤 瞬矢は、真向かいのソファに座り頬づえをついた状態でやや不機嫌そうにそっぽを向き答えた。


「別に……」


「何もない訳ないでしょ。彼女のあの様子……」


 そう言って首だけで振り返り、階段の方を見やる。

 それに対し、頬づえをついたまま視線だけをこちらに向け彼は言う。


「刑事さん、意外とお節介だな」


 ソファの背凭れにすらりとしたその身を預け、窓の外に視線を送り続ける。


「俺はただ、あいつには余計な心配かけたくないし巻き込みたくない、そう思っただけだ。だから、何があっても今までずっと黙ってた」


 香緒里は腕組みをしたまま眉間に皺を寄せ、更にふっと左上の天井を仰ぎ見ると思いついたように言った。


「でもそれは、彼女からすれば『嘘をつかれた』ってことになるんじゃないの? 彼女はそれを望むかしら?」


「……まあな」


 その一言で香緒里は全てを察した。

 この男は、初めからこうなると分かっていた。

 分かっていて、あえて沈黙を貫いたのだと。


「結局、バレてたんだよな。訳の分かんねー水色の薬品を射たれたこともさ」


 体を起こすと目を伏せ、自嘲気味に吐き捨てる。


「水色の……薬品?」


 まるで、つい昨日のことを思い出すかの如く語る。


「ああ。あんな鮮明な水色の薬は見たことがない」


「あなたが本当に彼女のことを考えてるなら、病院へ行ってちゃんと検査を受けなさい」


「ま、気が向いたらな」


 まるで香緒里の魂胆を見透かしたかのように、ふっと一笑に伏すとそう応える。


「刑事さん、まさかそんなこと言う為だけにわざわざ来たってんじゃないだろ?」


 「そうね」と口元に微笑を湛え、視線を落とし頷くと続ける。


「六野が殺されたことはあなたも知ってるわよね?」


 六野の遺体が発見された時、瞬矢が現場の河川敷にいたことを香緒里は覚えていた。


「ああ。だが、何度も言うが俺じゃない。あれは『刹那』だ」


 目の前のガラステーブルに一通の手紙を投げ置く。

 それと同時に、ソファから立ち上がり窓際へと歩を進める。


「『刹那』?」


「俺の弟だ」


 テーブルの上へ投げ置かれた手紙を香緒里はいぶかしげに拾い内容を確認する。

 その中の一文に、香緒里の視線は釘づけとなった。


「10年前……【S】……」


 それはちょうど香緒里の父親が亡くなった年と重なる。

 偶然かもしれないが、それにしてはあまりにも――。


「10年前、何があったの!?」


 窓から差し込む太陽の光を背に受けた彼は、香緒里のいきなりの剣幕に驚き濃紺の両目を見開く。

 だが、すぐさま艶やかな黒髪の下に表情を隠し答えた。


「さぁ? むしろ俺が知りたいね」


 窓から差す逆光の中、口角をつり上げそう言う彼の風貌は、あまりにも整いすぎている。

 どこか人知を超えたものすら感じさせる、完成された美。

 それは、決して日差しが眩いせいだけではない。

 相変わらず不敵な笑みを浮かべる彼を前に、香緒里はすうっと目を細める。

 『刹那』が出したという手紙を預かり、部屋を後にした。


 建物を出たところで立ち止まり、今一度預かった手紙に目を通す。


(【S】……それに『刹那』……)


 ……――ぞくり。


「――っ!」


 ビルの合間から纏わりつくようなおぞ気の走る視線を感じ、振り返り周囲を見回す。


(今、誰かに見られてたような……)


 振り返った先に誰もいなかったことに対し香緒里は、怪訝けげんな表情で顎に手をあて、おかしい、としきりに首を捻る。



 2



 ――20XX年 5月7日。


 いつも通り茜は教室の左から2列目、真ん中あたりにある自分の席へ。

 時刻は、ちょうど5限目を終えた休み時間。

 机に突っ伏しぼんやりと見上げる窓の外の天気は、まるで今の茜自身のようにどんよりと灰色に沈んでいた。

 ――それは2日前のこと。



      **



 その時初めて知らされた真実に、茜は憤りをあらわにする。


「どうして言ってくれなかったの?」


 ――沈黙。俯きその表情は窺えない。


「もういい! そんなに1人で背負い込みたいなら、勝手にすればいいよ!」


 感情任せに吐き出した台詞を残し、部屋を飛び出す。

 刑事の姿が目に入ったが、今の茜にはどうでもよかった。

 住宅街をとぼとぼ歩き、やがて小さな公園に辿り着く。

 誰もいない公園の奥で、乗り手もなく揺れるブランコが目に留まる。

 向かって左側に乗り、足で少し漕いでみた。


 あの時、瞬矢は言い返さなかった。俯きただ黙っていた。

 きっと、始めから覚悟していたのだろう。


(言いすぎた……かな?)


 冷静さを取り戻し、沸々と後悔の念が込み上げてくる。

 かといって、今さら引っ込みがつかなくなっていたのもまた事実。

 戻るに戻れず、こうべを垂れ、ひとつ深い溜め息をつく。

 反動でキィ、とブランコの金属が錆びた音をあげる。

 顔を上げるとそこには刑事と一緒にいた男の姿があった。


「あなたは、確かさっきの……」


「山田っていいます」


 『山田』そう名乗った刑事は軽く会釈をした。


「茜です。東雲 茜」


 茜は反射的に名乗り返す。


「見てたん……ですよね?」


 不意の茜の問いかけに山田は、気が弱そうな顔をくしゃりと歪ませ「一応ね」と照れ笑いを見せる。


「1ヶ月も1人で抱え込んで。私だって……」


 話を聞くことくらいはできた。

 隣の空いているブランコに腰かけた山田は少し考え、やがて遠くを見て言う。


「きっと彼も、君のこと思ってそうしたんじゃないのかな?」


 勿論、この山田という刑事の言っていることも分からなくはない。

 だが茜が最も憤慨したのは、ほんの一瞬でも自分に頼ろうとしてくれなかったという事実だ。


「でも、やっぱりちゃんと話してほしかったです」


 頷くように茜は地面に目線を落とし、寂しげな笑みを浮かべてぽつりと溢す。

 それを見た山田は、くすりと微笑む。


「茜ちゃん、ほんとは彼のこと好きなん――」


「ち、違いますっ!」


 言い終えるが早いか、咄嗟に立ち上がり彼への好意を否定した、茜の頬が淡く色づく。

 山田は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐさまにっこりと笑い「ほら、むきになってる」と返す。


「――っ」


 その言葉を受けて、茜は自分でも分かるほど耳のあたりまで熱くなっていることに気づいた。

 恥ずかしさに肩をすくめ、小走りで公園を立ち去る。



      **



「はぁ……」


 口をついて出るのは重い溜め息ばかり。


(あんな奴、別に……)


 堂々巡りな思いがなんとも馬鹿らしくなり、茜はそれ以上考えることをやめた。

 終業し校舎を出ると、5月の湿気を帯びた空気が肌に纏わりつく。

 一向に心のもやは晴れなかったが、それでも自然と足は瞬矢のもとへ向かっていた。

 大通りへ出たところで刑事、新田 香緒里の姿が視界に入る。


「まだ……何か?」


 茜は眉根を寄せ、明らかに不機嫌な顔で訊ねた。

 思い出されるのは、六野が焼死体で発見された河川敷での出来事だった。


 それは、当時を知る唯一の人物である六野の証言を得ようと河川敷に訪れた時。

 辺りに立ち込める臭気と惨状に立ち尽くす中、突然、頭を抱え込んだ瞬矢。

 やがてふらりふらりと野次馬たちから離れ、1人、橋の方へ歩いてゆく。


「瞬矢!?」


 茜は栗色の髪を宙に躍らせ、彼を呼び止める。

 今の彼には、自分の声が聞こえていないのだろうか。こちらに一瞥もくれない。

 茜は後を追いかけようとした。だが、


「――ねえ!」


 やって来た香緒里に呼び止められ、立ち止まり振り返る。


「あなた、自分がいったい誰といるのか分かってるの? 彼は……」


 香緒里の言わんとしたことを察してか、怪訝な表情を見せ答える。


「ご忠告、どうも有り難うございます。けれど私は彼を……瞬矢を信じてますから」


 軽く一礼し、瞬矢の後を追うように去っていった。


 そして今、彼女は以前と同じ、真っ直ぐ芯の通った鋭い視線を自分に向けている。

 周囲に気を遣ったのか、香緒里は「ここじゃなんだから」と、すぐ近くのカフェテリアに入ることとなった。


「それで……、なんなんですか?」


 入り口からすぐ側の窓際の席に腰かけた茜は、真向かいに座った香緒里にさっそく用件を訊ねる。

 すると彼女は茜を見据え、真剣な表情で話を切り出す。


「『刹那』について、何か知ってる?」


 『刹那』その言葉を耳にして茜は、瞬矢にかけられた疑いは晴れたのだと頬を緩ませ答える。


「確か、瞬矢の……彼の双子の弟です」


 穏やかな口調で、彼の『双子の弟』という事実だけを伝える。

 だがようやく晴れた疑いを再びかけられないよう、10年前に死んだ――そのことについて茜は溜飲を下した。


「顔を見たことは?」


 黙って大きく首を横に振る。

 言われてみれば、その存在を示すものを茜は何ひとつとして見てはいない。

 そして、次に発せられた彼女の言葉に茜は言葉を失う。


「調べたけど、彼の身内に『刹那』なんて人物いなかった」


「……うそ」


「あなた、まだ彼を信じるつもり?」


 その言葉を耳にした途端、茜は怪訝な表情となり、香緒里を見据え口調を強める。


「何が言いたいんです?」


 だが香緒里は、その言葉を涼しげな面持ちでひらりとかわしてテーブルに両手をつき、茜の顔を覗き込み答えた。


「人はね、誰でも心にもう1人の自分を持っているものなのよ」


 彼女の口調は、まるで『刹那』が瞬矢の造り出した虚像とでも言いたげであった。

 しかし茜は、その言葉に対し何も返すことができず口ごもってしまう。

 なぜならば彼女もまた、双子の弟とされる刹那の存在をこの目で確認してはいないのだから。

 香緒里はテーブルの上に肘をつき、乗り出していた体を退かすと、


「もう一度、よく考えることね」


 そう言い残して静かに席を立つ。

 1人残された茜は、このまま彼を信じていいのかますます分からなくなってしまった。

 カラリ、静寂を打ち砕くかのように、グラスの中の氷が鳴る。



      **



 結局、部屋のすぐ手前まで来て茜は今さらながら躊躇ちゅうちょしていた。

 もし顔を合わせても、いったいなんと切り出せばいいのだろう。

 警察では、とうの昔に死亡扱いとなった父親の捜索を引き受けてくれた。

 そのことが、茜の決意を確固たるものにする。


(せめて、父の一件が片づくまでは……)


 意を決し、目の前のドアを開ける。開けた視界の先には、窓際で椅子に身を預け足を投げ出す、なんともふてぶてしい瞬矢の姿があった。

 緊張で、いつにも増して胸が高鳴るのが分かった。

 先日のこともあってか、気まずい空気が漂う。

 ずっと正面を見ていられなくなり、思わず視線を左下へ逸らす。


「――!」


 その際、ガラステーブルの上に無造作に放られた用紙が目に留まる。


「病院……、行ってたんだ?」


 瞬矢は椅子から立ち上がると、ガラステーブルのところまで来て用紙をひっ掴む。そして茜に背を向ける形でソファに座り答える。


「ああ。1ヶ月も経ってるからちゃんとしたことは分からないが、とりあえず数値的には異常ないみたいだ」


 あの病院嫌いな瞬矢が自ら――、そう思っただけで茜は嬉しくなり俯きがちにはにかむ。

 いつも通りの不器用な一面を覗かせる瞬矢に、茜は多少の安堵を覚え、ほっと息をつくのだった。

 ゆっくりと歩を進めた茜が、いつもと真逆のソファへちょこんと腰掛けたのをかわきりに瞬矢は言う。


「悪かったな。これからは隠しごとなしだ」


「うん!」


 にわかに頬が熱くなるのを感じながら、茜はにっこりと笑い頷く。


(そうだ。私が瞬矢を信じなくって、誰が信じるっていうの)


 だが、それと同時に首をもたげてくるもうひとつの疑惑。今はそれにあえて気づかないふりをしていた。


「それで、さっそくなんだが……」


 そう言ってズボンの左ポケットから何かを取り出そうとしたその時、テーブルの上にあった瞬矢の携帯が鳴る。

 話の腰を折られたとばかりに溜め息をつき、携帯へと手を伸ばす。

 画面に表示されている着信履歴を見て、面倒臭そうに通話ボタンを押す。


「お袋か?」


 明るく温かみのある声が瞬矢の携帯越しに聞こえてきた。


『――あっ、瞬ちゃん? あなた珍しく家に帰って来たと思ったら花なんてくれるから、母さんびっくりしちゃった』


「何言ってんだ? 俺ずっと帰ってねーし。つか、その呼び方はやめろ!」


『――まあまあ、照れちゃって』


「第一、花って……」


 言いかけて瞬矢の顔からすうっと血の気が引く。


「お袋、それって本当に俺だったのか? 親父は――?」


 だが瞬矢の母親は、冗談とでも言わんばかりに答える。

 もはや、身振り手振りが容易に想像できてしまいそうなほどだ。


『やーねぇ、母さんが瞬ちゃんを見間違えるわけないじゃない!? 父さんとも仲良く話してたわよ。まさかもう忘れちゃったの?』


「……いや、なんでもない」


 終話した瞬矢の表情が青ざめ、ずっと独り言のように「俺は知らない、なぜだ!?」などと呟いている。

 沈黙の中で瞬矢はしばらく手にした携帯電話を見つめ、やがてガラステーブルの上にそっと戻す。

 軽く握った右手で口元を隠し、あり得ないといった表情で考え込む。

 何があったのかと疑問に思った茜は、瞬矢にそれとなく訊いてみた。


「いったい何があったの?」


 その問いかけに対し、口元に手をあてたまま瞬矢は答える。


「お袋が……、『珍しく俺が家に帰って来た』って。でも、俺は帰ってないし花のことだって初耳だ」


 まるで自分という存在がもう1人いるかの如く語る瞬矢を見て、茜は、先刻の香緒里の言葉を思い出していた。


「本当に、何も知らないの?」


「ああ」


 真っ直ぐ見据えるその表情は、到底殺人など犯せる人間の顔には見えなかった。

 今の瞬矢を信じよう。そう思い、口元にわずかな笑みを湛え茜は応える。


「私は瞬矢を信じるわ」


「ありがと」


 はにかみがちに、少し申し訳ないような表情でぽつりと呟いた。


「けど……」


 茜は目を伏せる。目線だけでちらりと瞬矢の方を覗くと、彼のきょとんとした顔が映り込む。

 口に手をあて肩をすくめ思い出し笑う。


「『瞬ちゃん』……」


 途端に瞬矢は頬を紅潮させ、


「おま……っ! 聞いてたのか?」


 誰が見ても挙動不審だ。

 「ごめん、ごめん」そう言い、瞬矢の追求をかわすかのようにひらりとソファから立ち上がる。

 瞬矢は視線を逸らし、ばつが悪そうに言った。


「えーと、なんだ。アイス買って来い」


「えぇっ! なんで私が!? 瞬矢自分で行きなよ!」


 突然の理不尽な要求に、茜は頬を膨らませ不満を露にする。


「うるせ! ピンク! バーカ!」


 小学校低学年レベルの暴言を吐きさらし、ぷいっとそっぽを向く。


「なっ、ピン……バ……ッ!?」


 瞬矢のあまりにも低俗かつショッキングな発言に、茜は眉をひそめ憤慨ふんがいするも返す言葉を失う。

 だがそんな言動も、きっと精一杯の照れ隠しなのだろう。

 そう思った茜は、鸚鵡おうむ返しに言いかけた言葉の代わり、瞬矢へひとつあっかんべをして部屋を出る。

 他愛ない口論にすぎなかったが、以前のそれとは違い全て開けっ広げな心地よさを孕んだものだった。



      **



「まったく……」


(だいたい、バカって言った方がバカなんだから。それに――)


 だが唇を尖らせぶつぶつと文句を言う茜の手には、しっかりとアイスの入ったコンビニ袋が握られていた。

 ふと人気ひとけのなさに気づき、急に不安な感情に陥る。

 それが太陽すら覆い隠してしまうほどの、ぶ厚く重々しい曇天のせいかは分からない。

 5月特有の肌寒くどこか湿っぽい風が前方から凪ぎ、頬を掠めていった。

 ふと背後に気配を感じ振り返ると、見覚えのある、艶やかな黒髪をした1人の人物が佇んでいるのが窺えた。


「瞬矢?」


 てっきり瞬矢が悪ふざけをしているものと思った茜は、小首を傾げ訝る。

 だが目の前で佇む彼は口角をつり上げ、にぃ……と笑う。


「東雲 茜だね?」


 その声は瞬矢よりもやや高く、透明感のあるものだった。

 警戒しつつも黙って頷く。すると彼は、空一面を赤く染める朝焼けのような薄紫の瞳を細めてくすりと微笑し言った。


以来だね」


(あの時……?)


 茜には、目の前の人物が何を言っているのかさっぱり理解できなかった。

 ただひとつ、思ったこと。それは――


「あなた、誰?」


 残念そうに俯き加減に目を伏せ、微笑を湛えたまま再び茜を見据えた。


「『彼』に伝えて――」


 綺麗な三日月形に弧を描く唇がゆっくりと言葉を紡ぎ始めた瞬間、彼を中心につむじ風が巻き起こる。


「きゃ……っ!?」


 両手で庇うようにして目をつむる。


「あ……れ?」


 瞬矢そっくりの人物は目の前から忽然と消え去っていたのだ。

 どさり、手から滑り落ちたコンビニ袋が音をあげて地面に着地する。

 地面にへたりこんだ茜は、1人、ただ呆然と誰もいなくなった路地を見つめていた。


「電話……しなきゃ」


 ただ恐怖感からか無性にそうしなくてはならない気がした。

 制服のスカートのポケットから携帯を取り出す。

 震える手でかけたのは、携帯ではなく固定電話。

 携帯電話の向こうで機械的な呼び出し音が鳴る。


(お願いっ、瞬矢出て……!)


『――どうした?』


 通話口から聞こえてきた声に多少の安心感を覚え、ほっと胸を撫で下ろす。


「瞬矢、どこにも行ってないよね?」


『――ああ、ずっとここにいたけど……』


「そんな……」


 背筋が凍りつく。


(じゃあ、私が見たのは誰?)


「……ううん、なんでもない。戻ってから話すよ」


 携帯を耳から離し、終話ボタンを押す。

 見上げた空は、今にも泣き出しそうなほど重く垂れ込めていた。

 携帯を握りしめ、その場にへたり込んだまま自身の体を抱きすくめる。

 体の震えが止まらない。

 これから先、何かとてつもなく恐ろしいことが起こるんじゃないか。そんな気がしてならなかった。



      **



 ――午後5時32分。


「ほら!」


 理不尽な使い走りから戻った茜は、アイスの入ったコンビニ袋を瞬矢の頬にぺしぺしと当てて渡す。


「わわっ!? 冷たっ! 悪かったって!」


 途中で落としてしまった為、容器の底の部分が若干ひしゃげていた。

 それでも満足げにアイスを頬張る瞬矢を見て、今まであった不安や恐れといった感情は薄れ、茜の心は次第に平穏を取り戻す。


(ほんと、こういうところなんだよなぁ……)


 散々憎まれ口を叩かれたりいきなり理不尽な要求をされたりと、腹立たしいことこの上ないが、実際、目の前でこんな顔をされると憎めない。

 瞬矢がふと思い出したように「そういえば」と、言葉を切り出す。


「さっきの電話、なんであんなに慌ててたんだ?」


 その表情と口調は、一転して真剣なものへと変わっていた。

 ことりと置いたアイスの容器から伝い落ちた水滴が、ガラステーブルの上でじわりと広がる。

 そして茜は瞬矢に、先ほど目の前で起きたことの顛末てんまつを全て説明した。


「……刹那だ」


「でも、あの刑事さんは『瞬矢の身内に刹那って人はいない』って。それって彼の言ってたことと何か関係あるのかな?」


「あいつは、お前になんて?」


 茜は俯き小さく頷くと答える。


「彼は――」


 あの時、茜を見据え彼はこう言ったという。


『なくした過去は、見つかったかい?』


 ……そして、


『あの場所が君を待ってる』


 とも――。

 「……そうか」と溜め息混じりに溢し、さらに続ける。


「言いそびれてたんだが、実は――」


 瞬矢は斎藤家の実子……つまり、本当の親子ではなく10年前に引き取られた養子だというのだ。

 そこで茜は先刻、新田 香緒里の宣った彼の身内に『刹那』という人物はいない、という言葉に信憑性を抱く。

 だが、だからといって同一人物とは考えられなかった。


「本当の親が誰かなんて知らないし、知りたいとも思わない。けど……」


 頬づえをつき、物思いに穏やかな笑みを見せ言った。


「お袋がああまで喜ぶなんて。今回ばかりは、あいつに感謝しないとな」


 彼のそんな表情を見た茜も、つられて自然と笑みが溢れる。


「たまには帰ってあげなよ」


「そうだな」


 その時、ガラステーブルの片隅で銀色に光る何かが茜の目に留まる。


「――! 腕時計?」


「さぁ、壊れてるみたいだし。でもこれを見た時、なんだかとてもいやな感じがしたんだ」


 そう言い、腕時計に刻まれた【S‐06】というシリアルナンバーを見せる。

 その際、走り抜けた妙な感覚。

 だが瞬矢のそれとは違い、かすみがかりどこか曖昧ではっきりとしない。


 刹那が、如何にして瞬矢の養父母のことを知り得たのかは謎だ。

 彼の言う“あの場所”が何かも知れない。

 ただひとつ言えるのは、その腕時計に彫られた【S‐06】というシリアルナンバーに妙な懐かしさを覚えたことだった。


 ――同日、午後11時。


「さて、と。そろそろかな」


 闇夜を映す全面ガラス張りの建物を見上げ、1人の青年は呟く。


 

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