あかねいろ

 1



 日は傾き、瞬矢はベンチに腰掛けたまま桜の木の向こう側に広がる河川敷をぼうっと眺めていた。

 残りわずかとなった煙草に、今一度口をつける。


「【S】か……」


 溜め息混じりに吐き出された台詞は、空中で紫煙と共に消えていった。


(S、刹那……お前の目的はいったい……)


 手にした煙草の先端でくすぶる灰を見つめながら、瞬矢は思考を巡らす。

 不意に背後から聞こえた覚えのある声に視線を送る。


「手紙のこと、言わなくてよかったの?」


 瞬矢は、ふっ……と目を伏せ聞いてたのかと言わんばかりの笑みを浮かべ答えた。


「ああ。それに……」


 どうしたことか、伏せた睫毛の奥に不安定な光をちらつかせ、瞬矢は言葉を濁す。


「?」


 不思議そうに小首を傾げる茜を瞬矢は横目で捉え、口元を緩ませ今さっき飲み込んだ言葉の変わりにこう続ける。


「いや、なんでもない。行こう」


 備え付けの灰皿に灰を落とすと立ち上がり、煙草の火をもみ消し歩きだす。

 オレンジ色の西日を背に振り向いた時だった。

 短髪白髪混じりの60代くらいの男と鉢合わせる。


「ひっ……!」


 目の前の男は、何を恐れてか兢兢きょうきょうとした声を上げ、足をもつれさせながら後退し、やがて地面にへたり込む。

 瞬矢が1歩踏み出すと、男は護身するように左手を顔の前で翳し、でたらめに振り払う。


「やめろォ! 来るなぁ!」


「――!?」


 男の喚きたてる声で、周囲の視線が一気に集まる。

 瞬矢も隣にいた茜も思わずびくりと身を震わせ、その叫喚に驚きを露にした。

 男は地面に尻もちをついたまま瞬矢の顔を見上げ、酷く怯えた様子で後ずさる。

 そしてしきりに「許してくれ、許してくれ」と繰り返す。


「ちょ……、ちょっと待った! おっさん誰だ?」


 全く状況が掴めないといった表情の瞬矢の台詞に対し、まさかと言った様子で男は開口する。


「……! 覚えてないのか?」


 その表情は恐怖から一転、安堵に近いものへと変わってゆく。

 のそりと立ち上がり、軽くズボンについた土を払うと俯き加減に男は言った。


「まぁ、あんなことがあったんだ。忘れちまった方がいいのかもしれないな」


……?)


 名も知らぬ男の言葉に、瞬矢は眉をひそめ訝しむ。


「でももし、もし本当のことが知りたいと思うなら――」


 その男はオレンジの上着の右ポケットを探りながらこう続ける。


「これを……、ここに【S】の全てが……」


 やがて男は、上着のポケットから1枚のありふれたメモ用紙を取り出し、瞬矢に渡す。

 2つ折りにされたメモ用紙を覗き込む。

 そこには住所と、何かの場所を示す地図のようなものが走り書きしてあった。


「どうして、これを俺に?」


 男は、訝しげに首だけをほんの少し傾けた瞬矢を目視する。

 何かを思い出し、懐かしむかのように。

 そして、約数秒の間をあけ男は言う。


「あんたには、を知る権利がある」


 そう言い残すと男は向き直り、公園の方へ歩きだす。

 やがてその姿は木々に隠れ見えなくなった。

 残された2人は、しばらくの間、手元のメモとその向こうに続く舗装された道を見つめていた。

 まるで、これから自分たちが歩くであろう運命を見据えるかの如く。

 わずかに顔を出していた太陽は沈み、河川敷に冷たい風が吹き抜ける。



      **



 ――20XX年 4月6日。


 正午過ぎ。ソファに寝転び、ぼんやりと天井を眺めていた。

 昨日の男の言葉は、瞬矢にとってとても興味深いものであった。

 なぜならば【S】とは、すでに死んだ弟、刹那が何かしらの形で残したメッセージのようなものと考えていた為だ。

 視線を、天井からガラステーブルの上に置いてあるメモへと送る。


 瞬矢には躊躇ためらいがあった。

 メモに記された場所へ行けば【S】の、過去の全てを知ることが出来る。

 しかし、それは同時に今までの自分を根底から覆すことになるかもしれない。

 『斎藤 瞬矢』として生きてきた自分を――。

 それがどれほどのことなのか、考えただけでも恐ろしい。

 メモの傍らにおざなりとなっていた東雲 暁の関係者資料へと視線を移す。

 不意に思い出されたのは、今回の依頼人、東雲 茜の姿だった。


 茜とはまだ出会って間もないが、彼女といると、自然と振る舞える。

 こんなにも短期間で打ち解けたのは、瞬矢自身初めてのことだった。


(まさか……)


 ほんの一瞬よぎった推測。


「……いや、ないない」


(だって、なぁ……ピンクだぜ?)


 その脳裏によぎった考えを否定するかの如く右手を振り、ごろりとガラステーブルに背を向ける。

 その時、軽快な靴音がして、勢いよくドアが開く。


「瞬矢ぁー、いる?」


 開いたドアの向こうからは、丸く襟首があいた淡いピンクのシャツにベストを着た茜が顔を覗かせる。


「お……おう!」


 ソファから転げ落ちそうになりながら、慌てて座り直し、しどろもどろな返事を返す。


(つか、なんで俺の方がかしこまらなきゃならねーんだ?)


 ふと感じた矛盾に、瞬矢は内心独りごちて肩の力を抜き茜を見やる。


「せめて連絡くらいしろよな」


 茜の後を追うようにソファから立ち上がり、その背中に声を投げかけた。

 ずかずかと上がり込み、さも自分の家のように振る舞う。

 流し台の脇に備え付けられた小さめの冷蔵庫を開け中を覗き、そこで茜の思考は停止する。

 そこには、アイスが所狭しと積まれており、他には何も入っていなかったからだ。


「見たな?」


 瞬矢の一声で茜は我に返ったかのように、はっと肩をすくめ振り返る。


「この偏食家!」


 瞬矢は部屋と部屋を仕切る壁の縁に凭れたまま、ふん、と鼻を鳴らす。


「誉めてもやらんぞ!」


 腕を組み、優越感たっぷりな表情で見下ろす瞬矢。


「まぁ、お前の場合もう少し乳製品摂らないと、育たない……」


 その言葉に、しゃがみ込んでいた茜の両肩がぴくりと跳ね上がる。


「このセクハラ! 余計なお世話!」


 彼の口から放たれた思わぬ侮辱的な発言。

 それに対し茜は頬を上気させ、陳列されているアイスをひとつ掴み、瞬矢に向けて投げつけた。


「おっと!」


 瞬矢は一直線に飛んで来たそれを、右手を上げて顔の横でキャッチする。


「残念でした」


 そう言って、小馬鹿にしたようにへらりと笑う。

 それを目にした茜はぐっと顎を引き、上目遣いで恨みがましく睨みつけた。

 いちいちしゃくに障る……本当に、嫌な奴だ。

 だがすぐさま視線を逸らし、そして呆れたとでも言わんばかりに「まったく……」と深い溜め息をつく。


「――で、どうするの?」


 瞬矢の目の前を通り過ぎると、どさりとソファに腰を下ろし、先日のメモを見やり訊ねる。


「まあ、そのうち……」


 瞬矢の曖昧な答えに茜は右手で頬づえをつき、覗き込むような形で言った。


「ほんとは恐いんでしょ?」


 真っ直ぐ見据える彼女の茶色い瞳は、心の内までをも見透かしているようであった。


「…………」


 痛いところを突かれ、仏頂面でそっぽを向く。

 それを見た茜はくすくすと悪戯っぽい笑みを浮かべ、更に一言。


「ついてってあげようか?」


「はいはい……」


 冗談と言わんばかりに鼻であしらう。


「ま、兎も角……だ。まずはこっちを片づけちまわないとな」


 彼女の父親こと、東雲 暁の関係者。瞬矢は彼の最も近くにいた数名に、片っ端から聞き込みをすることにした。


「こっちは、明日にでもあたってみようと思う」


 そう言い、瞬矢はガラステーブルの上で手に取った東雲 暁に関する資料を纏める。


「そうだ! ついて来てほしいところがあるの」


 茜は、何かを企んでいるかのような笑顔を見せる。

 先日もそうであったように、こうして彼女が切り出す時には、決まって何か起こるのだ。

 ただただ嫌な予感しかしなかった。



      **



 空はからりとした晴天で吹き抜ける風が心地よく、それでも街を行き交う人波は相変わらずせわしない。

 茜はというと、携帯で何やら話をしている。

 ――20分後、嫌な予感は見事に的中した。

 立ち竦む瞬矢は目の前にそびえる大きな白い建物を、ぽかんと見上げる。


「病院?」


 聳える建物の正体。それが分かった瞬間、眉をひそめて怪訝けげんそうに呟く。

 瞬矢は病院が苦手だ。

 消毒薬の匂い、白衣、どれも彼にとって馴染めないものばかりだった。

 それがなぜなのかは分からないが、昔からこの『病院』という場所だけは慣れなかった。


 エレベーターを降り、すぐ側にある4人部屋の病室。

 その入り口には『東雲しののめ 夕子ゆうこ』というネームプレートが掲げてあった。


(『東雲』……彼女の身内か?)


 立ち止まりそのプレートを目にした瞬矢は、内心独りごちる。

 病室へ入ると、向かって一番右奥、窓際のベッドにネームプレートの主はいた。


「お母さん!」


 数歩前に進み出た茜は、やや跳ね上がるような口調でその人を呼ぶ。

 どうやら、彼女の母親らしい。

 なるほど。言われてみれば、微笑んだ際の表情、栗色の髪の毛など確かに面影がある。


「あら……?」


 茜の母、東雲 夕子は瞬矢を視界に捉えて小首を傾げる。

 瞬矢もつられるようにやや首を傾けて一礼し、形式的な挨拶を交わす。


「変ね、初めて会うはずなのになんだかとても懐かしい気がするわ」


 茜と同じ茶色い両目で不思議そうに彼女は言う。

 「きっと気のせいね」右手を口元にあて、柔らかな笑みを見せた。

 その柔和な笑顔に瞬矢は、幼い頃に見た母の面影を重ねはにかむ。



      **



 病院を出た頃には、すでに太陽は西へと傾き始めていた。


「今日はありがと」


「お前の為なんかじゃねーからな」


 茜の言葉に、瞬矢はふいと顔を背け素っ気なく応える。

 ……嘆息。住宅街を抜け歩く茜は両目を瞑り、思い出すように宣う。


「母さんね……きっと、頑張りすぎたんだと思う。突然父さんがいなくなって、それからずっと母さんと私2人だけだったから……」


 ゆっくりと目を開けた茜の寂しげな横顔に、瞬矢は何も返すことができず、ただただ黙って歩く。

 やがて、すぐ目の前に現れた階段の1歩手前で歩みを止める。

 顔を上げ、開けた視界の先に広がる光景を眺めながら茜は言った。


「だからそれまで、私が頑張らなくちゃ」


 遠くで狭苦しそうに覗く夕日が、全てを深いオレンジ色に染める。


「だって、くよくよしたって何も始まんないよ。前を向いて歩かなきゃ!」


 振り返った彼女と沈みかけの太陽がちょうど重なり、まるで彼女自身の輝きが世界を染めているように錯覚された。

 不覚にも瞬矢は、夕暮れのコントラストに見入ってしまう。


「ああ、正式に依頼署名ももらったことだしな」


「じゃ、バイトあるから私そろそろ行くね」


 そう笑顔で手を振り、軽快に目の前の階段を下りてゆく。

 次第に小さくなる茜の後ろ姿を見送ると、瞬矢もくるりと踵を返す。

 その表情には、幾分かの笑顔が垣間見られた。



      **



 ――20XX年 4月7日。午後2時過ぎ。


 その日、瞬矢は関係者の1人である渡辺わたなべ 真理まりのもとを訪れていた。

 彼女は10年前、茜の父親である東雲しののめ あきらの製薬会社を去った後、生物学研究所の教授となっていた。


「おー、やっぱすげーな」


 振り仰ぐように一面ガラス張りの建物を見上げ、感嘆の声を漏らす。

 ガラスはマジックミラーになっているらしく、当然中の様子は窺えない。

 「よしっ!」と気合いを入れ直し、施設の正面玄関をくぐる。


「教授は多忙な為お会いになれません」


 やっぱり――ある程度想定はしていたが、予想通りの受け付けの対応に一度退くことを決めた。


「何か分かるといいんだが……」


 施設内を出ると入り口の2、3歩ほど先で足を止めて振り返り、再度全面ガラス張りの建物を見上げ呟く。

 再び研究所を訪れると裏口に、写真と酷似した長い髪を纏め上げ、ノンフレームの眼鏡をかけた1人の女が歩いて来るのが窺えた。


「渡辺 真理だな?」


「誰!?」


 街灯の明かりを避けるように、暗闇からわずかな輪郭を覗かせる。

 驚き振り向いた彼女は瞬矢の姿を確認しようと目を細める。


「東雲 暁の居場所について教えてもらいたいんだが」


 すると彼女は目を伏せふっ……と笑みを溢し答えた。


「またえらく懐かしい名前が出てきたものね。でもね、残念ながら私は彼の居場所なんて知らないし、知りたいとも思わないわ」


 壁に凭れ腕組みをし、たがが外れたかのように続ける。


「それに、きっと彼も今回の件が片づくまで姿を現さないはずよ」


「今回の件……。まさか【S】の?」


 【S】その言葉に、真理は目を見開き明らかに表情を一変させる。


「“あれ”の秘密を知った人間はただじゃ済まないわ。勿論、口外すら許されない」


 何か考え込むように口元に右手をあてがう。


「あなたも死にたくなかったら、この件から手を引きなさい」


 それは彼女の最大限の警告であり忠告だったのか。

 そう言い残し、くるりと瞬矢に背を向け裏口から建物の中へと入り姿を消した。

 だが、瞬矢は彼女の台詞がどれほどの意味を持つのか、その重大さに微塵も気づいてはいなかった。


「ご忠告どうも」


 口角をつり上げ、誰もいなくなった通用口に向かって1人投げかける。


 結局情報を得られず、思案に暮れる中で帰路につく。

 これまでの経過を茜に報告しなければならなかったが、結果はあまりかんばしいものではなかった。

 しかし報告しない訳にもいかず、どうしたものかと眉間に皺を寄せる。


(ん? 火事……か)


 明々あかあかと夕闇を照らすその炎から目を離すことができず、ただその場に立ち尽くす。

 突如として心臓が激しく脈打ち、全身の血が逆流するようなそんな感覚に襲われる。


「――ぐ……あ……っ!」


 直後、ぎりぎりと頭部を締め付けられるような痛みが襲う。

 耐えきれず、両手で頭を抱え膝をつく。

 吐き気と定まらない視線の中、見開かれた紺色の双眸に映る炎は、まるで意思を持つかのように揺らめく。


 ―― 炎、赤、

    焦げた臭い……。


 全てが瞬矢に今、この現実にはない光景を見せた。

 それは、炎の向こうで笑う1人の少年だった。

 少年は、笑顔のまま言う。


「――君と僕は同じなんだよ」



「やめろォォ!」


 慟哭と共に紺色の瞳はより一層青く光を帯び、意識が思い出すことを拒絶し、前のめりにどさりと地面へ突っ伏した。


 ――翌朝、瞬矢は見慣れた階段の2階を過ぎた辺りで目を覚ます。

 どうやら、自力で戻ろうとしたものの力尽きたらしい。


「……っ」


 わずかに残る目眩めまいに顔を歪め頭を押さえる。

 よろめきながらも階段を上りきり部屋の入り口近くの壁に凭れ掛かると、そのままずるずると力なく座り込む。

 ふと思い出したかのように服の右袖をまくり上げる。

 そこには、注射針の痕が残っていた。

 それを見て瞬矢は、やはり夢ではなかったと右手で視界を遮り思い返す。


 あの時――。

 気づけば誰かに引きずられ、路地裏の外壁に身を預けていた。

 瞬矢は人物の姿を確認しようとしたが、暗がりと逆光の為はっきりと判別できなかった。

 薄いコートのようなものを着た人物は目の前に膝をつくと何かを確認するかのように手を当て、瞬矢の両目を片方ずつ覗き込む。


「Level 3、Sc……nL……b――」


 朦朧もうろうとしていたせいで所々しか聞き取れなかったが、人物は何やら意味不明な言葉を口にする。

 そしてポケットから何かを取り出す。

 それは、幅1センチくらいの注射器に半分ほど入れられた、半透明の水色の液体だった。


(……なんだ、それは? いったい……何を!?)


 だが人物は押し黙ったまま、暗闇の中でも綺麗な水色を放つその液体を躊躇ためらいなく瞬矢の右腕に注射した。

 吐き気も割れるような頭の痛みも、瞬く間に引いてゆくのが分かった。

 やがて閉じきった瞳孔はすうっ……と開き、淡く光を宿した両目の青色も、本来の深みを帯びた濃紺へと変わってゆく。

 再度瞳孔を覗き込み、小さく頷くと一言。


「あんな場所で『力』を使うんじゃない」


(『力』……?)


 目の前の人物は尚も低く、それでいてとても落ち着いた口調で言った。


「もう、この件には関わるな」


 人物が誰なのかも、言っている言葉の意味すら理解できないまま意識は遠のき、やがて一時の闇に落ちていった。


 ――そして、現在。

 視界を遮っていた右手をどかし、しばし眺める。

 特にこれといった変化はない。むしろ、頭の中がすっきりしているくらいだ。

 少なくとも、あの暗がりにおいてあれほどまでに鮮明な光を放つ薬品を、瞬矢は未だかつて見たことがなかった。

 そう、例えるなら暗闇で光るペンライトのような……。

 ただ、あの時暗がりの中で聞いた人物の声はどこか懐かしく、それでいて身近な、そんな気がした。


(……どっかで、会ったか?)


 突然、沈黙を打ち破る間の抜けた音で思考はふっ飛び我に返る。


「ふっ……」


 時も場所も、空気すら読もうともしない腹の虫に瞬矢は思わず苦笑する。


「さて……と」


 のそりと立ち上がると瞬矢は独り言のように呟く。

 ドアを開け、いつもの日常へと戻っていった。

 だが――、自分に射たれた薬品がどんなもので、何の為のものなのか。

 それは、瞬矢の心に決して拭い去ろうことのできない染みとなって留まり続けた。



      **



 時刻は午後の3時を過ぎ、資料にまとめる。

 メモの右端には『Level 3』という文字が書き足されてあった。

 あの時、わずかに聞き取れた言葉を忘れないように瞬矢が自ら書き足したのだ。

 携帯を取り、あらかじめ訊いておいた連絡先にコールする。

 5度目の呼び出し音が鳴るのとほぼ同時に、聞き慣れた明るい声が携帯の向こうから響く。


『――もしもし?』


 携帯越しに聞こえる賑やかな声に、瞬矢は口元ににわかな微笑を湛え目を細める。


「かけ直した方がよかったか?」


『――え? ああ、いいよ別に』


 一言「分かった」とだけ返し、呆気なく終話する。

 結局、歩いて30分ほどの場所にある喫茶店で落ち合うことになった。


 白い外壁に取り付けられた焦げ茶色をしたウッド製のドアを開ける。

 チリン。ドアの上部に飾られた、小さな2連ベルの高く涼やかな音色が歓迎する。

 伏し目がちに、やや憂いを帯びた黒曜石の如き瞳。

 一見して掴みどころのない雰囲気を醸し出す彼の容貌は、早々に周囲の注目を集めた。

 だが瞬矢はいつものことと、そんなことなど気にも留めず、すたすたと茜のいる窓際の席へと向かう。

 そして入り口に背を向ける形で茜の対面に座った。

 テーブルの上に両手をついた瞬矢は、ここまでの経過を簡潔に話す。


「昨日、渡辺 真理の研究所へ行ったんだが……東雲 暁に関する情報は得られなかった」


 だが茜は「そう……」と言い、どこか腑に落ちないといった表情を見せる。


「何か隠してるでしょ?」


 瞬矢は、昨夜の出来事を話すべきか否かと迷っていた。

 だがもし話せば、やはり彼女を巻き込むことになるかもしれない。

 そう考え、咄嗟にもうひとつの別な情報を提示する。


「実は……」


 いつも以上に改まった瞬矢の言動に、茜も息を飲み言葉を待つ。


「これはあくまでも俺の推測なんだが、親父さんの失踪は今回の件と何か関係あるんじゃないかって思う」


 何故ならば、茜の父親の関係者が皆一様に「この件から手を引け」と言っているからだ。


「それを確かめられる人物が、あと1人だけいる」


 瞬矢は、手提げ鞄から男の写真を取り出しテーブルの上に差し出す。


「あっ!」


 両手で口を覆い隠し肩をすくめる。

 改めて写真を覗き込み、ワントーン声を落として言った。


「この人、こないだの……」


 それはつい先日、関係者の1人である中川 昭夫が殺された現場近くの河川敷で瞬矢にメモを渡してきた、あの男だった。


「名前は『六野りくの 康博やすひろ』。今からこの男に会いに行ってみようと思う」


 瞬矢の言葉に茜は黙って頷く。



      **



 河川敷へ行くと何やら人だかりができており、ブルーシートに覆われた辺りからは何かが焼け焦げたような鼻をつく臭いが漂う。


「まさか……」


 はっと口元に右手をあて体をすくめた茜が呟く。

 瞬矢は辺りを見回したが、当然の如く『彼』の姿は見当たらなかった。

 立ち入り禁止の黄色いテープの周りでは警察が現場検証を行っており、新田 香緒里の姿が目に留まる。

 隣には香緒里と同年代くらいの若い男の刑事が立っていた。

 香緒里も瞬矢たちに気づいたらしく、相変わらずの鋭い眼光を向ける。

 その時、再びあの割れんばかりの頭痛と耳鳴りが瞬矢を襲う。


「くそっ! また……か」


 周りの雑音も茜の声すらも聞こえなくなり、やがて耳鳴り以外の周囲の音全てが遮断される。


 ――静寂。静寂の中に映る投影。

 まるで時間を逆行し、自分がその場に居合わせていると錯覚してしまうほどリアルに、瞬矢の網膜を通してその時の光景を脳内にまざまざと映し出した。

 橋げたのたもとから、そろりと姿を現した人物。

 白っぽいコートを着た人物は、月夜に映える淡い桜の花びらのような瞳で目の前の男を視界に捉えると、頬を緩ませくすりと笑う。

 『彼』の形のよい唇は、ゆっくりと言葉を紡いでゆく。


「暗い闇の中で、影は生き続ける」


 すうっと男に向け伸ばされた指先から静電気のような火花が走る。

 途端に火柱が上がり、視界は炎で埋め尽くされた。


「――っ!」


 急に現実へと引き戻されたせいかはたまた漂う臭いのせいか、瞬矢は耐えきれず袖口で鼻と口を押さえ、ふらふらとよろめきながらその場を離れる。

 1人おざなりにしてきた茜の、背後で自分を呼ぶその声すら、今はどこか遠くに聞こえた。



      **



 その日の夜、瞬矢はテレビのニュースで例の遺体となって発見された人物が六野であることを知った。

 そして彼の左頚部には、やはり【S】の文字が残されていたという。

 右手で頭を抱えると1歩2歩と後ずさり、机の上に置いてあった煙草を取ろうと手を伸ばす。

 だが手探りで取ろうとした為に、纏めてあった資料もろとも払い落としてしまう。

 雑多な物が落ちる音に紛れ、床で弾ける金属音。


「……なんだ?」


 瞬矢は思わず振り返り視線を落とす。

 床には、部屋の照明に反射して鈍く銀色に光るデジタル式の腕時計が転がっていた。

 よくよく見るとすでに壊れてしまっているらしく、文字盤には何も表示されていない。

 光の反射加減で、留め金となっているプレート部分に何か文字らしきものが彫り込まれているのが窺える。

 目を凝らすとそこには、腕時計のシリアルナンバーらしき【S‐06】という数字が刻まれていた。

 その数字を見た時、瞬矢の中に言い知れぬ悪寒のようなものが走り抜けたのだった。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る