困惑

 

 1



 ――20XX年 12月14日。


 午後3時40分。瞬矢のもとへ向かう茜は、寒さを凌ぐ赤いダッフルコートを着ていた。裾からはグレーのスカート、襟ぐりからはダークブラウンをしたハイネックのシャツが覗く。

 手の内に握られた、温もりも消え去ったそれを見つめる。


 この感情が単なる敬慕なのかそれとも恋なのか、本当に分からなくなったのは恐らくあの屋敷を訪れた頃。答えを見つけ出せずさ迷う本心に、1人、駱駝色のムートンブーツへ視線を落とす。

 それでも足は無意識に瞬矢のもとへと進み、気づけば見慣れたドアを前に立っていた。


「はぁ……」


 やおら深い溜め息をつき、渡す物だけ置いて帰ろうかと迷う。だが、せっかく来たのだから少しだけ彼の顔を見たくなった。

 ノックをし、呼んでも応答がない為にドアノブを掴み少し捻ってみると鍵が開いている。ゆっくりとドアを開け中の様子を窺うと、実に無防備な態勢でごろりソファに身を投げ出していた。


「瞬矢?」


 しばらく待てど一向に気づく気配がない。どうも眠っているらしい。

 開きっぱなしの窓から、夕時の乾いた風が吹き込む。同時に半分ほど下ろされたブラインドが、冷たい風に揺れてカラリと鳴った。


(まったく……無用心だし、風邪ひくじゃない)


 ひとつ気の抜けるような溜め息をつき、内心ごちた後、窓際まで歩き静かに窓を閉めた。

 傍の机にあるボールペンで、メモ代わりの付箋紙に一言書き足す。そしてそれらをガラステーブルの上に置き、ふと仰向けで眠る瞬矢に視線を落とす。


 夕暮れのオレンジに照らされ心地よさげに眠るその姿は、さながら子供のようだった。

 いつもならボタンをひとつ外して着ている白いシャツ。それも今日はふたつ分はだけ、鎖骨の付け根から胸元がだらしなく露になっている。起こさないようその場をそっと去ろうとした。その時――。


(……え!?)


 右腕に急激な圧がかかり、視界がぐらりと傾く。


「……っ」


 一定のリズムで伝わる確かな脈拍と温もり。ゆっくりと目を開けると、視界には心地よく上下を繰り返す皺がよった白。

 茜は次第に状況を把握する。自分が、瞬矢の上に覆い被さるような状態でいたことに。


 ゼロ距離。そのことを理解すると同時に頬は紅潮し、体の芯が熱くなるのが分かった。

 慌てて体をどかそうと身を起こす。けれども想像以上に強い力で腕を掴まれ、行動を制限される。

 動ける範囲で少しだけ身を起こした際に見えた左の首元、そこからわずかに傷痕が覗く。


(……? 火傷……かな?)


 首元から肩胸の辺りにまで広範囲に亘るそれは、どちらかというと火傷の痕のようにも見えた。


 視線を辿らせてゆくと、彼の顔が今までにないくらい近く、再び胸の高鳴りを覚える。けれども夕暮れに染まるわずかだが憂いを帯びた寝顔に、思わずほうっと見とれてしまう。

 遠慮がちに襟元に手を添え瞬矢の顔を覗き込み、ひとつ吐息を漏らすと茜は語りかける。


「瞬矢……私、ほんとはね――」


 伏し目がちな茶色の瞳は、偽らざる心の映し鏡のように、ゆらり切なげに揺らぐ。


(瞬矢が『りく』だったら……って思ってたんだよ?)


 言葉の続きを心中に留め薄く目を閉じ、自身の顔を重ねるように傾け近づける。ソファが小さくぎし――と軋み、さらり、肩まである栗色の髪がオレンジの夕日を遮る。


 茜は、まだ誰とも唇を重ねたことがなかった。よって生じた多少の躊躇い。それが彼女の所作を鈍らせる。

 でも彼となら――、そう思っていた。


「ふ……っぅ」


 緩やかな唇の隙間から抜けるように漏れた息。

 近づくほど心拍数は早まり、緊張と胸の苦しさで唇が震える。わずか数センチ、互いの息がかかるほどの距離。

 頬から耳にかけてが、より一層の熱を持つ。


「ん……」


 低く小さく漏れ出た声に心拍が一瞬どきりと跳ね上がり、近づけた顔は寸でのところで止まる。顔を離し見ると、閉じられた瞼のきわに滲むものが瞬矢の睫毛を濡らしていた。


 夢を見ているのだろうその純真な涙に、茜は自分の行動を恥じた。同時に波の如く押し寄せる羞恥の感情。掴んでいる手に触れ指をほどくことすら躊躇われた。


 思い切って一回り大きな手を掴み引き離すと、崩れるようにぺたんと床へ座り込む。唇に指をあて、目線を游がせ狼狽うろたえる。


(やだ……。どうしよう、私……)


 気づいてしまった。心の奥底に押し隠していた、瞬矢に対する本当の気持ちを。未だ鼓動は早く、全身を巡るように帯びた熱は引かない。


「――んぅ……っな……!」


 突如発せられた譫言うわごとにはたと茜は顔を上げると、気まずさから逃げるかのように駆け出しその場を後にした。



 2



「――刹那ぁ!」


 屋敷の中、玄関を入りすぐの大広間でオレンジ色に燃える炎。少年は自らの片割れに手を伸ばし叫ぶ。


 10年前の火事があった日。


「早く、こっちに!」


 だが片割れの彼はゆっくりと首を横に振り、そして炎に囲まれているとは思い難い、酷く落ち着きある笑みで少年に言った。


「ありがとう。君が僕を忘れないでいてくれたらきっと……」


 一旦言葉を切り俯き、再び顔を上げるとこう続ける。


「大丈夫。君と僕は同じなんだよ。だって僕らは――」


 天井のはりが落ち、少年の左肩に当たる。片割れが発した言葉の続きは、崩れ落ちる柱の音と火の粉に掻き消された。


(『俺たちは』なんなんだ? くそっ……熱い……)


 『刹那』と呼ばれたもう1人の少年は笑みを浮かべたまま炎の中へと飲み込まれていった。

 「10年後、また会おう」そう言い残して。


 ――暗転。急激に視界が照らされ眩しい。窓からの風にカーテンレースがふわりとなびく。相変わらず目線は低いまま、屋敷の部屋の前にドアを開け立っていた。


(ここは例の屋敷……ってことは、また戻ったのか?)


 さすが夢だけに脈絡がない。だがしかしどうしても思い出せないのは、眼前で軽やかに靡く白いカーテンレースのように頭の中を覆うもやのせいだろう。

 広い部屋の奥には、白地に花柄のワンピースを着た自分よりも幼い1人の少女。


「こっち、おいでよ」


 背中まである栗色の長い髪の少女は言った。


(……誰だ?)


「君、誰?」


 少女に向かい自身が発した声は、相変わらず少年のそれだった。


「私は――」


 笑顔のまま彼女は答える。

 どこか聞き覚えのある、小鳥がさえずるような声で。やがて霞みがかった視界は次第に晴れてゆく。


 瞬きをすると目の前に少女がいた。目線の高さから、どうやら床に腰を下ろしているらしい。

 少女は小首を傾げ、恐らくきょとんとしているのであろう。右手の人差し指を口元にあて、不思議そうに言う。


「今日は、ぜんぜんしゃべらないんだね」


 伏し目がちな彼の視線は、床につかれた手元を見る。わずかに自身の口角がつり上がるのが分かった。

 視線の先、左手首にはナンバー【S‐06】と彫られた銀の腕輪が光る。


 長い瞬きの後、再び瞼を持ち上げると部屋の景色は昼から夜へ。半開きの窓に、カーテンが寒々しく揺らぐ。

 外はにわかに雪がちらついていた。


 目の前には白い息を吐く少女。暗がりでよくは分からないが、なんだかとても嬉しそうだ。思わず頬を緩めると、彼女は右腕に目を留めて声をあげる。


「あっ! けがしてる」


(怪我?)


 夢だからか怪我をしたというのに痛みも自覚もなく、ただ、首を傾げたことで視界が斜めに振れる。


 小さな手が右腕に伸び触れた。それをゆっくり目線で追う。いつも着ている、襟元に細めな黒リボンのついた白いシャツ。その袖の端を、鮮やかに染める赤があった。


「これでよしっ……と」


 暗く寒々しい部屋に、軽快な少女の声がひとつ。見ると右掌の辺りにハンカチらしき物が巻かれていた。

 再び視界に現れた彼女は満足そうな笑顔。幼いながらもその表情は、そこはかとなく……。


「もう大丈夫だよ、りく!」


 小首を傾げた少女は、もう一度にっこり笑う。人懐こいその笑顔は、忘れようはずもない。


(お前、まさか……茜?)


 だが少女は肯定するでも否定するでもなく、両手を床につき顔を寄せた。かと思えば、その小さく桜の花弁のような唇が一瞬頬に触れる。


「――!?」


 目を見開いた、少年と意識が同調する。ひとつ大きく高鳴る鼓動。すっと前屈みに寄せた体を離すと少女は、はにかむように再度微笑んだ。

 本当に茜なのか――再度彼女に問いかけようとしたが叶わず、意識は少年から剥離する。同時に少女の姿も霞んでゆき……。



「――っ?」


 見えない何かに引き戻されるように瞬矢は目を覚ます。視界にぼんやりと広がるそこは、あの屋敷でもなく見慣れた自身の部屋だった。

 目線をやや右に送ると、壁にかかる12月のカレンダー、そして黄昏に染まる部屋が広がっていた。まだどこか虚ろな意識で、瞬矢はソファの背凭れに手をつき上体を起こす。


 ――午後3時59分。どうやらそのまま眠ってしまっていたようだ。ソファに座り直すと瞼を掌で乱暴に擦り、霞む視界を晴れさせる。

 気づけば開け放していた窓は閉まり、夕日だけが温かく染めていた。太陽の匂いに混じり、鼻先を掠める部屋に残ったかすかな甘い香り。


 ガラステーブルの上にはタッパーが置かれてあり、それには四角い大きめな付箋紙が貼られていた。


「茜……来てたのか」


 頬を緩ませ何かが書かれた付箋紙を手に取る。メモにはこう書かれていた。


『アイスばっかり食べてちゃダメだよ』


 そしてその下に、いかにも後からつけ足したような一言。


『窓開けっ放しで風邪ひくよ』


「……あいつ」


 ぽつり、毒づきながらも口角をつり上げ嘲笑混じりにふっと息を吐く。そして、ガラステーブルの上に置かれたタッパーの蓋を開ける。色とりどりの野菜に――。


「……あ、しいたけ」


 一番上に堂々鎮座するしいたけの存在に、もともとそれほど高くないテンションが若干下がるのを感じ、それでも折角だからとひとつ摘まむ。

 尚、瞬矢がしいたけを食すのにそれなりの時間を要したのは言うまでもない。


 ――午後5時10分。手にしたカップに視線を落とす。半分ほど注がれたコーヒーには、自身の顔が映っていた。思考を巡らし悩ますのは、先刻見た夢。


(俺が、りく? まさか……)


 いや、そんなはずがない。あれはただの夢なのだから。そう、暗に浮かんだ考えを否定するかの如くかぶりを振る。おもむろにコーヒーの入ったカップを置き、頭を冷やそうと洗面所へ向かった。


 両手で掬った冷水に2、3度顔を潜らせ洗面台の縁に両手を置く。流れる水は、いつの間にか温水に変わっていた。蛇口を捻り水を止めたその瞬間、軽い頭痛が襲う。

 蒸気のせいで曇っていた鏡。そこに映った自身の顔に、にいっ……と笑う刹那を見る。


「っ!?」


 声なき驚嘆、半歩後方へ後ずさる。


 そして何よりも、いつもなら黒いはずの両目。その光彩部分が、青く仄かに光を帯びていたのだ。先ほどの夢が原因なのだろうか。とりとめのない思考の中、右手の指先で目元にそっと触れてみる。

 青く光を帯びた双眸以外、特にこれといった異常はない。強いて言うならば、わずかに心拍が上昇していることくらいだろうか。


『――君と僕は同じなんだよ』


「――違うっ!」


 刹那の言った台詞がふっと脳裏を掠め、否定しようと横にかぶりを振る。

 だが、それでも眼前に映る自分は刹那が笑いかけているようで、鏡にそろそろと右手を伸ばす。途端、響いた炸裂音。


 手を伸ばし触れる直前、鏡に大きくひびが入る。それは昆虫の複眼のように幾重にも歪んでいた。

 再び襲い来る頭痛。それは脳内を鷲掴み、次第に外側から締め付けるものへと変わってゆく。


「ぐあ……がっ……!」


 前屈みに発した呻き声と共に後方へよろけ、両手で頭を抱え込む。罅が入った鏡は小さく複数の自身を映し、そこに在る彼はいまだ妖しげに笑っているように思えた。


「はぁ……はぁっ……」


 荒く乱れる呼吸。見開かれた瞳は青く、より一層の光を帯びた。じりじり電気回路の異常を告げる洗面所の照明は不規則に点滅し、脳内に新たな映像がフラッシュバックする。


 薄暗い研究室、鮮血、横たわる亡骸、そして無表情に【それら】を見つめる1人の片割れ……。


 彼は言った。


『――――』


「うぅあぁあああ――っ!」


 拒絶を示す慟哭と共に響く炸裂音。電光のように走る火花をあげ、洗面所の照明、そして鏡は粉々に砕け散る。

 無尽蔵に走る火花と飛散したガラス片。だがしかし乱れ飛ぶそれらは時が止まったかの如く宙にあり、火花だけが瞬矢を避けるようにぐるりと取り囲む。


 力なく瞬矢が床へへたり込むと同時に砕けたガラス片は解き放たれ、ばらばらと床へ散乱する。

 構わず四肢を投げ出し奥の壁に身を預けるよう凭れ、だらりとこうべを垂れる。濡れて貼りついた髪の毛先からは、水滴がぽたぽたと滴り落ちた。


 まだ青みを帯びた瞳孔がじわじわと開き、瞬矢は床に円い染みを作るいくつもの水滴に虚ろな視線を落とす。

 部屋には再び暗がりと静寂が広がった。



 3



 ――20XX年 12月22日。


 午後3時35分。先週とほとんど変わらぬ出で立ちをした茜の手には、返しそびれた深い緑色のマフラーが握られていた。

 黄昏時、前回のこともあっての気まずさから重たい足取りは、歩いては止まり、また歩くを繰り返す。


 一部磨りガラスとなっているドアの向こう側に姿が確認でき、再びあの胸の高鳴りが襲う。軽く手の甲でドアを叩く。

 ドアの向こうから、わずかに返事が聞こえた気がした。遠慮がちにドアを開ける。確かにそこに瞬矢はいた。だが部屋を仕切る壁に身を預け、頭を垂れるその雰囲気は――どこか虚ろ。


「あの……」


 さらにはいつもと様子が違う彼に、吐き出した言葉も空気中に溶け込む。

 瞬矢は右手で頭を抱え、意識をゆらりと茜に向ける。その表情は逆光と左手に隠され窺えない。


「帰れ」


 発せられたのは酷く冷たくけれども虚ろな声で、目的も後に続く言葉も忘れ立ち竦む。ゆらり、大きな影が視界を覆う。途端、左側で響く鈍い音。


「――っ!?」


 びくり、身を震わせ肩を竦め、壁を叩きつけ道を塞ぐ右手に驚き、ぎゅっと両目を閉じる。

 しばしの後、そろそろと瞼を持ち上げると眼前に瞬矢の顔があり、するりと頬に滑らせた左手の隙間から鋭く見据えていた。


「早く……、出ていけ!」


 にわかに表情を歪め絞り出すような声。淡い光を帯びた両目が前髪の間から覗く。完全に瞳孔が閉じ青く輝くそれは、以前茜が見た刹那の瞳と酷似したものがあり、けれどもどこか悲しみを孕んでいた。

 茜はふいと顔を背け、すぐ横のドアから逃げるように立ち去る。階段を駆け下りビルを出ると次第に歩調は弱まり、やがてゆるゆると立ち止まる。


(何逃げ出してんの、私……)


 手に持ったままのマフラーに視線を落とす。何を語る訳でもなく沈黙し、夕暮れが深緑色のそれを暖かなオレンジのグラデーションに染める。


(……違う。あの右手は私を帰す為の脅し。ちゃんと逃げ道を作ってくれてた)


 踵を返そうとしたその時、頭上の窓ガラスが軽快な音をあげ砕け散り、歩道に降り注ぐ破片。背後より風がごうっと巻き上げ、茶色のスカートと肩までの髪を靡かせた。


「――!」


 いったい何があったのか。エレベーターを待つのももどかしく、つい先ほど下りたばかりの階段を使い、栗色の髪を躍らせながら一気に駆け上がる。

 散乱するガラス片の中、右半身を茜が立つドアに向け俯き部屋の中央に佇んでいた。ひしゃげたブラインドだけが乾いた風にカラリと鳴った。


「どうして……」


 ジャリ、靴裏で散らばったガラス片が砕ける音。俯いたままゆっくりと振り向いたその瞳には先ほどの光はなく、夕暮れを反映させた黒水晶のようであった。

 彼は歩を進め、床に落ちていた黒いコートを右手で拾い上げながら言う。空虚な独り言でも呟くかのように。


「……思い出したんだ」


 コートについたガラス片を軽く払う。その間、一切目を合わそうとはせず、茜の後方にあるドアへ向かう瞬矢は淡々と言葉を続ける。


「――【人殺し】なんだよ、俺は……俺たちは。……分かったらさっさと帰れ」


 散乱したガラスの破片を踏みしめながら、ゆっくりとすれ違いざま。


「えっ……!?」


(【人殺し】? それって、どういう――)


 茜はその言葉の意とすることを飲み込めず、見開かれた茶色い両目はガラス片が散乱した黄昏を映す部屋に游ぐ。

 すぐ近くにいる、なのにその距離はどこか遠くに感じた。背後のドアノブに手をかける音で我に返り――。


「待って!」


 咄嗟に身を捩り伸ばした両手で背を向けた瞬矢にすがる。


「……放せ」


 無感動に、たった一言。だが茜は背後から回した両手と全身に尚も力を込め引き寄せ、背中に押しつけるよう首を振る。

 今ここでこの手を放したら、彼は遠くに行って帰ってこない、そんな気がした。


「分からないっ、分からないよ! なんで……私……好きなの瞬矢のこと。だからっ――!」


 一言紡ぐ度に鼓動は高まり、溢れ出した感情を抑えきれず言葉に詰まる。


 ほんの1年足らずであったが、彼とは苦楽を共にし、散々馬鹿もやってきた。彼が悪事を働けるような人物でないことは、茜自身、一番よく知っている。

 そこでいきなり彼の口から、自分が【人殺し】であるなどと宣われたところで「はいそうですか」と、簡単に理解できようはずもない。


 自分でも分かるほどに全身が熱を持ち、頬が紅潮する。

 やっと気づけた想い。


 だらりと下ろした、コートごと握り締めた右手により一層の力が篭る。やがて彼は背を向けたままこう言った。


「ベタベタされんの嫌いなんだよ」


 感情の見えない、低く平坦な口調で。

 「もういいだろ」静かにそう言い、ドアノブにかけていた左手で茜の手を掴み振りほどいた。再び歩き出し、ドアの向こう側へ消える瞬矢はすでに遠く――。


 反動で後方へよろけ、両膝を折り曲げへたり込みぺたんと床に両手をつく。


「痛……っ」


 右の掌に走り抜けた突き刺さるような痛み。見れば右掌から一筋の赤い線が溢れ、手首へと伝う。思わず右手首辺りを左手で押さえた。まだわずかに残る感触は温かい。

 引き離そうと手を掴んだほんの一瞬。それは一見荒っぽく見えた中にも、わずかだが感じ取れた優しさ。


 引き離された拍子に床に落ち、夕日を浴びながら沈黙を続けるマフラーも、今はどこか悲しく映る。茜は眼前のそれを前傾気味に手繰り寄せた。


「……っう……」


 溢れてくる感情は決して掌に走る痛みのせいではなく、引き止めることができなかった無力な自分に対する歯痒さと、そんな自身への悔恨からくるもの。


(なんで……なんで、いつも1人で抱え込むの!?)


 手繰り寄せた、もう彼の残り香さえ伝えてくれないマフラーを、胸の辺りできつく握り締めた。


「……っ……バカ……」


 嗚咽混じりに吐き出した言葉は、宛てどなく空へ消え入る。俯いたことで留まりきれなくなった涙がぽたぽたと溢れ落ち、温かな染みを作る。



 ――午後4時20分。オレンジ色に染まる部屋から、茜の姿は消えていた。

 吹き晒しとなったブラインドがカラリ、カラリと乾いた音をあげて風に靡く。



 4



 茜と離れ1人となった瞬矢は、あの屋敷跡に向け車を走らせる。全てはあの場所にある、そんな気がした。


 21日、新田 香緒里から新たな【S】の情報について連絡を受けていた。そして同日、その情報を得る為に待ち合わせたのだが……、約束の場所に彼女は現れなかった。


 森と道路以外は目立って何もない林道の先を、ヘッドライトだけが煌々と照らす。


『――……好きなの瞬矢のこと。だから――!』


 去り際に打ち明けられた茜の言葉がよぎる。

 「だから――」その後に、彼女はいったい何を言おうとしたのだろう。


 思い返せば、どんな時も彼女は傍にいて明るく照らしてくれていた。

 だが、だからこそ思わずにはいられない。


 あの時、必死になり引き止める茜の手を振りほどいた自身の左手を視界に捉える。

 少しきつく言い過ぎたかもしれない。だが、自分といるよりもそうした方が、そうすることでそれ以上彼女が傷つかないのなら……。


 胸の奥をきつく締め付けられるようなやるせなさが襲う。左手に残る温もりをぐしゃりと握り潰し、ハンドルを右に切る。

 

 時刻は午後5時10分。山間ということもあって、辺りはすっかり宵闇に覆われていた。

 もしあの記憶が本物なら、“それ”の存在を示すものがこの場所のどこかにあるはず――。そう践んだのだ。


『――さぁ、実験の始まりだ』


 過去の記憶から呼び起こされた、男のくぐもった低い声が脳内に爪を立て鷲掴む。その記憶は決して離れることなく、瞬矢の頭の奥深くに重たく首をもたげ続けていた。


 『東雲』の表札が掲げられた門扉を潜り抜け、敷地内に車を止める。車内から途中で購入したシャベルと懐中電灯を取り出す。

 炭化したはり、瓦礫と瓦礫の間を縫うようにゆっくり、ゆっくり歩く。

 敷地の中央部分に来た時、突如瞬矢の網膜を何かが支配し、もはや自分のものかすら分からない記憶の隅に眠る映像を見せる。


 ――それは、朧月が照らすある晩のこと。窓の隙間から偶然見えた、何かを地中に放り投げて埋める2人の男。月明かりが男たちの姿をさらけ出す。


 ――1人は六野りくの。もう1人は『仁井田』こと新田 健。


 網膜の奥の映像は再び現在を映し出す。暗闇の中、季節外れの蝶が輪粉を散らしてひらひら舞う。あまりにもはっきりと見えたそれは、夢幻か。

 確かに言えるのは、反響しながらも聞こえた『裏だ』という声。


「……あっちか」


 地面に突き刺したシャベルを握り直す。前方を懐中電灯で照らしながら、古びたフェンスが森と敷地の境界を仕切る形で張り巡らされている屋敷の裏手へと向かった。


 フェンスを乗り越え歩き、天を覆い尽くさんばかりに脈々と枝葉を伸ばした大木の前で歩みを止め、その木の根元に視線を落とす。

 冷たい夜風が艶やかな黒髪をそよがせ、羽織っていたコートの裾を靡かせた。


 持っていた懐中電灯を地面に置き、おもむろにシャベルで足元の赤黒い土を抉った。時折、足元を懐中電灯で照らしながら。

 今、瞬矢の頭の中には、ついさっき視た地中に“何か”を投げ入れる記憶とも呼べる映像が浮かんでいた。


 地表から1メートルほど掘り進めていると突然、カツン、とシャベルが何か硬いものに当たる。


「……!」


 岩か何かに当たったのだろうか。瞬矢はシャベルを放るとしゃがみ込み、表面に被っている柔らかな土を両手で掻き分けた。


 両の指先がひやり、そしてざらりとした何かに触れる。岩とも、木の根とも違う、今までに味わったことのない異様な感触に両手を引くと、素早く端に置いてあった懐中電灯をひっ掴みその場所を照らす。


「――っ! なんだ、これ……」


 懐中電灯が照らし出す眩い明かりの先に現れたもの。その正体に、瞬矢はそれ以上の言葉を失う。


 天を覆い尽くすかのように聳えた木の根元、暗く冷たい地中から現れたのは、無数の白く長細い“何か”。

 地中からまだほんの一部分しかその姿を見せておらず、また若干土を被ったそれは、折り重ねられた人の骨、骨、骨――。


 先ほど瞬矢が表面に被っている土を掻き分けた際、両の手でひやり、ざらりと触れたもの。その正体こそ、今まさしく眼前にあるそれらだった。

 狭々しく折り重なった骨たちの一番上に突き出すかのようにあるそれは、左右どちらかとまでは断定できないが、長さと大きさから恐らく腕の部位と思われる。


「人の……骨?」


 やや平静を取り戻し、訝しげにそう呟くと眉をひそめる。ふとよぎったのは、つい先ほど見た誰のものとも知れない断片的記憶の映像。

 そして暗闇に輪粉を煌めかせひらりと舞う真っ黒な翅の蝶と、反響する声。


 瞬矢は思う。導かれたのかもしれないと。そして、まだわずかだが表面にかかっている赤黒い土を左手で軽く払う。


「あれ……っ?」


 当初はただ土を被っているだけかと思われたが、どうやら違ったようだ。瞬矢は、それを持っていた懐中電灯の明かりで照らしてみる。

 いくら払っても取れないその黒い模様は、文字のような記号のような羅列でこう書かれていた。


 ――【2005122203】。


 ぞくり、背筋に言い知れぬ寒気が走る。

 しかも、数字が書かれていたのはそのひとつだけではなく、他の骨にも同様の文字列が描かれていたのだ。


 初めは黒いマジックか何かで直接書かれているのかと思ったが、違った。意図の見えない数字の羅列は、もとから綺麗に印刷されているかのようであった。

 ――そう。まるで、刻印のように。


 その数字はどれもばらばらで、中には他よりも明らかに小さい、恐らく子供の物とも思える骨も混じっている。


 突然、辺りにぱあっと光が差す。ヘッドライトと思われるそれは、だいぶ離れた場所から木の幹を照らすように差していた。だが、明かりひとつないこの暗闇を照らすには十分すぎる光だった。


「おめでとう」


 次いで聞こえたのは、抑揚のない飄々ひょうひょうとした男の声に単調な拍手。瞬矢は、はたと振り返って声のする方を仰ぎ見た。眩い光が視覚を刺激して顔をしかめる。


「――!」


 視線の先、そこには……。


 

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