第8章 彼らに感情は必要か?
影の命
1
パチ、パチ、パチ――。宵闇と静寂に、ゆるゆると響く拍手の音。
瞬矢は目を細め、顔の手前まで持ってきた懐中電灯で声と拍手が聞こえた先を照らす。ゆっくりと足元から辿るように。ぽっかり浮かんだスーツ姿の人影、そしてその正体。
あり得ない……。そんな思いが溢れていた。なぜならば今、瞬矢の眼前にいるのはコテージで首を
「見つけたようだね」
相変わらず感情の読み取れない、平坦な口調で彼は言う。だが暗がりと逆光で、その表情までははっきりと窺えない。
「なぜ……なんで……!?」
死んだはずの人物に地中から出土した無数の骨……。あまりにもあり得ないことの数々に瞬矢の思考は混乱を極め、懐中電灯を片手に立ち上がり声を荒らげる。
すると眼前の東雲 暁なる人物は口元に軽く握った右手をあて、くすりと笑んだ……ように見えた。グレーのスーツに身を包んだ彼は開口し、低く落ち着き払った声で答える。
「全て話すよ」
まるで瞬矢の意向を汲み取るかの如き口調で「全て話す」そう言い彼は踵を返した。一瞬垣間見えたその横顔は、今回の一連の出来事とそこにいたる発端の全てを掌握している、そんな表情だった。
なぜ死んだはずの人間が生きているのか、出土した骨の正体は――。
訊きたいこともあり、瞬矢は自らが掘った穴から這い出ると、右端に窺えたフェンスの破れ目を掻い潜りその後を追う。
午後6時10分。2人の間に漂うしばしの沈黙。辺りに蔓延る闇にも似た、重苦しい空気が包み込む。
焼け焦げた楓の木の傍ら、そこに停めてあった車のエンジンを切る東雲 暁に瞬矢は投げかける。
「どうして分かった?」
屋敷跡への再訪と人骨の発見に、その全てを見計らったかのような現れ方。あまりにもタイミングがよすぎた為だ。ヘッドライトが消え、辺りは再び瞬矢の手にした懐中電灯の明かりのみとなる。
「何がだね?」
顔だけでわずかに振り向いた彼は意味ありげに口角をつり上げ、素っ惚けた返答。ここでそれを話すには不足、ということであろうか。
だが瞬矢は気づいていた。今、目の前にいる人物こそが、記憶の奥深くずっと首をもたげ続けるあの声の主であることに。
淡々と歩を進める東雲 暁が向かったのは、あのオートロック形式の重く冷たいドアがある地下へ続く入り口だった。
コンクリート製のドアは、あの時のままぽっかりと口を開け出迎える。手にした懐中電灯が、足元の地下へと続く階段を部分的に照らす。
――『おかえり』。
地下へ延々と続く深い闇の向こうがそう言っているように思えた。ところが東雲 暁はなんの躊躇もなく地下へ続く階段に歩を進め、次いで瞬矢も真実を孕んだ暗き深淵へと足を踏み入れる。
地下は相変わらず埃っぽく、
初めて屋敷跡に訪れ見たのは、地下にあるこの部屋まで。
彼は周りの物に一瞥もくれず、ただ部屋の奥へ奥へと歩いてゆく。やがて立ち止まった先、それは以前開けることができなかった部屋の一番奥にあるドア。
確か開けるには認証コードが必要だ。だが東雲 暁は、ドアの様の壁に設けられた電卓のような入力パネルに、慣れた手つきで素早くそれを打ち込んでゆく。
あの時、無表情で血溜まりに佇む記憶の中の『彼』はこのドアを指差していた。もうすぐ全てを知ることができる。目の前のドアを見据え固唾を飲む。
前回同様、機械的な音が鳴り響く。その度にある言葉へ変換されるのだ。――『おかえり』と。
おかえり、おかえり、おかえり、おかえり……。
警告音が脳内に反響し、瞬矢は両手で耳を塞ぐ。
音が鳴り止むと共に、固く閉ざされたドアは空気を吐き出し解錠された。ドアを開けると、当然であるが眼前に広がる部屋は真っ暗だ。
電気をつけると蛍光灯は数回点滅し、やがて無機質なくすんだ光で部屋の全貌を明るみにする。入り口に佇み、まずは隅々に視線を游がせてくまなく見回す。
床はタイル張りで全体的に白一色。隣接した部屋同様、床にガラス片が散らばったその場所は、初めて見るのにどこか懐かしい感じがした。右側の壁には、なぜか色褪せた揚羽蝶の写真。
当の東雲 暁は部屋の突き当たりまで歩き、横倒しとなっている棚に腰を下ろして溜め息混じりの一声。
「さて……と」
その一言をかわきりに、瞬矢は游がせていた視線を東雲 暁に移す。
「どこまで思い出した?」
棚に腰かけ、眼鏡の奥から覗く黒い瞳はどこか試すような視線。
「だいたいのことは。俺も色々訊きたいことがある」
東雲 暁は肘をついて瞬矢を見上げ、瞬矢は部屋の真ん中辺りで立ち彼を見下ろす。お互い向き合う形で対峙する。ぴりぴりと走り抜ける緊張感。
先にそれを打ち破ったのは、他ならぬ東雲 暁。彼は瞑目し「そうか」と一言発した後、ゆっくりと瞼を持ち上げて続ける。
「さて、どこから話そうか」
「全て話す」と言ったものの、どうにも切り出し難そうな東雲 暁に対して、瞬矢はきっかけ作りに話を振る。
「裏にあった名前が塗り潰された墓石。『東雲 刹那』って彫られてた。もしかして……」
やはり訊いてきたかとばかりに、ふっと口元に笑みを浮かべる。いや、もしかすると彼は瞬矢が質問を投げかけることを分かっていたのかもしれない。
眼前の彼――東雲 暁は、相変わらずの笑みを湛えたまま答えた。
「察しのとおり。東雲 刹那は、12年前に死んだ私の息子だよ」
その回答自体は推測できていた為、別段驚くべきものでもなかった。やはり『東雲 刹那』は死んでいた、それだけのこと。だが同時に、今まで瞬矢の胸中に影を潜めていた疑問が再度浮き彫りとなる。
――なぜ弟は『東雲 刹那』の名前を用いたりしたのか。
「あの子のことは訊かれると思ってたよ」
東雲 暁は、そう言いおもむろにスーツのポケットから財布に入った写真を取り出す。そこには、無邪気に笑う年の頃およそ10歳くらいの黒髪の少年がいた。それは、瞬矢が以前焼け跡で見つけたあの写真と同じものだった。
彼は手元の写真に視線を落とし、ふっと懐かしむように言う。
「君も昔はこんなふうに無邪気に笑ってたよ」
12年前に死んだ息子、そして『刹那』という名前。そこで瞬矢の脳裏に、あるひとつの可能性が浮上する。
しかしそれは、到底認めたくない……けれども、どうにも頭の片隅に纏わりついて離れない推測。だが彼は、否定したかったその真実を容赦なく突きつける。
「君は……いや、君たちは死んだ私の息子『東雲 刹那』の細胞から造り出されたクローン体なんだよ」
2
――その頃。茜は白いパイプベッドの上で目を覚ます。視線を上へ送ると、冷たくくすんだ灰色の縦横に鉄骨が張り巡らされた天井が映り、見たことのない場所にいた。
(私、確か瞬矢のところ行ってて……それで……)
茜の手には深緑色のマフラーがそのまま握られていた。最後に交わした彼とのやりとりを思い出し、胸の奥が締め付けられる。
あの時、たった一言『行かないで』それすら伝えられなかった。
自身の不甲斐なさを振り切るように大きくかぶりを振ると、両手をついて起き上がり、周りを確認する。
今自分のいる場所はだだっ広く、ただの民家でないことがカーテン越しにも確認できた。静かさから、街中ではないだろう。視線をベッドの足元の方に移すと、カーテンを挟んで人影がひとつ映る。
(……ここは?)
「誰か、いるの?」
どこからかクラシック音楽が流れている。
「この曲……」
それは幼い頃から耳に残る雄大な、夕暮れを連想させる曲。
「交響曲第2楽章『新世界より』」
半透明なカーテンの向こう側から、低く穏やかな若い男の声が聞こえてきた。聞き覚えのある男の声。
だが声は聞こえども姿が見えない。それもまた恐ろしく、茜は躊躇いながらもそろそろと手を伸ばし、目の前の半透明なカーテンを捲る。
そこにいたのは、オフホワイトのハイネックシャツに身を包み、その上にズボンと同じライトグレーのコートを羽織った黒髪の人物。椅子に腰かけた彼は、伏し目がちに緩ませた三日月の唇で言葉を紡ぐ。
「目が覚めたみたいだね」
相変わらずの穏やかな口調で、俯き目を伏せたまま椅子から立ち上がる。
「……刹那」
目の前で三日月のような笑みを浮かべ言葉を紡ぐ人物こそ、他でもない刹那だった。ゆっくりと近づいてくる彼に茜はたじろぐ。
なぜこうなったのか。それは、ほんの数時間ほど前のこと。
――午後4時05分。茜は、いまだ立ち去ることができずガラス片が散らばる部屋にいた。
やがて泣き疲れソファに身を預け眠る茜に差すひとつの人影。人物は茜を見下ろし、どこか意味ありげにくすりと笑う。
床に膝をつくと悲しみで濡れた彼女の頬を拭い、両手でそっと抱き上げた。それはそれは、まるでガラス細工に触れるかの如く。
オレンジ色の夕日がその輪郭を
そう。この場所へと茜を連れ去ったのは、紛れもなく刹那だったのだ。
すぐ眼前に歩み寄る彼は、視線を合わせるよう前屈みになる。半目し覗く瞳は以前見た淡い紫色ではなく、自分と同じ茶色をしていた。
「あなたがやったの? 全部……」
(やっぱり双子なんだ。瞬矢とそっくり)
改めて間近で刹那を見て、茜は思う。
「さあね。どうかな」
だが彼はベッドの縁に腰かけ、何を言っているのか分からないとばかりに
「っ……!」
逃れようとベッドに手をついた際、右の掌に走り抜けた痛み。先刻、ガラスの破片で切った傷だ。忘れかけていた痛みが心の内に甦る。
生じた一瞬の隙。不意に刹那が右手を取る。
「あの時……」
そして掌の傷を見ながら、思い出すように切り出し、やおらコートのポケットから白いハンカチを取り出す。
「あの時は、君がこうして怪我をした僕の手にハンカチを巻いてくれたね」
いったい何を言っているのかと眉をひそめ、だが彼は気にする素振りも見せず、右手に白いハンカチを巻いてゆく。
「これ……」
茜はそのハンカチに見覚えがあった。白地の隅の方に小さく蝶の刺繍が入った、幼い頃、大好きだったあの子の手に巻いてあげたハンカチ。
「まさか、あなたが……」
震える声で訊ねる茜に、刹那は肯定的な笑みを浮かべる。
刹那が『りく』だった。突きつけられた事実に、茜は身に迫る危機感すら遠のき、逃げ出すことも忘れる。
だが例え彼が『りく』であったとしても、今回の事件の主犯であるという事実が変わることはなかった。
「……あなたは可哀想な人よ、刹那」
強い眼差しで真っ直ぐ彼を見据える。しかし刹那はそんなことなど気に留める様子もなく、右手を取ったままくすりと笑う。
「可哀想、僕が? それはどうしてだい?」
そんな彼の纏う雰囲気に気圧されぬよう「だってそうでしょ」と、終始強い口調で続ける。
「こんなことでしか、自分を表現できないんだから」
「『こんなこと』ね……」
刹那は目を伏せてぽつりと溢した。俯き加減になったからか、彼の口の端にはわずかな笑みが窺い知れる。
「何が……可笑しいの?」
決して笑えるようなことは言っていない。にも関わらず、彼が薄く笑っていることに茜は訝しみ、同時に底知れぬ闇を垣間見た。
「それは、今回の事件のことかい?」
刹那の問いかけに、茜は肯定するかの如く押し黙る。
「本当のことを知ってたら、きっと彼も僕と同じことをしたと思うよ」
それは、彼が暗に今回の一連の事件の犯人であると認めた瞬間だった。
「あなたと彼は違う!」
例え顔が同じ双子でも、瞬矢は絶対にそんなことはしない。そう思った茜は感情のままに声を荒らげ、白いハンカチの巻かれた右手を振り払う。
払われた左手は空を撫で、茜の傍らのベッドに着地する。空いた右手はそのままに、距離を詰めて茜の瞳の奥をじっと見つめる。
「同じさ」
穏やかだが低く、端的な返答。不意に伸びた刹那の右手が頬に触れ、そのまますうっと撫で下ろした。真っ直ぐ自分を見据える茶色いふたつの眼に捕らえられ、感覚が麻痺したみたいに体がどうしても動かない。
「……やめて」
果たして聞こえているのか、撫で下ろされた刹那の右手はそのまま下顎をくいと持ち上げ、
「彼とは、まだなんだ」
親指が下唇の輪郭をつやりと準える。そして悪戯っぽくくすりと笑い、耳元に自身の顔を滑り込ませ囁く。
「僕が全てを奪ってあげようか?」
再びその身に危険を感じた時には、すでに遅かった。
「……っ!?」
どさり、景色が反転し視界には覆い被さる刹那とその向こうに灰色の天井が映る。
「や……ぁっ……!」
一瞬のことだったが、自分でも耳の辺りにまで熱が集まってくるのが分かった。だが予想外の力で両腕を押さえつけられ、抗えない。
「教えてあげるよ」
低く落ち着きのある囁き声は、茜に真実を告げる。その言葉を聞いた茜は、両の目をこれ以上ないほどに見開く。それは、彼女が今まで考えもしなかった事実。
少しだけ身を起こし、ふっと緩ませた口元から息を漏らす。
「僕らは通じ合えてたんだ」
「知ってるかい?」そう言い彼は視線を游がせる。その視線は自分をすり抜け、何かを見つめていた。
「ここにいたもう1人の僕の分身、一番最初の僕――」
茜もまた、刹那の見つめる先に目をやる。どこか虚ろなその視線は、現在自分が身を預けている白いシーツへと送られていた。
彼は再び視線を正面に戻すと、瞑目し続ける。
「……僕が、殺したんだ」
彼の表情は悲しげで泣いているようにも見えた。
(泣いてる……の?)
茜は分からなくなっていた。本当に好きなのは瞬矢なのか、それとも『りく』なのか。もしかすると自分は、瞬矢に『りく』の面影を重ねていただけなのではないかと。
ただ刹那が『りく』であると知った今、再び顔を埋めてくる彼を拒めず耳元に温かな息がかかる。
彼は左手で両手の自由を奪う。空いた右手の指先が体の線を準え、そろそろとスカートの裾から素肌の覗く肢体を散歩した。
「……っ」
頬が紅潮し、堪えきれず口の端からわずかに漏れ出た吐息。脱力した左手から、マフラーがするりと床へ滑り落ちた。
だが刹那は、それ以上何かをしてくることはなかった。顔を埋めたまま身を震わせる。
初めは泣いているのかと思ったが、違ったようだ。やがてそれは、くつくつとした圧し殺すような笑い声に変わる。
「くく……ははっ……! 楽しみ……楽しみだ」
体を起こした刹那は堪えきれないといった様子で腹を抱え、やがて俯き両手で顔を覆い笑う。視界を遮る髪と指の間からわずかに覗く整った顔を歪ませ、これ以上ないほど愉快に。
――狂っている。そう思わせるほどに。
羽織っていたライトグレーのコートから別のハンカチを取り出して、手を伸ばしながら半目する。そして、すでに見慣れた底の知れない妖しげな笑みでそれを茜の鼻と口にあてがい言った。
「“その時”まで、しばらくおやすみ」
それが、茜の記憶にある最後の言葉だった。ハンカチに染み込んだ薬品の匂いに、再び茜は意識を手放す。
3
一方、東雲 暁により屋敷の地下にある開かずの部屋へやって来た。白一色の研究施設のようなそこで、真実を告げられた瞬矢は……。
「東雲 刹那の細胞からクローニングされたんだよ」
まるで言葉に対する瞬矢の反応を楽しむかのように。
「クロー……ニング?」
辿々しく言葉を復唱する。
『クローニング』とは、その名のとおりある個体の遺伝子情報を複製することを指す。
勿論、ヒトクローンは違法な行為である。
ならばなぜ、自分は今ここに存在しているのか。瞬矢の脳裏に幾度となく聞いた少年の言葉が蘇る。
『君と僕は同じなんだよ』
「……っう……」
前屈みに片手で口を覆う。込み上げる嘔吐感。体に巡る神経全てが、突きつけられた事実を認めることを拒絶していた。
『だって――』
見開かれた双眸はどこか一点を見つめ、呼吸は不規則に乱れ肩で大きく上下を繰り返す。
「うぅ……ぁ……!」
抱え込む脳内に、記憶の中に聞いたあの言葉が蘇る。
『だって僕らは彼の
そして、その言葉と共にまた別のある記憶が脳裏を掠める。
**
それがいつのことだったかははっきりと分からない。ただ、季節が春だったことだけは確かだ。大きな黒い羽の揚羽蝶。ひらり、ひらひらと開かない窓の外を羽ばたいている。
屋根裏のような埃っぽい場所で、それを眺める同じ顔をした2人の少年。窓の右側にいる1人は茶色い瞳、反対側にいるもう1人は黒い瞳をしていた。
「ねえ、知ってる?」
急な茶色い瞳の少年の問いかけに、黒い瞳の少年は彼へ視線を移し小首を傾げ、きょとんと後に次ぐ言葉を待つ。
「蝶って同種で通じ合えるんだ」
「ほんとに?」
次いで発せられた彼の言葉に、少年は驚きとその真意に対する期待で黒い瞳を見開く。
「蝶だけじゃないさ。虫や植物も通じ合えてるんだ」
窓辺に手をつき寄りかかる茶色い瞳の少年は言う。
「へぇ……」と黒い瞳の少年は視線を窓の外に戻して、ひらひらと宙を游ぐ烏揚羽を見つめる。そして思いついたように蝶を目で追いながら問う。
「僕らも、なれるかな?」
すると、茶色い瞳の少年は蝶を見つめそれに答える。
「大丈夫さ。きっと通じ合えるよ」
くるりと向き直り窓に凭れ、柔らかな日差しを背に受け「だって……」と続けて一言。
「僕らは特別なんだよ」
にっこりと子供らしい笑顔を貼り付けて。その表情は、自分と同じ顔でありながら、どこか含みがあるように思えた。
**
突如フラッシュバックした記憶にあてられ、ぐらり世界が回る。
「……かはっ」
出てきたのは、乾いた咳のような嘔吐。前屈姿勢のまま顔を上げると東雲 暁は眼鏡の奥の黒い瞳を細め、そして――。
「蝶は見えたかい?」
いかにも物知り顔でそう言った。
「……っ、蝶?」
顔を歪めて呼吸を整え、這うような視線を送る。よぎったのは先刻の記憶。
「昔よく話してたろう?」
彼はそう言い、思い出すように笑う。そして淡々と語るのだった。
――彼曰く。本来、クローニングされた個体の寿命は基本的に短く、また同時に先天的疾患も少なくはない。
「正確には、特別なクローンのクローン……かな」
「突然変異?」
落ち着きを取り戻した瞬矢は、眼前の人物から発せられた言葉に眉根を寄せ訝る。
そう。ある時ひとつの個体に起こった突然変異によってその根本を覆す……いや、それ以上の結果を叩き出したのだ。
変異した遺伝子は短命でも疾患がある訳でもなく、それどころかあの日彼が語った蝶の話のような共有や共鳴といった力を得るに至った。
そこで東雲 暁たち研究者は、ある手段をとる。それが【特別な複製】の複製。
その結果として生み出されたのが、瞬矢たち複製だった。
個体の複製、そう考えれば死んだはずの人物が目の前にいることも全てにおいて合点がいく。
だが、強すぎる力は時として脅威となる。行なわれた能力の強制的な抑制、その過程でどうしても必要だったのが――。
「これだよ。
スーツのポケットからあの水色の薬品が入った、栓つきの試験管を取り出し眼前に掲げる。
「やっぱり、あんたが……」
以前、路地裏で【影の命】と呼ばれる水色の薬品を射った人物は、やはり東雲 暁だった。
「どうして居場所が分かった?」
瞬矢の問いかけに、彼は薬品をもとの場所に仕舞いながら答える。
「君のナンバーが刻まれた腕輪、まだ持っているんだろう? その中には居場所を特定できる発信装置が組み込まれてる」
コートの左ポケットを探り、指先にひやりと当たったそれを取り出す。
だが半年以上前、東雲 暁が初めて現れた時、瞬矢はまだこれを見つけてはいなかった。特殊機関でもない限り、正確な居場所の特定は難しい。今までに直接的な接触がないことから、その線は薄いだろう。だとすれば可能性はひとつ。
「装置は、これだけじゃないんだろ?」
手の中の腕輪から東雲 暁へと目線を移し、浮上した推測を確かめるような口調で投げかける。
すると彼はご明答とばかりに組んでいた両手の右だけを下ろし、左手は顎にあてたまま言った。形のよい三日月の笑みを貼り付けながら。
「ご明察。もうひとつ君の体の中に埋め込まれてるよ。勿論、彼にもね」
すうっと前へ伸ばした3本の指で瞬矢を指し示す。そして伸ばした左手を引くと、今度は「ほらこのとおり」と掌サイズの端末画面を見せる。
そこには、文字と共に現在位置を示す赤い点が一定間隔で点滅を繰り返していた。
左右の体に目を配り、見えるはずのないそれを確認する。――と同時に、瞬矢の心の内に沸々と沸き上がる、ある感情。
怒り、そして憤り――。
「どうして……どうして、分かった時やめようとしなかった!?」
とめどなく沸き上がる感情を露に、1歩右足を前に踏み出す。
もしも刹那が……『弟』が全てを知っているとすれば、その時彼は心にいったいどれだけの痛みを覚えただろう。元凶となる人物を捉える視界が霞む。
「やめようと思ったさ」そう呟く俯き加減な表情は、わずかに陰りを示す。
「まだ9歳だったんだ。生かしてやりたかった……どんな手段を使っても……」
踏み出した右足をゆっくりと引く。
「…………」
自分自身に置き換えてみた時、彼の考えを完全に否定できるかといえば答えは『否』だったからだ。
地下への入り口から階段を通り部屋続きに冷たく吹き込む風が、頭の天辺にまで昇った血をそろそろと冷ましてゆく。
「……それでも、俺たちさえいなければ茜は……」
そう。自分たちの存在さえなければ、今回のような事件は起こらなかったはずだ。茜も、悲しい思いや辛い思いのひとつもしなくてすんだだろう。
憤りと自己嫌悪。再び込み上げる感情に歯噛みし、両手を強く握り拳を作った。自分ではなく、他者を想って。
「君は茜に会えて嬉しくなかったかい?」
相変わらず物腰柔らかな口調で話す彼の一言に、瞬矢ははっと目を見開く。
「それはっ……!」
だが、即座に否定できず押し黙ってしまう。動揺で伏せた瞳は答えを探し宙を游ぐ。
記憶にある彼女と時を経て再び出会った彼女。いいことばかりではなかったが、確かにその全てが瞬矢にとって光だった。
「どうやら、君を斎藤家に引き渡したのは正解だったようだね」
ふっと口元に笑みを浮かべ、東雲 暁は表情を確かめるかの如く見上げる。その言葉が、笑顔が何を意味するのかなど今の瞬矢には到底理解し得なかった。
だが先ほどの話から、どうも彼の本意でなかったように思える。『――の依頼で』ふとよぎったその言葉を思い出し、思い切って訊ねてみた。
「俺たちを造り出すよう依頼したのは、誰だ?」
「それは……」
眼前の彼が視線を逸らし言葉を濁しながらも答えようとした時、瞬矢の携帯電話が鳴る。
「!」
壁に反響し、けたたましく鳴る携帯をポケットから取り出して着信を見ると、それは茜の携帯からだった。通話ボタンを押し耳にあてる。
「……茜?」
『…………』
だが、電話の主は何も言ってはこない。……流れるしばしの沈黙。やがて、電話の向こうの声はくすりと笑う。
『久しぶりだね』
静かにはっきりとそう言った男の声に、ぞくり、背筋が凍りつく。明らかに茜のものではない、低くけれどもどこか中性的で、だが聞き覚えのあるその声は紛れもなく――。
「刹那!?」
瞬矢が声を飛ばしたのとほぼ同時、彼は携帯越しにくすくすと笑みを漏らす。
「茜……、茜はどうした!?」
思わず携帯の通話口に向かって噛みつく。
『……。君がいけないんだよ』
「!?」
一瞬黙り込んだ後、ぽつりとごちた彼はきっと、電話の向こうであの三日月のような笑みを浮かべているのだろう。
通話がぷつりと切れ、同時にひとつの画像が送られてくる。添付ファイルを開くとそこには、薄暗い部屋の片隅で白いベッドに横たわる赤いコートを着た茜の姿が写されていた。
送られてきたのは静止画像だった為、ただ眠っているだけなのか無事なのかそれすらも分からない。瞬矢の胸中を言い知れぬ不安がよぎり、早まる鼓動。再び携帯の呼び出し音が鳴る。
『彼女を返してほしいならさ、ここまで来なよ?』
電話口の向こうでくつくつと笑いながら、瞬矢の反応を楽しむかの如く語る刹那。
「待ってるよ」最後にそう言い残し、ぷつりと通話は途切れた。後はただ、通話終了の機械的な音が虚しく響くばかり。
瞬矢はその場に佇み携帯電話に視線を落とし、しばらくそれを聞いていた。だがやがて終話ボタンを押し、東雲 暁の方に向き訊ねる。
「あいつはなぜ、こんなことを?」
「それは、君の方が分かってるんじゃないか?」
「俺が……?」
(俺がもし、あいつだったら――)
自身を刹那に置き換え、彼のとった行動の意図を考察するも、茜の安否を気にかけるあまりよい考えが浮かぶことはなく、焦燥感たっぷりな面持ちで歩幅を広めに踵を返す。
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