雪の降る夜

 

 1



 ――ある日の午後。


 窓のない薄暗く長い廊下を1人の少年は歩いていた。きっと屋敷の中なのだろうが、自分が今どの辺りにいるのかすら分からない。


(ここはどこだろう……?)


 全ては、左手首に嵌められた銀色の腕輪が生み出した偶然。


 所々が伸び目にかかるほどの黒髪を躍らせ、少年は壁伝いに歩き続ける。

 ふと眼前に、半開きとなっている木製のドアが視界に留まった。

 少年と外界とを遮るように立ちはだかるドアの隙間からは、明るく光が差し込む。


(……まぶしいなぁ)


 ドアの向こうから差し込む光のまばゆさに、少年は目を細める。ひとつだけ開いた窓から吹き込む風に、ふわり、カーテンレースが舞う。


「……だれ?」


 部屋の奥から、小鳥がさえずるかの如き少女の声が響く。


「……っ!」


 少年の小さな胸の鼓動が、高らかに脈打つ。

 誰かに見つかったことへの緊迫感、それもあった。

 だがそれ以上に部屋の奥から聞こえた少女の鈴の音のように澄んだ声が、少年の興味を掻き立てたのだ。


 恐る恐るドアの隙間から中の様子を覗き込む。だが、声の主である少女の姿は窺えない。

 なかなか自分から姿を見せることができず、廊下の壁に身を潜めていると、


「こっちおいでよ」


 実に明朗な声で少女は言った。緊張と好奇心の間で、少年は木製のドアに手をかけゆっくりと開ける。



      **



 ――20XX年 12月8日。


 午後8時40分。闇夜を照らす街灯、車のクラクション、喧騒鳴りやまぬ街の片隅を瞬矢は歩いていた。

 黒いコートを羽織り首に深緑色のマフラーを巻いた彼は、取り巻く喧騒をよそに感慨に耽る。

 12月に入り、吹き抜ける風もいつの間にやらひんやりとしたものに変わっていた。


 今朝方、妙な夢を見た。それはなんの脈絡もなく、けれどもどこか懐かしい夢。


「はぁ……」


 暗闇を湛えた空を見上げ吐き出した息は白く、空気は肌を刺すように冷たい。

 ――これは雪が降りそうだ。瞬矢は1人そんなことを考えながらマフラーに口元を埋め、肩を竦める。


 ふと眼前。暗闇を煌々と照らすコンビニの明かりに誘われるかの如く、歩みは自然と早足となる。

 自動ドアをくぐると軽快な音楽が出迎える。

 店内を照らす蛍光灯は外の闇夜と対照的で、むしろ眩しいくらいに思えた。


 時間帯もあってか、店内に客は瞬矢を含めて2、3人しかいない。

 冷気漂う陳列棚からアイスを適当に取り、レジへと向かう。


「……っ!」


「えっ」


 偶然にも、そこにいたのは……茜だった。

 彼女は、肩までの茶色い髪の毛を後ろでひとつに括っていた。その為、いつもと雰囲気が違っていたので気づかなかったのだ。


 一瞬視線が合い、両者共々に目を見開く。

 2人の間にしばしの沈黙を生み出す。沈黙を打ち破り、先に口火を切ったのは茜。


「アイス温めますか?」


 にっこりと笑みを崩さない。実に見事な営業スマイルだ。


「……お前、それ嫌がらせか?」


 もしもそんなことをしたら、折角のアイスが訳の分からない物体になってしまう。否、温めていいはずがない。


「まさか」


 続けて「冗談だって」とアイスをビニール袋に詰めながら、くすりと笑う。

 軽く嘲笑を浮かべた瞬矢は清算を済ませ、いつあがれるか訊ねる。


「んー、ちょっと待ってて」


 茜は少し考え背後の時計を見るとそう言い残し、小走りで奥へと消えていった。



 2



 休憩室のロッカーからジャンパーを取り出した茜は、ふとその手を止める。

 そう、思い出したのだ。大好きだった、忘れないと約束した『その子』の名前。

 きっかけは、今朝見た記憶にも近しい夢。


 ――それは12月上旬、遅めの初雪がちらついていた時のこと。


「りく、ずっといっしょだよ?」


 転んで足を挫いた少女は黒髪の少年『りく』の背中におぶさり、嬉しそうに頬を赤らめ言う。

 すぐ右側には、クリーム色の外壁が聳えていた。


(ああ、そうだ『りく』思い出した。でも……)


 茜の中で、幼い頃の自分と今の自分の感情が交錯する。

 頬に落ちては溶ける雪の冷たさが【不安】という一文字に変わり、少女の胸を締めつける。


「ねぇ、りく――」


 少女の不安をくみ取ってか、りくは「大丈夫」そう言い笑ってみせる。

 それが、少女とりくが交わした最後の言葉だった。

 それからしばらくの後、屋敷で大きな火事があった。

 今から10年前の夜のこと。助かったのは、自分と両親を含めて計8名。


 ――屋敷を包む赤い炎を見つめ、視界が暗転する。


 周りには沢山の大人。誰かが頬に触れて、彼の死を告げた。

 人物の襟元で金色のピンバッジが光る。


「りくは、死んだ……」


 訥々とつとつと何かを読み上げるかのような口調で少女は呟く。

 うつろな少女の両目から涙が溢れ頬を伝う。

 次第に遠のいてゆく意識に抗うかのように、少女は心の中で何度も何度もその言葉を復唱した。


(忘れない……、忘れないよ。……りく)


 目が覚めた時どうしようもない悲しみが襲い、布団の中で小さくうずくまり肩を震わせ感情の溢れ出るままに涙を流す。

 まるでさっき見た夢の続きのような、そんな気分だった。


 ――そして現在。時間にしておよそ1分にも満たないほどの回顧。


「……なんで、忘れてたんだろ」


 ずっと記憶の片隅に面影だけを残していた少年『りく』。ようやく名前を思い出せた彼は、すでに死んでいた。


 過去の淡い記憶ともう会えない切なさが織り交わり、今一度深い溜め息をつく。

 同時に瞬矢の存在を思い出し、気持ちを切り替えるべく横にかぶりを振った。

 そして手に取ったままのジャンパーを羽織り、足早にこじんまりとした休憩室を後にする。


 外へ出ると、空気は刺すように冷たく身震いを起こす。

 雪が降るかもしれない――ふと、そんな考えがよぎる。

 瞬矢は、入り口の向かって右端にある喫煙スペースで煙草をくゆらせていた。その姿は何かしら思慮に耽っているよう。

 自動ドアの開閉する音で瞬矢は茜の存在に気づく。そして備え付けの灰皿に灰を落とし、視線を送りながら「悪いな」と軽く笑む。


「いいよ。で、何?」


 そう言い、備え付けの灰皿を挟んで隣に立つと瞬矢は切り出す。


「実は――」


 先日病院で面会者欄に『東雲 刹那』という名前が書かれていたことを伝え、一旦そこで言葉を切る。

 そして、瞬矢は考えるように伏せた視線を游がせ「それで――」と続けた。


「前の日に屋敷の裏側で墓石を見つけて、そこには『東雲 刹那』って彫ってあった。だからたぶん、その……」


 選ぶように紡がれた言葉は、やがて喉の奥で答えを詰まらせる。

  きっと、その先を言っていいものか迷ったに違いない。

 だが瞬矢の言葉に茜はさして驚嘆を覚えなかった。それも全ては、今朝見た夢のせいなのだろう。


「……そうなんだ」


 俯きがちに口角をつり上げ返す。


「あんまり、驚かないんだな」


 意外――とでも言わんばかりの瞬矢の口調に、茜はひとつ小さく、だが確かに頷き言った。


「夢を見てさ、思い出したんだ。りくって呼んでたその子を本当の兄妹のように思ってた。もう死んじゃってたんだけどね」


(けれど――)


 茜の心の中に湧き出たひとつの思い。喉元まで出かけた言葉の続きをぐっと呑み込んだ。

 瞬矢は「そっか」と天を仰ぐ。わずかに開いた口から漏れ出た息が、ほんの一時だけ大気を白く染めた。


「もしかしたら、墓石のそいつがその『りく』って奴だったのかもな」


「……うん」


 顎を引いてさっきよりも俯き、弱々しい肯定と共に小さく息を吐く。

 正直なところ、どこまでが夢で何が真実なのか分からない。

 ただ『りく』という名前の少年、その存在が夢幻でないということだけを茜は密やかに実感するのだった。


 肌を撫でる空気は相変わらず冷たく何が変わる訳でもなかったが、なぜだか1人よりも温かく思えた。

 ちらりと横目で瞬矢の方を見やる。左手には先ほどのアイスが入ったビニール袋。


「そういえばさ……」


 それはふとした疑問だった。


「ん?」


 振り向きざま、瞬矢は妙に間の抜けた声で返す。

 斜め後ろから差す光が、彼の鼻筋にかけて陰影を作る。

 そのやけに蠱惑的な瞬矢の表情に茜は思わず視線を逸らし、言いかけていた言葉を続けた。


「いや、なんでアイスなのかな……って」


 遠慮がちな茜の問いかけに瞬矢は自らの左手に握らせたビニール袋へ視線を落とす。


「ああ、これか」


 そう言いわずかに左手を持ち上げてみせる。その際、アイスの入ったビニール袋が小さくかさっと鳴った。

 ビニール袋から視線を逸らし、俯きがちに「そうだな……」とぽつり呟くと思い出すように考え、そして顔を上げ答える。


「昔、まだあの屋敷の研究施設に実験体としていた時にさ――」


 きっと明かりに照らされていなければ、それは周りのもの全てを飲み込むほどの闇を湛えるだろう。

 重く暗い夜空を仰ぎ見た瞬矢の口より語られたのは、当事者であった人間以外、恐らく誰も知らないであろう真実。


 屋敷の地下の研究施設で決まった時間、定期的に与えられる食事。

 番号をふられ、閉じ込められ、まるでケージに入れられた実験用の白いマウスのように。

 そんな彼らに与えられたのは、ステンレスの器に盛られた溶けかけのアイスのような、シャーベットのような流動食。

 温もりを――心を感じない冷えたそれを、瞬矢たちはそこで与えられる唯一の食べ物と認識していた。


 ただ苦痛の中、冷たいながらも口内にほんのりと甘味を与えるそれが、感覚というものが、彼らに善くも悪しくも自身の存在を実感させてくれていた。

 彼が初めてそれ以外の温もりある食事を見たのは、斎藤家に迎えられてから。

 その時のことは、今でも彼の中によき思い出として残っているのではなかろうか。


 茜は言葉を失い目を見開き、ただただ瞬矢を見上げ、彼の話を聞いていた。

 一通り話し終えた瞬矢は、再び何かを思い出したかのようにくすりと笑う。


「どうしたの?」


 いったい何が可笑しいのかと小首を傾げ茜は訊ねる。すると瞬矢は、少しばかり俯き目を細め答えた。


「……いや、初めて斎藤の家に来た時お袋がさ、言ったんだ」


 そして当時を懐かしむような口調で、更に言葉を続ける。


「テーブルの上の料理をずっと見てた俺に『眺めててもお腹膨れないでしょ』って、呆れ顔で。それ思い出してさ」


 確かにそのとおりだと、茜もつられてくしゃりと笑う。

 瞬矢曰く、いまだにその頃の習慣が抜けず、あると落ち着くのだそうだ。

 安定剤のようなもの――瞬矢の話を、茜はそう解釈した。

 2人の間に漂う一時の静寂。


「でも――」


 その静寂を打ち破り、瞬矢が切り出す。


「なんであいつがあの名前を使ったのかは分からないけど、今までどうしてたのかな……って」


 「心から分かち合えるような奴、あいつにはいたのかな」息を吐き、そう言った瞬矢の表情は窺い知れない。

 だが瞬矢もまた、少なからず同じことを思っていたようだ。


「思うんだ。真実に近づく度、周りが何も見えなくなって、いつかそのまま見失っちまうんじゃないかって」


 それを聞いた茜は宙に視線を漂わせながらしばし一考に耽り、やがて自分なりの回答を導き出す。


「例え見失っても、自分の中にあるもの……目的っていうのかな? それだけは見失っちゃいけないと思うから」


 ゆっくりと振り向いた瞬矢は、紺色を帯びた両目をいっぱいに見開く。深い黒水晶のような瞳と視線がかち合う。


「な、何?」


 心臓が大きく一度だけ高鳴る。何か変なことを言っただろうかと、動揺を押し隠し茜は訊ねた。


「いや、別に。ただ……」


 瞬矢は合わせていた視線を逸らし、口元にわずかな笑みを湛え寒空を振り仰いだ。


「ずっと昔、誰かに同じようなこと言われた気がして」


 ちらりと横目で見やった後、今度はくしゃりと悪戯っぽく笑い、こう続ける。


「もしかしたら、あの屋敷で会ってたりしてな」


 まさか、そう思いながらも茜はそのことを否定できずにいた。

 なぜならば2人共、同じ時期に同じ場所にいたのだから、あながちあり得ない話ではない。


「しかし、おかしな話だよな」


 やおら切り出された彼の言葉に、いったい何がだろうと、茜はくりくりとした茶色い目を更に丸くしてきょとんと小首を傾げた。

 それを見て瞬矢は、口の端を緩ませふっと笑い「だってそうだろう」と天を仰ぐ。


「俺もお前も、一番思い出したい肝心なところは綺麗さっぱり忘れちまってる」


 言われてみれば、確かにその子の名前も、その子が死んだことも今の今まですっかり忘れていた。

 つられるように、茜は今にも雪が降りだしそうな暗く重たい天を仰ぎ見る。


 全てを思い出せた訳ではない。

 2人の記憶をどんなに足し合わせても、明らかに足りないパズルのピース。

 だが茜は思う。欠けた記憶の先、そこに真実があるのだろうと。


 漆黒に塗り潰された空から降り始めたいくつもの小さな白い粒は、街の明かりに照らされ花びらのように舞う。


「……あ、雪。降ってきたね」


 夜空に寒さを誇張させる雪の結晶がちらつき、頬を撫でては溶け消えていった。

 ふわり、温かい何かが首にかかり襟の隙間を埋めるように冷えた大気を遮る。

 にべもなく首に巻かれたそれは、つい先ほどまで瞬矢が身につけていた深緑色のマフラーだった。


「――!」


 茜は、目を丸くし瞬矢を見上げた。


「じゃ、風邪ひくなよ」


 ぷいと背を向け右手をあげる。愛想のない言葉を残し、雪がそぼ降る夜の街並みに消えていった。


(相変わらずなんだから……)


 内心悪態をつくも表情は綻びにわかに頬を染め、くすりと笑んだ。


 茜はその口元を覆い隠すように巻かれた深緑色のマフラーを両手で押さえ、笑みはそのままに俯き顔半分を埋める。

 それは、予期せず与えられた彼の不器用でぶっきらぼうな優しさを確かめるかのように。

 まだ温もり残るマフラーからは、下ろしたての洗剤の香りと共にわずかに煙草の匂いがした。


 

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