怪物の涙

 

 1



 ――20XX年 10月22日。


 午前9時05分。山中の道路沿いにある土の中から、男性の遺体が発見された。

 発見者は山裾に居を構える近隣住民。

 本来この区域は香緒里たちの管轄外だったのだが、事件性がある為に動員され、現場検証に立ち会う。

 立ち入り禁止の黄色いテープ――所謂いわゆる『非常線』というやつをくぐり、ブルーシートの奥へと歩を進める。

 独特の焼け焦げた臭いが鼻腔を突き刺す。

 見たところ遺体の顔から肩の辺りまでは焼けただれ、人物の特定が非常に困難である。

 分かることといえば、顔と頸部以外に目立った外傷はなく、ただ入院患者服を身につけていたことくらいだ。


「殺し……ですか」


 現場を見た香緒里は、飲み込み違えた薬が喉の奥で引っかかるような奇妙な違和感を覚えた。

 もともと人通りが少ないとはいえ、なぜこのような人目につき易い場所へ遺棄したのか。

 しかも遺体は仰向けに寝かされ、胸の上で両手を組まれていた。

 本当に発見を遅らせたいのであれば、少しでも人目につかない山林の奥へ遺棄するはずだ。


「――! これは?」


 香緒里が着目したのは、被害者男性が着ている青い患者服の襟元についた小さな円形の染み。


(染み……いったいなんの?)


 その染みを目にした時から、香緒里の中で生じた違和感はますます膨れ上がり、自然と訝る。

 だがじっと見たところで何か分かる訳もなく、ひとまず付着した染みの分析結果を待つことにした。


 ――翌日、午後1時20分。捜査本部の置かれた一室。香緒里は自分のデスクでここ数ヵ月を振り返る。

 この【S】に関わる事件はまだ終わっていないんじゃないか、心のどこかでそんな気がしていた。

 だが、そんな香緒里の思考を一瞬にして打ち消したのは、勢いよく部屋のドアを開けその後飛び込んできた山田の一声だった。


「染みの分析結果が出ました!」


 それを聞き、香緒里はガタリと荒々しく椅子から立ち上がる。


「っ、どうだったの!?」


 デスクから身を乗り出し、入り口に立つ山田のもとへ向かい訊ねた。

 ところが山田は、一旦持っていた染みの分析結果が記された紙に目を落とし冴えない様子。


「それが――」


 初めは意気揚々、血気盛んに駆け込んできた山田だったが、結果を訊かれ視線を逸らしながら半目し、妙に言葉を濁す。


「――っ、貸して!」


 なかなか内容を言わない山田に、焦れた香緒里は分析結果が書かれた紙を横取りひとしきり目を通す。

 だがすぐさま、その内容に眉をひそめ呟く。


「これって……」


 そこには合成繊維の他にごく微量ながらアルブミン、グログリン、リゾチームなどの蛋白たんぱく質、加えてリン酸塩などが検出されたことが記されていた。

 その結果が示すもの。それは――。


「……涙?」


 訝しげに答えを導きだす。


「涙……ですか」


 山田は改めて分析結果を覗いて「なるほど」と納得するかの如き口調で繰り返した。


 知ってのとおり涙の原料となっているのは血液であり、体外に排出される過程で弱いアルカリ性を帯びたあのしょっぱい無色透明な水へと変わる。


「!?」


 しかもその涙が被害者の遺伝子情報と一致したというのだ。

 勿論、それが被害者のものという可能性も十分あったが、やはり引っかかるのは遺体の状況。

 考察する香緒里だったが、思い出したかのようにはたと顔を上げ訊ねる。


「被害者の身元の特定は?」


 山田は首を横に振り、ひとつ溜め息をつく。


「まだかかるみたいです」


 香緒里は「そう」とだけ返し、するりと山田の傍らを通り廊下に出る為ドアをくぐる。

 香緒里の言動に、山田は「どこ行くんですか」と小走りで後を追う。


「もう一度、【S】の事件を洗い直すのよ」


 一段と声を落とし、辺りを確認しながら答えた。それを聞いた山田は足取りを鈍らせ躊躇いの色を窺わせる。


「その事件の捜査はすでに終了したはずじゃ……」


 確かに山田が言ったとおり櫻井 陸の自首、そして自殺という形で事実上捜査は終了した。

 捜査終了、それはつまるところ、この事件の幕引きを意味している。


(でも上はあれだけの証拠がありながら、なぜ彼を?)


 答えの出ない一方通行な思考ばかりが脳内を巡る。それはいつしか、山中で遺体を見た時の違和感へと繋がった。


「ええ。けど、変だと思わない?」


 香緒里の問いかけに最初こそ冷静だった山田の口調。

 だが、すぐさまその意図を理解して焦燥にかられる。


「確かにおかしいとは……。――! だからって、勝手に事件をほじくり返すのはマズいですって!」


 それを聞いた香緒里はぴたりと立ち止まり、山田に鋭い視線を向ける。

 きびすを返し詰め寄るその視線は、両目に映る真実全てを捉えているようでもあった。


「山田、覚えとけ! 隠されていい真実なんて存在しないの!」


 静かに、だがはっきりと言い放つそれは、山田に――というよりはむしろ香緒里が自身に言い聞かせているようにも見てとれた。

 まだ宝探しは終わっていない。

 再び歩き出す香緒里の胸中に、過去のある想いがよぎる。


(そうよ。10年前のようなことがあっちゃいけない――)


 10年前、香緒里の父は現職の警察官だった。

 そう、『だった』。1年も終わりに差し掛かろうとする12月の末までは。

 見通しのよい十字路で起きた不慮の事故、それが遺された香緒里たち家族に突きつけられた父の死因。

 だが【事故】の一言で片付けられた父の死因は、香緒里にとっても到底納得できるものではなく……。


 ふいっと山田から視線を逸らし、ナチュラルブラウンの長い髪をさらりと宙に躍らせながら前へ向き直る。

 当時のことを思い出し、悔恨の気持ちを隠すべく廊下の先を見据えたまま下唇をぎゅっと噛むのだった。



      **



 天に向かいそびえるビルに囲まれ、見上げた狭い空には秋晴れが広がる。

 まずは第2の事件、六野の殺害現場となった河川敷周辺からあたることにした。


 現場を目撃した者はわずかであったが、皆、口を揃えて写真の人物――つまり斎藤 瞬矢を見たというのだ。

 そう、櫻井 陸ではなく。

 ここへきて、香緒里の疑問はさらに増す。


 兎にも角にも、現場周辺の監視カメラの映像を調べ上げることにした。

 映されたのは、すぐ前にある歩道の映像。

 その日はちょうど火事があり、夕闇の通りを映す画面は煙に霞む。その中に黒髪の青年の姿が見受けられた。


「そんな、まさか……!」


 驚嘆の声を上げる香緒里が目にしたそれは、実に不可解。

 というのも、映し出されている映像の時刻がちょうど六野の殺害時刻と重なるからだ。

 そしてそこには件の人物、斎藤 瞬矢が映っていた。


(ありえない……!)


 同一人物が殺害時刻と全く同時刻に、別の場所へ姿を見せるなど。

 いったいどういうことなのか。

 再び彼に接触しようと香緒里が踵を返した時、背後で山田の携帯電話が鳴り、振り返ると同時に足を止める。

 慎重に受け答えする山田の様子から、どうやら被害者の身元が分かったようだ。


「誰だったの?」


 すると山田は、一度画面に映し出された監視カメラの録画映像を見やると辺りに誰もいないことを確認し、片手で口を隠しながらこそりと答えた。


「実は――」


 場をはばかりながら話す被害者の氏名に、香緒里は思わず言葉をなくす。

 知らされたその人物の名前は『斎藤 瞬矢』。


 香緒里は一瞬我が耳を疑った。

 しかし遺伝子情報だけでなく指紋までもが彼のものと一致したのなら、科学的根拠においてもほぼ間違いないのだろう。

 ……だが、この拭い去れない違和感はなんなのか。


 言い知れぬ、心にかかったもやのような晴れない感覚が香緒里を襲う。


 だが香緒里のもとに上司から連絡があり、違和感を抱えたまま一度署の方へ戻ることにした。

 そして言い渡されたのは、香緒里にとって最悪ともいえる上からの通達であった。


 ――午後3時50分。真実を前にしてなかなか手が出せない歯痒さに、親指を唇へ押し当てほぞを噛む。

 ふと顔を上げた時、目の前の通りを歩く1人の人物に香緒里は立ちすくみ瞼をしばたたかせる。


「どういうこと?」


 それは、一度目にしたならば忘れるはずがない。

 すらりとした身の丈に艶やかな黒髪、整い過ぎた容貌――。

 すると人物はぴたりと立ち止まり、やおら顔を上げた。


「!」


 香緒里に気づき、長めの黒髪の間からきょとんとした視線を送る。

 確実に目が合ったその人物は、紛れもなく『斎藤 瞬矢』本人だった。

 まるで亡霊でも見ているような気分に陥ったが、よい機会と香緒里は軽く会釈をする。



 2



 同日、午後2時20分――。


 瞬矢は残る1人が誰なのかを、パソコンに取り込んだデータを開き確認する。

 あの時は気づけなかった何かを見落としてはいないか――。


 しかし、当時のことを覚えていないとはいえ、自分自身が実験台にされる映像は何度見ても気分がよいものではない。

 眉をひそめながら度々映像を見返しているうちに、瞬矢はふとあることに気づく。


「なんだ?」


 場面は少年が薬品を射たれ、全ての物を弾いた時。

 ほんの一瞬だが映った名も知れぬ男のネームプレート。

 それは、注意していなければ見落としてしまいそうなほどわずかなもの。

 瞬矢がそれを見つけたのは偶然だったのかもしれない。

 画面へ顔を近づけ、ネームプレートにローマ字で書かれた名前を目を細め辿々しく読み上げる。


「ニイダ……タケル」


 ネームプレートには漢字表記もされていたが、生憎映像がぶれている上に画質も粗く、ローマ字を読み取るのがやっとであった。

 だがどうやら、茜の父親と殺された3人の他にいたもう1人の男の名前は『ニイダ タケル』というらしい。


(『ニイダ』……、どこかで聞いたような……)


 それは近からずも遠からず、少なくともここ数ヵ月間でのこと。

 そこで瞬矢は、過去の、特に10年前のスクラップ記事を棚から引っ張り出す。

 だがそこには『ニイダ タケル』という名前など見当たらず、代わりにひとつの記事が目を引く。

 それは小さな記事で、気をつけていなければ見逃してしまうほどのものだった。


『12月26日、見通しのよい十字路で男性が車に跳ねられ死亡。被害者の名前は新田にった たける40歳』


 記事の隅に小さく載っていた新田 健の写真。

 左頬にある2センチメートル四方の湾曲した菱形の痣を、瞬矢はどこかで見た気がした。

 何かに駆り立てられるように、再びパソコンで実験映像を再生し見直す。


「――やっぱり」


 先ほど名前を確認した『ニイダ』という男の左頬に、同じような菱形の痣が見受けられたのだ。

 もしやと思い、もう必要ないだろうと思っていた製薬会社の名簿を、机に仕舞ってあったファイルの中から探り出した。

 そのまま椅子に腰かけ、ゆっくり目を通す。


「……いた」


 ――『仁井田 健』。


 もしこの新田という男が偽名を使い『仁井田』と名乗っていたとすれば……。

 再び記事の内容に目を通す。


『遺された妻と15歳の娘は、事故の原因究明を訴え――』


 そこまで読み、ふいっと記事から目線を床に逸らした。


(確か、あの刑事も『新田』とかいう名前だったな)


 そこで瞬矢の脳裏にあるひとつの可能性がよぎるのだが、それはあまりにも突飛で荒唐無稽な話と言われてもおかしくないだろう。


 そもそも『新田』などという姓は、他にいくらでもいる。

 だがしかし、だ。ならばあの菱形の痣はどう説明するのか。

 もしそうだとしても下手をすれば、相手の古傷をえぐるようなことになりかねない。

 この映像に映っている男が彼女の身内か否か、気になりはしたが今しばし考えるのをやめ、少し外の空気を吸うことにした。


 ――午後3時50分。

 ふらりと出かけた帰り道、ふと顔を上げると眼前に件の刑事、新田 香緒里の姿があった。

 だが眼前の彼女は、まるで幽霊とでも遭遇したかの如き表情で雑踏の中、呆然と見つめているではないか。

 瞬矢は、なぜ彼女がそのような表情をしているのか分からず、ただきょとんと通りの先の彼女を見返すばかり。


「やっぱり、生きてたのね」


 それが軽く会釈をし、すぐ傍まで歩み寄ってきた彼女の発した第一声であった。



      **



 黄昏時、すでに日は傾き始めていた。


「あの事件ならもう終いがついたはずだろ?」


 部屋に入ると振り返りもって香緒里を見やり、瞬矢は問う。


「ええ、残念ながらね。でも代わりに訊きたいことが」


 入り口の壁に凭れた香緒里は皮肉めいた台詞で口元をつり上げると、そう言葉を続けた。

 顔を背けた状態でその言葉を耳にした瞬矢は、くすりと一笑に伏す。


「へぇ、奇遇だな。ちょうど俺も訊きたいことがあったんだ」


 部屋の中ほどまで歩きながら同じく皮肉混じりに答え、ソファに腰かける。


「あんたの父親――」


 改めて深めに座り直し訊ねる。


新田にった たけるっていうんじゃないか? 10年前、事故で死んだ」


 言いかけた時、明らかに香緒里の表情が一変する。

 それまでは、険しさの中にもどこか温かみのある眼差しだった。

 だが『新田 健』の名前を出した途端、彼女は眉をひそめ瞳の奥で揺らいでいた温かみある光はどこぞへと消え去る。


「随分、立ち入ったことを訊くのね」


 だがしかし、一度は疑いを向けてしまったという負い目もあってか香緒里はひとつ重たい溜め息をつき、俯いたままゆっくりと話し始める。


「確かに、新田 健は私の父親よ」


 半目するその表情は、どこか遠く、まるで過去を見つめているかのようであった。


「後で分かったことなんだけど、当時、父は公安の命令である任務についていた。それがどんなものなのかは、分からず終いだったけど……」


 彼女の父親が上からどのような命令を受けていたかは、恐らく極秘事項。ならば、当時のことを知る者などまずいないだろう。


「でも私は、父が事故死したなんて思ってない」


 その言葉からも、彼女が父親の死の真相究明を諦めていないことが分かる。


「だから、私は何があっても真実を追求し白日のもとに晒すこと」


 そう力強く断言した香緒里は、自らの胸の前で右手を握りしめる。

 窓から差す西日が部屋を、そして全ての物をオレンジ色に染め上げた。

 やはり『新田 健』と『仁井田 健』は同一人物。

 すると、瞬矢の考察のうちひとつは的中したことになる。――となれば、ここからが本題だ。


「例えそれがどんな真実でも、か?」


 瞬矢はパソコンに一瞥をくれ、再び香緒里を見上げ問う。


「勿論よ」


 香緒里はその問いに間髪入れず、きっぱりと言葉を返す。予想どおりの反応だった。

 更には「それが父の、そして私の信念だから」とまで続ける。

 その目には、確固たる決意のようなものが窺えた。すかさず瞬矢は切り出す。


「もし、俺があんたの知りたい真実ってやつの手がかりを持っていたとしたら?」


「それ、どういう……!?」


 今まで一貫して表情を崩さず壁に凭れていた彼女が、初めて身を乗り出してきた。

 かかったとばかりに口角をわずかにつり上げ、紺色の光彩を帯びた黒い瞳の奥に獲物を狙うかの如き鋭利な光をちらつかせ言う。


「教えてもいいが、こっちの要求も幾つか聞いて貰いたい」


 彼女は顎に手をあて、しばし考えた後に「分かったわ」と頷く。

 瞬矢は尚も香緒里を見上げる形で、まずは先ほどから気になっていた疑問を投げかける。


「その前に、だ。あんたがさっき言っていた『やっぱり生きてた』ってどういう意味だ? まるで……」


 言わんとした言葉を察し香緒里は郊外の山中で遺体が発見されたこと。

 その身元を調べた結果、遺伝子情報や指紋などが瞬矢とほぼ一致したことを話す。


「なるほど。それでさっきあんな顔してたのか」


 右手で口元を軽く覆い、妙に納得した面持ちで相槌をうつ。


「しかし、俺にこんなこと話していいのか?」


 だが次いで香緒里の口から発せられたのは、瞬矢にとっても意外な言葉だった。


「捜査からは、外されたわ」


 再び腕組みをし瞑目した香緒里は、口の端から小さくふ……と息を漏らすと半ば自嘲気味にそう話す。


「それに、私は彼らのやり方に納得してない」


 今までの自嘲気味な笑みから一転、彼女の表情は炯炯けいけいとした遠くを睨めつけるものへと変わり、胸の前で組まれていた両手にはぎゅうと力が籠る。


「でもあなたが生きてたとなると、あれは誰なのかしら……?」


 自分と遺伝子情報がほぼ一致する人物、瞬矢にはひとつの名前しか思いつかなかった。

 そして、瞬矢に代わりその答えを出したのは――。


「あなたの双子の弟……、確か『刹那』って言ってたわね?」


 突如、香緒里の口をついて出た、弟『刹那』の名前。

 今までから一転して、刹那の存在を認める発言。

 彼女もまた自分と同じことを考えていたという事実に、瞬矢は目を細める。


「ああ。なんだ、散々疑っといてやっと信じる気になったのか」


 含み笑いをまじえ、右手で頬づえをつきながら半目する瞬矢。対して思い出すように香緒里は言う。


「どちらかと言えば『信じざるをえなくなった』というところかしら。――で、あなたの言う要求って?」


 瞬矢は唇を三日月形につり上げ、香緒里を見据えるように顔の横で人差し指を立て言った。


「まずひとつ。この屋敷にいた『刹那』の戸籍、出生を調べてほしい」


 立ち上がると歩を進め、香緒里に住所と所有者名が書き写された紙片を渡す。

 というのも、警察の人間の方が確実に情報を引き出せると見込んだからだ。

 すれ違いざま、ふと何かに気づいたかのような声色で香緒里がぽつりと呟く。


「そういえば彼女、見かけないわね」


 その台詞を聞き、瞬矢はドアの手前でぴたりと足を止める。感情を抑えるかの如く、ぐっと声を殺し答えた。


「……茜か。あいつならたぶんもう来ない」


 俯いたことで黒い前髪がかかる。その間から覗かせる表情は、とても苦々しい面持ち。


「もう、俺なんかに関わらないほうがいいんだ。あいつの為にも……」


 黒い瞳の奥で鈍くたゆたう光は仄かな闇を宿す。

 瞬矢に半ば本心ともとれる言葉を吐かせたのは、やはり先日の一件あってのことだった。

 いつまたあのようなことが起こるとも限らない。

 その際、茜を己が手にかける光景を連想し、眉間に皺を刻む。


(この力……、この手であいつを傷つけてしまう前に……)


 これでいいんだ、と区切りのつかない思考に自己完結を強いる。

 伏せた瞼の裏にふっとよぎる、温かな日だまりの如き茜の笑顔。

 その残像を掻き消すように首を振り息をつくと、口調を改め話を切り替える。


「……あとひとつ。例の遺体が見つかった場所、どこか案内してくれ」


 くるりと踵を返し、ぴんと人差し指に次いで親指を弾き立てる。同時に浮かべる貼り付けたような微笑。


 ――午後4時20分。オレンジ色の夕日を受け、わずかに影を落とす曖昧な笑み。

 その下に、本人すら判断しかねる複雑な心を押し隠して。



 3



 ――午後5時04分。現場は屋敷跡のある場所からほど近い林道にあった。

 二車線道から右手に細く枝分かれした道を少し入ったところで車を停め外へ出る。

 辺りは鬱蒼とした木々が根を張り、道路一本挟んで四方に枝を巡らす。

 夕闇のわずかな光すら遮るその光景は、さながら木のトンネルと喩えてもいいだろう。


 涼やかな秋虫の鳴き声が、静まり返った山中に響く。

 湿気を帯びた土の匂いが漂う中、いまだ木と木の間に黄色いテープが張り巡らされてあった。

 瞬矢は立ち入り禁止のテープが貼られてある丁度現場の手前まで歩み出たのだが、


「――っ!」


 すぐ左側の木に片手をつき、くしゃりと顔を歪めもう片方の手で頭を押さえる。

 よろよろとこうべを垂れ、伏し目がちに一点を見つめる。視線の先にあるのは腐葉土。


「刹那?」


 やがてぽつりと呟くそれは、幼い子供が親しい者に向ける口調と近く。

 眼前で起きた出来事に、香緒里はごくりと息を飲む。


「なんで泣くの? ……そう。【とむらい】……」


(――弔い?)


 まるで、木々の合間に巣食う暗闇と会話するかのような光景。

 煌々こうこうと道を照らす車のライトを背に、半目した瞳はどこか妖しく、だがどこか悲しげに揺らいでいた。

 やがて瞑目し小さく息をつくと、踵を返しおもむろに上着のポケットから何かを取り出す。


「ほら、約束の物だ」


 香緒里は、やにわに手渡されたそれを改めて掌の上で確認する。


「メモリーカード?」


 それは、屋敷での実験データが記録されたUSBメモリーカードだった。

 一瞬眉をひそめ訝る。メモリーカード自体よりも、その中身に興味を引かれたからだ。

 見上げた彼の表情にはつい先刻までの悲しげな色はなく、人を小馬鹿にしたような微笑だけがあった。


「恐らく、あんたの父親はその一件に関わっていた。それで『仁井田』っていう偽名を使ってたんじゃないかと思う」


 受け取ったUSBメモリーカードに視線を落とし、10年前と3月末から連続して起きた事件について今しばらく考査する。

 香緒里を現実に引き戻したのは、瞬矢の言葉だった。


「最後に。茜を護ってやってくれ」


「けれど……」


 風が木々をざわめかせ、顔を上げ続けようとした香緒里の言葉を掻き消す。

 当の瞬矢は小首を傾げ、俯き加減に髪を靡かせていた。

 伏せた睫毛に影を落としたかと思うと、くるり背を向ける。


(斎藤 瞬矢、あなたは間違ってる)


 香緒里は渡されたメモリーカードを握り締めながら、心の中で瞬矢の広い背中に投げかけるのだった。


 

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