白詰草の夢
餅雅
第1話 渚とノア
ーー神様、どうかお願いします。今度こそちゃんとします。今度こそ上手くします。だからどうか時間を戻して下さいーー
今日渡されたばかりの台本を読み返しながら西城 ノアは胸を躍らせていた。中学最期の演劇で、お姫様役に大抜擢されたのだ。カフェテラスに入って最初に頼んだオレンジジュースの氷はもう殆ど溶けてしまっている。そんな事にも気付かないくらいノアは真剣に何度も何度もその台本を読み返していた。
「いい加減にジュース飲んで帰らないと遅くなるぞ?」
ノアはその聞きなれた声でやっと自分は異国の城に住んでいるお姫様からただの中学生に舞い戻った。テーブルを挟んだ向こうに、短髪に制服姿の同級生が座っている。同級生の名前は双海 渚といった。白のカッターシャツに赤いネクタイをし、その上からスクールニットを着ている。紺のスラックスのせいか、足が長く見えた。
「大丈夫だよ。まだそんなに時間経ってない……」
そう言いながらお店に飾られた可愛らしい壁掛け時計を見た。不思議の国のアリスをイメージしたその可愛らしい時計は間違いなく夕方の五時を指していた。
「うそっ」
ノアは思わず立ち上がった。セーラー服の裾が激しく揺れ、時計と夕焼け空を見比べる度にボブカットの茶髪がふんわりと上下する。時計を何度も確認したが時間は戻りはしない。昼に部活が終わって、それからお昼を食べてそれから……自分の世界にどっぷり浸かってこの時間だった。
「でも大丈夫だよ」
「宿題は?」
ノアは聞かれて冷や汗を流していた。渚はノアの答えを聞く事無く三杯目の珈琲をブラックのまま飲み干す。
「……まだです」
「だろうなぁ」
渚は徐にテーブルの下に置いていた鞄からノートを出すとノアの目の前に放り投げた。ノアが異国へ旅立っている間に読んでいた参考書を片付けると軽く溜息を吐く。
「高校受験が終わったからってのろけるのはどうかと思う。演劇に一生懸命なのは良いけどそれとこれとは話しが違う」
一頻説教を言っている間に、もう味が薄くなったオレンジジュースをノアは一気に飲み干した。ノートを自分のバッグに入れるとにっこりと笑う。
「渚、ありがとうっ」
ノアがそう言うと、渚は何時もの様に二人分のお金をテーブルに置いて店を出た。ノアも自分よりも頭一つ分背の高い渚を追って外に出る。外はまだ寒い。ノアが身震いすると渚は自分が首に巻いていたマフラーをノアの首に巻きつけて頭を軽く叩いた。ノアはほんのり頬を赤くしながらにっこりと笑う。
「いいよ。渚が風邪引くよ。」
「お姫様に風邪引かれた方が困るんですけど?」
渚がノアの手を引いてノアの家に向かうと、ノアは少し目を細めていた。自分よりも背の高いその渚の背中を見つめながら握った掌から伝わる温度に一層頬を赤らめる。渚はノアにとって自慢の友達だった。小学校一年の時から付き合っている……と言うか幼馴染で、辛い時も悲しい時もずっと傍に居てくれる大切な存在だ。
「ねぇそこの彼女、可愛いね。俺等と遊ばない?」
背の高い髪を染めたいかにも不良と呼ばれる格好をした男二人が徐にノアに近付いて来た。渚がノアを庇う様に前に出ると、男二人はそんな渚を見て顔を見合わせる。
「何こいつ彼氏?」「痛い目見る前に女置いて逃げた方が身のためだぜ」
男達が指を鳴らしながらそう言うと、ノアは身体を縮めて渚の背中にくっ付いた。怖くないと言えば嘘になるだろう。けれども渚は何時も、どんな時だってノアを守ってくれた。
ノアが耳を塞いで硬く目を閉じていたのはほんの数秒ほどだった。殴り合う音が途絶えたのを感じてそっと目を開けると、渚が携帯を開いて何処かへ電話をかけている。
「救急車お願いします。一人は右足骨折と左腕に打撲、もう一人は……」
渚の言葉にノアは目を丸くしていた。道端に、さっき声を駆けて来た不良が二人路上に倒れている。一人が意識を取り戻して立ち上がると渚に向かって拳を振上げた。
「ふざけやがって……!」
前歯が折られているにも関わらず果敢に向かって来た男に渚は回し蹴りを食らわせて携帯を切った。ノアが渚の傍に駆け寄ると、渚はノアの手を引いて家路に急ぐ。
「ノア」
渚にいきなり話しかけられてノアは顔を上げた。切れ長の、綺麗に整った渚の顔を見るとノアはにっこりと笑う。
「ありがとう」
渚の言葉にノアは少し首を傾げた。何が? と言いたげなノアの顔に渚は少し笑ってみせる。
「オレに付き合ってくれて」
「違うよ。付き合わせたのは私の方だよ。カフェに行こうって言ったのも私だし、勝手に台本の異国の国へ飛んで行ったのも私だし……」
「そうじゃなくて……」
渚の何か言いたげな顔を見てノアはその言葉の続きを待っていたが、渚はそこで言葉を止めた。目の前の交差点を渡るともうノアの家の屋根が見える。渚はそっと目を細めた。信号が変わって横断歩道を渡るとノアの家の門前まで来た。
「ねぇ、渚?」
「おやすみ。また明日、迎えに来るから」
ノアの問いかけに答える事無く渚はノアの家の前を後にした。ノアは少し心配そうな顔をしていたが門の中に入って再び台本を読み返していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます