第13話 草刈り

 翌朝、渚は目を覚まして身体を起した。セットしたアラームの時間五分前に目が覚めるとアラームが鳴らない様にスイッチを切る。昨日の夜、自分で貼った湿布を手探りに剥がすと少し痛い。けれども大分肩が楽になった。

 どうかしてるよなぁ……たかが湿布くらいで……

 昨日友也と離れた後、祖父の腰や肩を揉んで湿布を貼っている所を祖母に見られてもニコニコしているだけで何も言われなかった事を思い出すと余計に頭を悩ませる。何がいけないのかも何がおかしいのかも解からないが、とりあえず服を着替えてジャケットを羽織り、布団を畳む。隣でまだ寝ているだろう幸村を気遣ってそっと部屋を出たのだが、犬小屋に着く頃には幸村が追いついて来ていた。

「まだ早いって」

「おはようございます」

 昨日の一件は特に気にしていないのか、何時もの様ににっこりと笑ってそう言うとリードを取り上げて犬に引っ張られながら丘を転げる様に走って行ってしまった。渚も犬を引いて丘を駆け下りると、広っぱに犬を放してへとへとになった幸村の隣に腰掛けた。

「ごめんなさい」

 幸村がそう切り出すと、渚は目を丸くして首を傾げた。

「その……夜中に怒鳴ったりして……」

 何だそれは? 

 渚はそう思いながらも息を吐いた。

「いや、こっちこそ悪かったな。嫌がってたのに無理やりさせるようなことして……」

 渚には解からない葛藤か何かがあったのだろう。自分は祖父母や両親のツボ押しをしたり湿布を貼る事に慣れているので全く抵抗が無いのだが、そういう経験が無い者には抵抗があったのかもしれない。

 不意に昔の事が脳裏を過った。

「あ〜……オレの祖父に弟が居てさ、直義爺さんって言ったんだけど……」

 渚は懐かしくて話しが弾んだ。

「オレがちっさい頃、ろくに米袋も運べない、機械の周りをうろちょろして邪魔になるからって、直義爺さんに面倒見て貰ってた時期があるんだ。直義爺さん、生まれつき全盲で、按摩を家でやってたんだよ。凄い人でさ、触っただけで病気とか分かるんだ。腰が痛いって言ってきた人の背中触っただけでさ、『内科か泌尿器科に行きなさい。多分癌だよ』って言って、本当に膀胱癌だったんだよ。だから毎日評判でさ。楽しかったなぁ。近所の爺ちゃん、婆ちゃんの肩叩きとかしながら、直義爺さんにツボ押しとか教えて貰ったんだ」

 幸村は昨日の事のように嬉しそうに話す渚の顔をじっと見つめていた。

「けど、それを知った美野里さんがさ、直義爺さんに怒ったんだよ。『女の子に按摩なんかさせて、変な噂でも立ったらどうするの!』って、凄い剣幕で……」

 笑っていた渚の顔が、どんどん暗くなって俯く。

「オレが女の子だから、直義爺さん怒られたんだって思った。直義爺さん、それから前ほど按摩を教えてくれなくなって、ちょっと寂しかったな。三年くらい前に亡くなったんだけど……」

 渚はそう話すと溜め息を吐いた。

「だからお前に『女の子なんですから』って言われた時、なんか遣る瀬無かった」

 幸村はそれを聞くと何だか悪いことをしたような気分になった。

「すみません……」

「親戚連中男ばっかりでさ、一つしか歳の違わない兄貴は良くて、オレは女の子だから駄目って線引きされることが多くて。言葉遣いとか格好とか変えた所で、結局性別っていうオレにはどうする事も出来ない部分で弾かれると……」

 渚の話しに幸村は俯いた。

「なんかムカつく」

 渚が怒った顔で言うと、表情が豊かだなぁと幸村は思った。

「渚さんは、元々こっちの人なんですか?」

「いや、ココは親父の実家で……正一叔父さんの弟がうちの親父になるんだけど両親共働きで、長期休暇に入ったら必ずこっちに預けられてたから……毎年同じ事しかしないしな」

 渚の言葉に幸村はふ~んと鼻を鳴らした。渚はふと、その流れから幸村の実家の話を聞いた方が良いのだろうかと思ったが、何だか聞くのが煩わしかった。言いたければ、勝手に喋るだろうと思う。こっちからわざわざ聞く必要も無いだろう。

「変な奴だよなぁ」

 ふと、自然と渚の口からそんな言葉が零れた。隣に座っている幸村が目を瞬かせて渚の顔を見つめる。

「初めて会った時から、女扱いしてるのはお前だけだ」

 それが少し煩わしく思う。

「見た通りノアみたいな金持ちのお姫様じゃない。貧乏な田舎の農家だ。泥に塗れて地面這いずり回ってる様な奴を女として見るなんてお前は変わってる」

「渚さんは知らないんですね。女の子は生まれた時から誰かのお姫様なんですよ」

 幸村がそう言ってにっこりと笑うと、渚は溜息を吐いた。

 本当に変わっている。

「じゃぁ何か? 男の子は生まれた時から誰かの王子様か?」

「僕の母はそう言ってましたよ。生憎僕も弟も男の子だったので、女の子が欲しかったとぼやいてましたけど……一緒にショッピングに行って可愛い服を買うのが夢なんだと口癖の様に言ってましたね」

 言ってました。その過去形の言い方が渚の耳に違和感を与えていた。まるで今は家族と離れ離れの生活を強いられていて孤独で押し潰されそうなのだと心の底で叫んでいるような、そんな印象を覚える。

「そうか」

 渚はそれ以上幸村に話をさせなかった。これ以上深入りしたら何だか抜け出せなくなる様なそんな気がした。



 午前中に田植えが全部終わると、渚と幸村は昼食を済ませてから空になった苗箱を川まで運んで束子で洗っていた。渚と幸村が横に並んで一つ一つ洗っているとそんな二人を見た敏雄も束子を一つ持って渚の隣にしゃがみ込む。緑色の髪が何だか鬱陶しかった。

「なぁ、これが終わったら二人で遊びに行こうぜ」

 敏雄は苗箱を洗いながら言った。

「悪いがまだ仕事は山ほどある」

「昨日は買い物行ってたじゃんか」

「あれは肥料と燻煙剤を買いに農協まで行ってただけだ」

 渚がそう言って洗い終わった苗箱を数枚まとめて一輪車に載せると、再び定位置に戻って洗い始めた。

「つれねぇなぁ」

「大体、手伝ってくれるのは嬉しいけど、お前こんな所に居て良いわけ?」

「へ?」

「家の手伝いはいいのかって聞いてんだ」

「ああ~……うちは渚の家ほど大農家じゃ無いし田んぼの面積も知れてるから平気だって。晩生だから田植えは六月だし」

「代掻きとか畝塗りとかあるだろ」

「あ、それは確かに……」

 敏雄がそう言うと、渚は敏雄が洗っていた苗箱を取り上げた。

「いいから家の手伝いしてやれ。自分の家の手伝いせずに実の息子が隣の田んぼの手伝いなんかしてたら川田のおじさん達が嫌な顔するだろ」

 渚がそう一喝すると敏雄は酷く残念そうな、落ち込んだ表情をした。敏雄は幸村を一瞥すると、直ぐに渚に視線を向ける。

「渚、話があるんだけど……」

「何だよ」

「ちょっと二人っきりで話したくて」

 敏雄の話を聞いていた幸村は自分が居てはいけないのかと思い、まだ洗っていない苗箱を持って川下へ移った。渚はそんな幸村を横目で見やると、溜め息を吐いた。

「で? 何だよ話って。くだらない事だったら承知しな……」

「あんな奴ほっといて二人で遊びに行こうぜ」

 敏雄そう言ってキスをしようとすると、渚は敏雄の襟首を掴み、振りかぶって頭突きをした。それを見ていた幸村が慌てて二人に近付く。渚は敏雄を突き飛ばすと、敏雄は川の浅瀬に尻餅を付いた。

「上等だてめぇ、ちょっと面貸せ」

 渚はそう言うと作業着のファスナーを下げて上着を脱いだ。作業着の下から黒いシャツが顔を出す。シャツには白い水墨画の龍がこっちを睨んでいる絵が描かれていた。

「その腐った根性叩き直してやるよ」

 渚がそう言って指の関節を鳴らすと、敏雄は逃げる様に去って行った。

 幸村は止めに入ろうとしていたのに渚のシャツを見て声が掛けられなかった。背中には風神雷神の絵が描かれている。殆ど無地のものが多い渚にしては珍しいと思った。が、取り敢えず渚の様子を伺う。

「渚さん、大丈夫ですか?」

「ん? 何が?」

 何が? と聞き返されて戸惑った。幸村の位置からでは二人がどんな会話をしていたのか聞き取れなかった。何か酷いことでも言われたのだろうかと心配したのだが、どうやらそうでは無いらしい。渚は脱ぎ捨てた上着を着直すと、作業を続けていた。

 苗箱を全部洗い終えて家の庭先に並べていると、倉庫から刈り払い機を持った友也の姿が目に入って渚は眉間に皺を寄せた。

「よう、戻ったか」

 友也は幸村の姿を見て少し顔を引き攣らせたが、渚に向かってそう声をかけた。

「肩掛けベルトとゴーグルとマスクは?」

 渚は刈り払い機だけを手に持っている友也を見てそう言った。確かに長靴に作業服、手袋も持っているが、刈り払い機を身体に固定するベルトや安全メガネ、防護マスクが見当たらない。

「良いって少しだから直ぐそこの畔をちょっとな」

「てめぇの心配なんかしてない。てめぇの周りに居る人間の命の方が大切だから言ってるんだ!」

 渚が怒鳴るが、友也は昨日の一件もあって虫の居所が悪かった。それに、さも自分よりも、そこに居る幸村の事の方が大事なのだと言われた様で癪に障る。友也はそのまま何も言わずに行ってしまった。



 幸村は洗い終わった苗箱を全部立てかけ終えると、渚の様子を伺った。心配そうに友也の背中を見送っている。

「今から届ければ間に合いますよ?」

 渚の心中を察して声をかけるが、渚は溜息を吐いて首を横に振った。

「子供じゃないんだ。そこまで面倒見切れない。それよりお前、刈り払い機の使い方教えてやるから来いよ」

 渚がそう言って倉庫に入ると、幸村は倉庫の中を見回した。色々な工具が所狭しと並んでいる。その中から渚が刈り払い機を持って来るとコンクリートが打ち付けられた床に置いた。

「工具箱取ってくれ」

 渚に言われるまま工具箱を持って来ると、渚は皮手袋をはめて刈り払い機の刃の部分のネジを回し始めた。

「刈り払い機のネジは普通のネジと違って逆ネジなんだ。普通のネジの方向で締めたら、回転する刈り払い機の刃の遠心力で外れてしまうから逆なんだけど……素人はこっちのナイロン性の紐から始めた方が良い」

 手早く刃を取って代わりに紐が二本飛び出た黒い物体を取り付け始めた。付け替え終えてカバーを取り付けるとタンクを開いて少しだけ燃料を入れる。

「ガソリンで動く刈り払い機もあるけどこれは混合油を使うんだ。混合油用の刈払機にガソリンを入れてリコイルを一回引いたら壊れるから絶対にガソリンは入れるなよ」

 タンクの蓋を閉めてリコイルを引くとけたたましく音を立てて刈り払い機の先端が動き出す。渚はそれを見て一度エンジンを止めた。

「いいか、エンジン音が酷いから、半径十五メートル以内に人が居ない事を先ず確認する事。それから直ぐに方向転換はするな。ゆっくり動け。それから肩を誰かに触られた感触があったら直ぐにエンジンを止めて機械を地面に置き、刃が完全に止まったのを確認してから振り向く事。絶対に一人では作業しない事」

 渚の言葉に真剣に幸村は聞き入っていた。大事な事を一つ一つ丁寧に教えてくれている事がすごく伝わって来る。渚に促されて防具をつけると、幸村は渚に習ってエンジンをかけた。とりあえず、広い平坦な庭先の草刈を頼まれたのだ。思ったよりも機械は重いし結構激しい振動が身体に伝わる。少しずつ幸村は草を刈っていた。少し気を抜くと、小石に当たって石が跳ね返って来たり土が抉れたりする。

 やっと慣れて来たと思ったら急に後ろから誰かに肩を掴まれて少し戸惑った。渚の言葉を思い出してエンジンを止めると、耳元で渚の声が聞える。

「そのまま座って、刃が止まるまで確認する」

 幸村がしゃがみ込んで機械を地面に置くと、まだ余力で回っていた先端部分が止まった。幸村が安全メガネを取って振り向くと、渚が立っていた。

「よし、休憩」

「え、まだそんなにやってませんよ?」

「言っただろ? 自動車と違って、エンジンの振動が心臓に負担をかけるんだ。一時間事に休憩挟まないと振動病になるぞ」

 渚がそう言って縁側に腰掛けると幸村も防具を外して渚の隣に腰掛けた。用意されていたお茶を一口飲むと、コップが三つある事に気付いて渚の様子を伺う。何となく、そわそわしている感じを受ける。

「心配でしたら見に行ったら良いと思うんですけど……」

「心配なんかしてねぇよ」

 素直じゃない。さっきから友也が歩いて行った方向ばかりを見ている。幸村はお茶を飲み干すと残っているコップを持った。

「友也さんに届けに行きましょうよ」

 気付けばもう夕方になっている。渚は何も言わずに幸村が使っていた刈り払い機を倉庫へ片付け始めた。

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