第14話 止血

「何々だよあいつ……」

 友也の声は刈り払い機のエンジン音に掻き消されていた。畔道の草刈なんてもう慣れたものだった。自分が生まれ育った土地なだけに目を瞑っていたって歩く事が出来る。その心の緩みがいけなかったのかも知れない。昨夜の事を何度も思い返して友也は眉間に皺を寄せていた。単調な作業を繰り返しながら、ぼうっと渚と幸村の事を考えている。

 何だよ……あいつの方が大事かよ……

 自暴自棄に陥っていると刈り払い機の跳ね返りで石が飛んで来て頬を掠めた。

「わっあぶねぇ」

 ちゃんと防護マスクや安全メガネをかけていれば良かったのだが、そんな事は後の祭りだ。足場の悪い畔道で体勢を崩すと、友也はそのまま急な下り坂になった畔に転がった。

「痛っ」

 ふと、自分の手から刈り払い機が離れ何処かへ行ってしまった。何時もの様に肩掛けベルトで身体に繋いでおけば両手が離れても刃の部分に身体が接触する事は無い。友也はこの時、やっと渚の言葉の意味を知った。自分の手から離れた刈り払い機の刃の部分が止まる事無く回転しながら友也の目の前に転がる。エンジンの振動でどんどん友也の顔に向かって近付いて来るのを避けようとするが間に合わない。思わず左手を突き出すと、刈払機の刃が友也の左腕を抉った。

 目の前が一気に暗くなって、友也は一瞬何が起こったのか解からなかった。誰かの腕の中で、刈り払い機のエンジン音が止まるのを聞くと、一気に左腕に痛みが走って目を見開いた。

「うわああ!」

「騒ぐな煩い!」

 渚の声が聞えて、友也はやっと自分を抱き締めているのが渚だと言う事に気付いた。渚は徐にポケットから笛を出すと勢い良く吹いた。甲高い音が村に鳴り響く。

 ああ、呼子笛だ。

 ケータイの繋がらない山奥では必需品だった。何かあった時には必ずこれを吹く様にと祖父母が言っていたが、友也はそんな物、とっくの昔に無くしてしまっていた。

「ちょっと傷口押えてろ」

 渚の言葉に友也は朦朧としながらも眉間に皺を寄せていた。近くに誰か居るらしいが、直ぐに脳裏に幸村の姿が浮かんだ。やっぱりあいつも居るのか……だんだん気が遠くなって完全に意識が途切れた。



「心臓よりも高い位置に保ってろ」

 言われるまま幸村が友也の左腕を持つと、渚はいきなり服を脱ぎ始めて幸村は赤面した。

「ちょっ……渚さんっ」

 作業着を脱ぎ捨ててシャツを友也の腕の傷に巻きつけて硬く結ぶ。白いタンクトップ姿の渚から幸村は目をそらした。いつものダボついた大き目のシャツでは気付かなかったが、胸元辺りが年相応に膨らんでいる。

「機械オイルや土埃で汚れた服で傷口を圧迫する訳にいかないだろ。この傷じゃハンカチなんかじゃ間に合わないし」

 確かに渚の言う事はごもっともだが、幸村はまだ赤面していた。目のやり場に困る。すると笛の音を聞きつけた敏雄が畔の上から緑の頭を出した。

「渚! どうした?」

「救急車呼んでくれ! あと友也の身体を引き上げるから男手が欲しい!」

 渚がそう叫ぶと、敏雄が駆けて行く。それと入れ違いに美野里が畔の上から顔を出した。

「なぎちゃん? 笛の音が……」

「叔母さん、ガーゼタオルと毛布持って来て!」

 渚の指示でそそくさと美野里が家に戻って行く。

「友也の足を側溝から上げてくれ。足に流れる血を出来るだけ少なくしたい。あと他に出血してる所がないか確認してくれ」

 渚に指示されるままそうすると敏雄から話を聞きつけて来た近所の人と勇輝が駆けて来た。

「渚……」

「骨は折ってないと思うが、出来るだけゆっくり公道まで運んで欲しい。道の悪い農道までは救急車は入って来ないだろうから」

 渚がそう言うと勇輝と数人の男が友也の身体を持ち上げて道の悪い畔道をゆっくりと歩いた。公道横まで運んで地面に寝かせると、美野里が持って来た毛布を身体に掛けた。

「傷口よりも心臓に近い部分を圧迫するんじゃ無いの?」

「間接止血は腕を切り落とす様な時だ。これくらいなら直接圧迫で充分」

 美野里が身体を震わせながら渚に聞いたが、渚は淡々と答えて止血していた。救急車が到着して友也を乗せると美野里と勇輝が一緒に救急車に乗って行く。渚は集まってくれた近所の人達に何度も頭を下げながら御礼を言うと、みんな帰って行った。

 幸村が血だらけになった刈り払い機を持って公道へ出ると、道端に座り込む渚の姿が見えてそっと近付いた。もう辺りは暗くなっている。そっと肩に作業着をかけると、渚は顔を上げてぼうっと幸村の顔を見つめた。白かったタンクトップは真っ赤に染まり、頬にも返り血が付いている。両手にべっとりと付着した血が、出血の量を物語っていた。

「大丈夫ですか?」

 幸村が心配そうに聞くが、渚はゆっくりと立ち上がると幸村の顔を一瞥する。

「お前は? 怪我とかしてないか?」

「僕は平気ですよ」

「……そうか」

 渚は呟く様にそう言うとゆっくりと歩いていた。責任を感じているのだろう。あの時直ぐに追いかけてちゃんと渡していれば未然に防げた事故かもしれないのに……

「幸村も気をつけろよ。祖母はあの刈り払い機で両足を切ったんだ」

 ポツリと振り向きもしないで渚が呟いた。倉庫の入り口に血だらけになった刈り払い機を置いて家の中に入ると渚は明るい電気の下で自分の両手を見つめた。友也の血で真っ赤に染まっている。それを見ただけで身体が震えていた。

 あ、駄目だ。また……上手く出来なかった……

 渚の脳裏で自分の声が響いた。『また?』渚は不思議に思いながらも、言いしれない恐怖に押しつぶされそうだった。

 脳裏に誰かの頭を抑えている自分の手が思い浮かぶ。生温い赤い血が溢れて止まらなかった。潮の匂いと、波の音が無情に押し寄せてくる。水が奪った体温が、命の擦り減り具合を伝えた。遠くから救急車の音がする。

 ーーそうだ。あの時、血が止まらなくて……

「渚、風呂沸いてるよ」

 祖母がそう声をかけると渚は我に返って軽く頷いた。幸村も作業着を脱いで洗面所で手を洗う。台所へ向かうと、おばあさんが一人で夕食の準備をしていたので隣に立った。

「手伝いますよ」

「正一も病院に行ってしもうたからのう。先に四人でラーメンでも食べるかの」

 お婆さんの言葉に幸村はにっこりと笑って頷いた。

「あの子、怯えてたんじゃなかったかい?」

 お婆さんがポツリと呟くと、幸村は少し目を丸くして老婆を見た。

「え?」

「あの子が中学に上がる前だったかねぇ。草刈機を動かしている爺さんに私が声をかけたんじゃよ。機械音が煩くてねぇ、爺さんが振り向くと、回転していた刈り払い機に両足を巻き込まれてねぇ。

 よくある事故なんじゃけど……ねぇ」

「渚さん、傍から見てて怖いくらい冷静に対処していましたよ」

 幸村がにっこりと笑いながらそう言うと、祖母もにっこりと笑う。

「私の時にも、あの子の対応が早くてねぇ。ショックで腰抜かしてた爺さんを怒鳴りつけながらずっと止血しててくれたんじゃよ。お陰でこの通り、歩けるようにもなってねぇ。

 あの子の事、宜しくねぇ」

 お婆さんが湯だったラーメンをどんぶりに移し始めると、幸村は少し目を細めていた。

「僕は……」

「あの子、少し変わっているかもしれないけど、悪い子じゃぁないんだわぁ」

 お婆さんの言葉に幸村はにっこりと笑って頷いて見せた。



 あ~……怖かった。

 渚は湯船に浸かりながら頭の中で反省会をしていた。目の前で友也が畔横に落ちて、真っ先にあいつの頭を抱え込んで刈り払い機の柄を踏み込んでいた。目とか脳天かち割られたら手の施しようがないから怖かった。転んだ拍子だったのか、自分の顔を守ろうとして左腕を突き出したのか知れないが、大量の血が友也の腕から流れ出ている。幸村が畔を下って来た時に何か鈍い変な音がして、幸村が刈り払い機のエンジンを止めると渚は友也の左腕を持ち上げた。ハンカチで止血しようとするが血が溢れて間に合わない。呼子笛を三度吹いて自分のシャツで直接圧迫して……

 他に綺麗な布って無かったよなぁ? 作業着の下に着ていたシャツなら土埃もオイル汚れも無かったし……まぁ、汗はかいてたかもしれないけど……あの状況で他の方法って思い浮かばなかったんだけど……

 敏にタオルと毛布を頼んだ方が良かっただろうか? いや、出来るだけ早く救急車を呼んでもらいたい。だから幸村に頼みたかったのだが、慣れない土地だし住所も解からないだろう。家の何処にタオルと毛布があるのかも知らないだろうから結局やっぱりこれで良かったんだと思う。二人がかりで止血しながら友也を運ぶ事も出来なかったのでやっぱり近所の人の力も欲しい。どれか一つ欠けても困る。

 救急車呼ぶよりも、敏の車で直接病院まで送った方が良かっただろうか?

「……」

 いや、途中で容態悪化されたら手に負えないし、軽自動車だから車内が狭い。それに敏雄に運転させたらパニック起こして事故られても困るし夜の田舎道でスピード出して欲しくない。正一叔父さんのトラックの荷台に乗せたんじゃ毛布に包んでても体温が下がるだろうし……

 一通り悩んで疲れると渚は風呂から出て台所へ向かった。今、女は一応祖母と自分しか居ないのだから、夕飯を作らなければならない事に気付いていた。だが、祖母と幸村が台所でラーメンを作っている姿を見ると少し安心した。

「あ、渚さん、丁度今出来た所なんです。一緒に食べませんか?」

 幸村にそう言われて軽く頷くと、祖父母と四人で静かにラーメンを食べた。昨日も一昨日も八人でわいわい食べていた夕食が嘘の様……

「偶にはラーメンもいいな」

 祖父がニコニコしながらそう言うと、祖母もニコニコしながら頷く。静かな夕食が終わると、渚は幸村に風呂に入るように言って食器を片付け始めた。

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