第25話 目覚めの為に

 テラスでパフェを食べ終えたノアは思いついた様に呟いた。赤いチェック柄のワンピースに糸屑が付いているのを見つけて払いのける。

「あ〜あ、ゴールデンウイーク終わっちゃったね。夏休みまで長いな〜」

 ノアの言葉に今まで鼻歌を歌っていた渚は参考書を閉じた。

「何処へ行こうかな? 海とか行きたいよね〜! 水着新調しようかなぁ」

 渚はそれを聞いてそっと目を伏せた。

「……ノア」

「何?」

 渚はじっとノアを見つめると、再び目を伏せた。

「いや……何でもない」

 渚が俯くと、ノアは首を傾げた。けれどもノアはふとこう呟いた。

「渚」

 渚が顔を上げると、ノアはにっこりと笑った。

「私たち、沢山お話したよね? 私、渚が居てくれていつも楽しいの」

 ノアがそう言うと、渚は不思議そうにノアを見た。

「私の為に、沢山遊んでくれてありがとう」

「なんだよそれ」

「だからね、渚」

 ノアは自分のおでこを渚の額にくっつけた。

「渚が元気になりますように」

 ノアがそう言うと、渚は少し笑った。ノアは渚に抱き着くと、渚はノアの背中を擦る。

「渚、大好きだよ」

 声は出なかったが、渚の目に涙が浮かんでいた。



「どういうことだよ?」

 葵は動揺した。意味が分からなかった。

「渚さんが神座池へ入るのを見ていたんですよね?」

「そりゃ見たけど……」

 言いかけて戸惑った。

「何で深森が知って……」

 幸村を見据えると、幸村はそっと目を伏せた。

「渚さん、今、市立病院に入院しています。意識不明の重体で」

「……市立病院? んなわけ無いだろ? 今朝だって普通に……」

 幸村の目が、少し怖かった。

「……何で?」

「理由はご存知ですよね?」

 幸村に聞き返されて葵は戸惑った。

「知らねえよ! 何であいつが神座池へ入ったかなんて……」

「七月でした。夏休みですね」

「夏休み……?」

 今はまだ五月だ。去年の夏休みの事だろうか?

「七月二十三日です。葵さんと渚さんとノアさんの三人で海へ行ったんですよ」

 三人で……? ノアの事を知ったのは今年に入ってからだから去年の話しではない。

「何の話しだよ?」

「岬の柵が錆びて居ることに気付かずにノアさんが寄りかかって、柵が壊れたんですよ。その時に落ちかけたノアさんの手を葵さんが掴んで、葵さんの手を渚さんが掴んで引き上げようとしたんです」

 脳裏に自分の腕を両手でしっかりと掴む渚の姿が思い浮かんだ。折れた支柱が渚の脇腹を貫き、そこから流れ出た血が渚の腕を伝い、葵の腕を濡らした。足元から、岩場に打ちつける波の音が吹き上げていた。

「結局、渚さんも一緒に海に落ちました。葵さんは打ち所が悪く、救急車が到着するまで持たなかったんです。渚さん、自分の傷そっちのけでずっと葵さんの止血をしようとして頑張っていたんです。一緒に落ちたノアさんは波に攫われて、沖で亡くなっているのが発見されました」

 幸村の話しに葵は悪寒がした。

「渚さん、ずっと自分を責めて、責め続けて、それで神座池へ入ったんですよ」

「嘘だ!」

 信じられなかった。自分が死んでいることも、渚が死のうとした事も、全部幸村の作り話だと思いたかった。

「ここはあの世とこの世の境です。分かりやすく言うと夢の中なんです」

「夢……? 渚の?」

 幸村は静かに頷いた。

「正確には、渚さんと、葵さんと、ノアさんの記憶を追体験している状態です」

 葵は意味が分からなかった。

「渚さんが神座池へ入った時、二人は渚さんを見ていました。それは、唯一生き残った渚さんに故意ではないにしても取り憑いていたんです。それで二人の魂も、渚さんの夢の中に閉じ込められる形になりました」

 池の中へ入る渚の後ろ姿に何度も呼びかけるノアの声がした。自分はどうしたら良いか分からなかった。何も出来なくて、ただ〝見て〟いた。

「ノアさんは渚さんを岸へ引き上げようとしましたが、葵さんは違いましたよね? 覚えていませんか? 渚さんだけ生き残った事を酷く恨んでいました」

 脳裏に自分の声が響いた。『何であいつばっかり。俺は駄目だったのに、あいつだけ生き残ってずるい。あいつも一緒に死ねばよかったのに』

「本当にこのままで良いんですか?」

 幸村の問いかけに戸惑った。

「今は医療が発達していますから、それこそ老衰で死ぬまで寝たきりです。その間、ずっと二人は渚さんに取り憑く形になってしまう。輪廻の輪に乗ることなくずっと、渚さんの見たい夢の中に居続ける事になります」

「良いんじゃねーの、別に」

 葵は声を絞り出した。

「あいつが決めた事なら、俺はそれで良いと思う」

「渚さんの将来の夢、何だったか覚えています?」

 幸村の声に葵は頭を悩ませた。考えていないと言っていた。否、それは自分とノアが死んで、自分も後を追ったからだ。何かあったはずだ。でなければあんなに必死で根詰めて勉強するはずない。努力するはずない。

「葵さんは、自分の夢、覚えていますか?」

「はあ? ……俺の夢は……」

 そう言いかけて思い出した。

「え、ははっ……嘘だろ? だってあんなの子供の戯言……」

「渚さんは、そう思ってなかったんですよ。ずっとそれを楽しみにしていて、その為に勉強していたんです。お兄さんの、お兄さんとの夢を叶える為に頑張っていたんです」

 葵は無邪気だった頃の自分を恨んだ。

 取り憑いていた。あいつをずっと呪っていたんだ。それに気付いた時、言いしれない罪悪感と後悔に襲われた。

 


 ノアはそっと渚に囁いた。

「渚、私は渚に生きててほしいな」

 渚は戸惑った様に目を伏せた。

「……何の話し……」

「渚、聞いてほしいの」

「聞きたくない」

 渚が顔を背けると、ノアは頬を膨らませた。渚の頬を両手で掴んで自分に向けさせると、ノアは渚の目を見つめた。

「聞いてくれなきゃ金と権力で捻じ伏せちゃう」

「……分かったよ……」

 渚が渋々了承すると、ノアはぱっと手を離して笑った。

「私が死んだのは渚のせいじゃないよ」

 ノアの言葉に渚の手が震えた。

「もっと水泳の授業、ちゃんと受けとけば良かったなぁ。渚みたいな努力家じゃないから無理かな」

 ノアはまるで世間話でもするように話した。そっと渚の手を掴むと、渚の手が震えている。

「ねえ、渚、ここにいても、渚の夢は叶わないんだよ? 私は叶えてほしいな。渚の夢。素敵だと思う……いや違う。叶わなくっても良いんだけど、なんて言ったら良いのかな……私はずっと渚の傍に居るから、だから泣かなくても良いんだよ?」

 渚が辛そうに顔を歪めた。

「私、渚のウェディングドレス見てみたいな。それから、私、渚が頑張っている姿が一番好きなの。笑っている顔も好き。男の子みたいに強くて守ってくれるところも好きだし、女の子みたいに優しい所も好き。

 えと……何だっけ? 兎に角! 私は渚のこと全部好きだから!」

 渚が居た堪れなくなって立ち上がると、ノアは渚の腕を掴んだ。

「渚は自分の事を嫌いにならないで!」

 渚の頬を涙が伝うと、ノアは渚の前に回り込んで両手で渚の頬に触れた。渚が辛そうに顔を背けて涙を拭うと、ノアはにっこりと笑う。

「私が答え合わせしてあげるよ。丸付けしてあげる!」

 渚は必死に首を横に振った。

「オレが間違った。あの時、ノアを先に探していれば……」

「はいバツ〜!」

 ノアが声を上げると、渚は目を伏せた。

「渚、お腹怪我してたじゃん。あれで海に飛び込んだら渚が死んじゃうよ? あの時、真っ先に救急に電話したのは正解。118だっけ? よくわかんないけど……ちゃんと場所も言えてたし、状況も説明出来てたよ。頭から血が出てた葵さんの手当てをしてたのも正解。渚は何も間違ってないよ」

 渚は唇を噛み締めてノアの話を聞いた。

「百点満点……って言いたいところだけど、自分の事後回しにしちゃったからそこは減点」

 ノアが渚の鼻先を人差し指で示すと、渚は顔を歪めた。

「ん〜90点くらいかな……? 95点? まいっか。兎に角合格! 渚が生きてたから合格! だから、ね? 渚。もう自分を責めなくて良いんだよ」

 ノアが満面の笑みを浮かべると、渚は言葉を必死に飲み込んだ。本当は、そんな事言ってほしくなかった。泣いてすがって『自分も一緒に連れて行って』と言いたかった。けれども渚はノアの気持ちに頷く事しか出来なかった。

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