第11話 田植え

 障子が開閉する音を聞いて幸村は目を覚ました。枕元に置いた携帯を開いて時間を確認すると朝の四時を指している。早いなぁと思いながら身体を起した。朝は少し肌寒い。上からパーカーを着て廊下を見渡した。誰も居ない様なので隣の渚の部屋を覗いたが、もう布団も畳まれていて誰も居ない状態だった。

 洗面所かな?

 幸村がそう考えながら静かに歩くと、玄関が開閉する音を聞いて目を瞬かせた。玄関に向かうと、渚の靴が無い。靴を履いて急いで外へ出ると、細い山道を下って行く渚の小さな影が見えた。

 丘を少し下った所に小さな小屋があった。渚がその小屋に入って行くのを見ると幸村もそっと小屋の中を覗く。するといきなりけたたましく吠える犬の声に驚いた。渚が犬の口をそっと手で塞ぐと犬たちは静かになる。暗い犬小屋の中でジャケット下から出た白襟だけが浮いて見えた。

「おはようございます」

 渚が持っているリードを取り上げてそう声をかけると、渚は目を丸くして幸村を見上げる。

「まだ朝早いぞ?」

「渚さんていつもこんなに朝早……」

 幸村が言葉を終える前に、一匹の大型犬に勢い良く引っ張られて走り出した。渚はそんな幸村を見て溜息をつくと、残りの一匹を連れて走り出す。少し開けた広っぱに出ると、やっと犬たちは足を止めた。

「リード外してやってくれ」

 息切れしてへとへとになっている幸村にそう言いながら渚は犬のリードを外していた。幸村も犬のリードを外すと、二匹の犬が楽しそうに駆け回りながら遊んでいる。渚は叢に腰掛けて単語帳を取り出すとパラパラと捲っていた。幸村はその隣で、日の昇る空や辺りの景色を眺めている。

「皆さん早いんですね」

「野菜を覆っているビニールを開けて換気したり、出荷用の作物を収穫したりしてんだよ」

「渚さんて物知りですよね」

 幸村がそう言うと、渚は幸村を一瞥して舌打ちをした。一通り単語帳を見終わると背伸びをして原っぱで遊んでいる秋田犬に視線を落とす。

「名前とかあるんですか?」

「……小さい方がココで大きい方がチビ」

「チビ?」

 名前とは裏腹に大きな犬を幸村は見つめた。

「拾った時は小さかったからチビって名前をつけたんだけど、ばあさんがハムとか与えてたらでかくなった」

 幸村は渚の話を聞いてお腹を抱えて笑っていた。

「羨ましいです。僕、アパートなのでペットは飼えませんから」

 幸村が楽しそうにそう話すと渚は目を細めていた。家に電気が点くのを見て渚が立ち上がると犬たちが渚の下へ走り寄ってくる。

「そろそろ戻るか」

 渚が犬たちにリードをつけながらそう言うと、幸村もリードを繋いだ。再び犬に引っ張られながら丘を登ると小屋に入ってお行儀良く二匹が並んで座っている。リードを外して渚がそれぞれの器にドッグフードを入れて周るが、それでも身動きせずに餌を睨みつけて待っている。

 渚の合図と同時に二匹が餌を食べ始めると渚は小屋に鍵をかけて家に戻り始めた。幸村も渚の後について行く。



 幸村は朝食を手早く済ませて作業服に着替えさせられた。外に連れ出されると、幸村は渚に促されるまま田植え機に乗せられて困惑する。見たことの無い機械の後ろに苗がびっしり乗っていた。

「僕、田植えした事無いですよ?」

「アホ。植えるのは機械だ。お前は乗ってりゃいい」

 違う、そうじゃない。原付の免許も持っていない。

 触ったことの無い機械を目の前にして幸村は困っていた。

「動かし方解かりませんよ! それにこれ免許居るんじゃ……」

「公道を走る場合はナンバープレートと免許が居るけどココは私有地だ。クラッチとブレーキペダル踏み込んでキーを回せばエンジンはかかる。最初は一速で良いからやってみろ」

 淡々と難しい事を喋りながら渚は幸村に指示していた。幸村は冷や汗を流しながら渚の指示に従う。正直言って何が何だか解からなかったが、渚が一つ一つ指し示して教えてくれるのでパニックになっていた頭もだんだん冷静を取り戻して来た。一反やっと植え終わると見かねた友也が田植え機を横取りして手早く田植えをする。渚は幸村に苗を一掴み渡して山際の小さな田んぼまで歩いた。

「大丈夫か?」

「え?」

「車と違って農業機械のエンジンって心臓に負担がかかるから朝の涼しい間にやらせたんだけど……気持ち悪くなったらいつでも休めよ?」

 渚の言葉に幸村は少し笑って見せた。渚が泥の中に裸足で入ると、幸村も渚の隣に並んで入る。渚は持っていた一掴みの苗から三本だけ苗を取って見せた。

「大体三本から四本とって間隔開けて植えてくれれば良いから」

 渚が慣れた手つきで植えながらそう言うと、幸村も渚に習って植えるが苗が寝て流れてしまった。

「しっかり植えろよ」

「すみません……」

 泥に足を取られながら三列植えている間に渚はもう幸村の後ろの方に行っていた。けれどもさっきの機械を運転するよりもこっちの方が緊張が少なくてホッとする。五列植え終えて戻って来ると再び幸村の隣に並んで苗を植えながら戻って来た。

 幸村がやっと三列植え終わる頃にはもう渚が他の場所を植え終わっている。やっと一つの小さな田んぼの植え付けが終わると畔に座り込んで景色を眺めた。さっき友也に取られた田植え機を今度は正一叔父さんが動かしていて、祖父母は少し離れた所にある小さな田んぼを手植えしている。正一が一反植え終わろうとしているのを見ると、渚は正一と代わって田植え機を動かし始めた。慣れた手つきで機械を動かし、早々と真っ直ぐで四角い田んぼに苗を植えている。幸村は渚に指示されて他の小さな田んぼを手植えしていると友也が何か機械を持って来た。

「お前草刈機使えるか?」

「……使った事はありませんけど……」

 幸村がそう言いながら田んぼから出ると、友也はにやりと笑って持っていた機械を地面に置いた。

「このリコイルを引くとエンジンがかかるんだ。やってみるか?」

 大人の頭ほどあるエンジン部分から長い棒が出ていて、その棒の先端に丸くてギザギザの刃物が付いた機械に幸村は少し尻込みした。断わるのも何だか悪いような気がする。

「何やってんだ?」

 田植えを終えた渚が友也と幸村に声をかけると、友也はにやりと笑った。

「こいつ草刈機の使い方知らないって言うから教えてたんだよ」

 友也の言葉に渚は眉間に皺を寄せて空になった苗箱を友也に投げつけた。ビックリした友也が避けると苗箱が田んぼの中に浮く。

「何すんだよっ」

「ゴーグルもマスクも手袋もスパイクもエプロンもつけてないど素人に安全カバーをつけてない畝用の刈り払い機をよく持たそうと考えたな。さっさと仕事しろ! 近所の敏でさえ今田植え機使ってるんだ。家の者がへらへら遊んでんじゃね~よ!」

 渚が一喝すると、友也がバツの悪そうな顔をして機械を持って畔道を歩いて行く。そんな後姿を見て渚は溜息を吐いた。

「悪いが見た事無い機械には近付くな。ああやって言い寄って来る奴等が居るけど適当に断わっとけ」

「あの……使い方教えていただけましたらやりますよ?」

 幸村がそう声をかけるが、渚は息を吐いた。

「時間があったら刃を紐に替えてから教えてやるよ。最初から刃は危ない」

 渚がそう言いながら田んぼに入って苗箱を拾うと再び手植えを始めた。幸村も渚の隣に並んで植え始めると家の方から美野里の声が聞こえて来る。

「皆~ご飯よ~!」

 日はもう高く昇っていた。美野里の声でそれぞれ仕事を中断して広場に集まる。渚と幸村も川で手足の泥を洗い流して丘に登り、木陰で美野里が作ったおにぎりを食べ始めた。大きなおにぎりの中におかかや昆布や梅干が入っている。渚にお茶の入ったコップを渡されると幸村はにっこりと笑った。

「ありがとうございます」

 渚から返事は無かったが、渚は幸村の隣に腰掛けておにぎりを食べていた。

 不意に煙草の臭いがして振り返ると、昼食を済ませた勇輝が煙草をふかしている。渚はおにぎりを口の中に押し込むと、畔を上って勇輝の傍に近付いた。勇輝も渚に気付いて手を振る。

「よう。お疲れ〜」

 何の気なしに勇輝はそう声をかけたが、渚は勇輝が持っていた煙草を握り潰すと、顔面を殴った。

「何すんだよ!」

 渚は勇輝の襟首を掴むと睨みつける。

「てめぇ、今度四帆さんと結婚式挙げるって言ってたよな? まだ煙草辞めて無かったのか?」

「良いだろ別に、今は四帆居ないんだから……煙草くらい……」

「サードハンドスモークって知ってるか? 外で吸っても髪とか服に有害物質が残るんだよ。近くに妊婦が居なけりゃ吸って良いってもんじゃねーよ。だから禁煙しろって言ってんだ!」

 渚が怒鳴ると、美野里が駆け寄った。渚は勇輝を離すが、まだ怒りが治まらないらしい。

「なぎちゃん……」

「お前、四帆さんの親に何て挨拶に行ったの? どうせ月並みな台詞しか言ってねーんだろ? それとも何か? あんたらが手塩にかけて育てた娘さんを奴隷にするから寄越せって言ったのか?」

 勇輝が睨むように渚を見上げるが、渚は話を続けた。

「酒は大人なんだから嗜む程度はいい。けど煙草は! 今から産まれてくる子供に対して虐待だし、嫁へのDVなんだよ」

「なぎちゃん、それは言い過ぎ……」

「美野里さんが!! 孫に会いたいと思うなら、あんたが叱ってやらなきゃなんねーんだよ!!」

 渚が美野里に怒鳴ると、美野里は狼狽えて後退った。

「お前、四帆さんの話聞いてやってる? それとも四帆さんに何も言えないようにしてないか? 家に仕事の愚痴持って帰って、女は家事も何もしないで家で寝てるだけで良いんだからいいよな。とか言ってないよな?」

 勇輝が驚いた様な顔をして渚を見つめた。

「……お前、最低だな。オレが四帆さんの親なら一昨日来やがれって思う」

「だって四帆が……」

「言い訳してんじゃねーよクズ野郎。お前が惚れた女なら全力で味方になるのが当然だろ? それなのに煙草も辞められない? それで四帆さんが流産でもしたらてめぇ、責任取れんの?」

 勇輝が何も言えずに居ると、渚は大きな溜め息を吐いた。

「四帆さん泣かせたらオレが許さない。いいかげん、自分の子供の見本になれるようなまともな大人になれよ」

 渚がそう吐き捨てると、美野里は勇輝と渚を交互に見ていたが、少し俯いて渚に声をかけた。

「なぎちゃん、昼から買出しに付き合ってくれない?」

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