第10話 自己紹介
渚は荷物と上着を適当に部屋に置くと台所へ向かった。自分の叔母さんにあたる人がせっせと台所で準備しているのを見ると渚も割烹着姿の女の人の隣に立つ。
「長旅疲れたでしょう? 部屋で休んでても良いのよ。明日からこき使われるんだから……」
「今は昔みたいに鈍行で帰省する世の中じゃ無いんだ。新幹線だって年々スピードが上がってる。半日あれば帰ってこれるよ。それよりさとしさんの倉庫から一つ新しいバッテリー貰ったから買いに行くなら型番教えて置くけど……」
渚がそう話しながら食器を出すと女の人は目を丸くして渚を見つめた。
「え? バッテリー? なぎちゃんが? 何に使ったの?」
「敏の車のバッテリーと交換しただけだよ。後で請求書回しといて」
渚の言葉に女の人はあんぐりと口を開いていた。そこへ幸村がやってくると、女の人は幸村と渚の顔を交互に見比べてから渚を見つめる。
「同じ部活の先輩で、深森 幸村。こっちは叔母の美野里さん」
渚がそれぞれを紹介すると幸村が軽く会釈してみせる。美野里も軽く頭を下げて再び渚を見た。
「やだ、彼氏連れて帰ってくるならそう言ってよ」
「彼氏なら絶対に連れて来ないし、ついて来ないよ。田舎に泊まりたいなんてモノ好きじゃなきゃこんな山奥まで着いて来ないって」
「え? でも僕は好きですよ」
渚の隣に立って幸村も手伝い始めると、渚は少し驚いて幸村の顔を見つめた。
「穏やかで自然に溢れていて……とてもいい所だと思います」
幸村がそう言うと、美野里に肱で小突かれて渚は少し顔をしかめた。「良い子じゃない」と耳元で囁かれて余計に眉間に皺を寄せる。『そんなんじゃない』と言った所で、噂好きの田舎の叔母さんには通用しないだろう。そうこうしているといきなり台所の勝手口が開いて敏雄が顔を出した。
「あ、渚、一緒にお宮参り行こうぜ!」
「悪いが観光に来たわけじゃ無い」
「え~……じゃぁ、そっちの深森だっけ? お前行かないか、凸凹神社!」
渚は敏雄の言葉が終わると同時に壁にかけられていたフライパンを取ると勢い良く敏雄の顔面目掛けて投げ飛ばした。べこっとフライパンの底が凹んで、敏雄のおでこに大きなたんこぶが出来る。
「痛てぇなぁ!」
「悪いがこいつは人様から借りて来てるんだ。無傷で帰すのが大前提。都会者だと思ってふざけてんなら、二度とオレの目の前にその顔曝すな」
鬼気迫る渚の形相に恐れをなして敏雄が出て行くと、渚は溜息を吐いていた。
「僕は平気ですよ?」
「そうよ。何なら二人で行って来ても良いわよ? 結構有名な観光名所なんだから……」
幸村と美野里がそう言うが、渚はまだ顔を引き攣らせてイライラしている。
良くそんな事が言えるな……
「神社って事は、産土神様の祭られた神社じゃないんですか?」
「そういうのじゃ無いんだって。あそこはな兄貴みたいな連中が喜んで行く様な所なんだって」
渚の言葉に幸村はぽかんとして首を傾げる。渚の紺のシャツの右肩部分だけ白い金魚の絵柄が入っていたのかと幸村は気付いた。柄物はあまり着ないのかと思っていたが、上着で隠れていただけだったらしい。
「……まぁ、高校生じゃまだ刺激が強いかもね。なぎちゃんはお父さんに連れて行ってもらった事があったんだっけ?」
「いいや、十歳の頃に兄貴と一緒に祖父さんに連れて行かれたけど庭先でアウトだった」
「十歳か……それはトラウマよね」
美野里が頷きながら話すが、幸村にはよく解かっていないらしい。けれども美野里が気を使って話題を変える事にした。
「高校生で産土様を知ってるなんて何か意外。ご両親が熱心な神道系なのね。」
「え、いえ……母方の遠い親戚がそういう家系でちょっと……」
渚は幸村の話を聞きながらも手を止めなかった。
「帰る時に大三島に一度寄ると良いわ。あそこが産土様の神社だから」
「しまなみ海道なんか行ってたら帰れなくなるだろ」
「ごめんなさいね。なぎちゃんは効率でしか頭が回らない硬い人なのよ。悪い子では無いから嫌いにならないでね」
「神様なんて居ないから行っても無駄だって言ってんだ」
渚が怒鳴ると美野里は言い過ぎたと思って口を噤んだ。
「神様はいますよ?」
幸村がそう口を開くと、渚はあからさまに嫌そうな顔をして幸村の顔を睨み付けた。幸村はにっこりと笑ってみせる。
「勝手に言ってろ」
「はい」
幸村がにっこりと笑ってそう言うが、渚は不満そうな顔をしていた。
幸村は広間の大きなテーブルに食器を並べながら数を数えていた。
「八人分で良いんだろ?」
渚が台所で美野里に確認する声が聞える。美野里が一人一人名前を確認しながら指を折っている姿が障子の隙間から見えた。
「えっと、お義父さんとお義母さんと正一さんと……」
「恵美叔母さんと樹君は?」
「福岡の方へ遊びに行くって言ってたわよ。さとしは美由紀さんと子供達連れてディズニーランドに行ってるから……」
「じゃぁ六人分か……」
「いや、勇輝と友也が帰って来てるからやっぱり八人だわ」
「え? 勇輝兄さんが居るなら四帆さんは?」
「四帆さんは置いて来たんですって」
良く解からないが長々と色んな人の名前を羅列している二人の会話を聞きながら幸村は食器を並べていた。
「何で?」
「悪阻が辛いんですって。もう12週って聞いてるのに変でしょう? よっぽどこっちに来るのが嫌なんじゃない?」
渚はそれを聞いて首を傾げた。
「それは違うと思う」
美野里は目を瞬かせて渚を見た。
「妊娠出産は人それぞれだって母さんが言ってた。後期悪阻になる人も居るし、妊娠中ずっと悪阻で辛いって人も居るって。それを周りが怠けだとか、夫の実家に寄るのを嫌がっているとか勝手に想像するのはどうかと思う。オレも去年、四帆さんには会ったけど、凄く人当たりの良さそうな人だったよ」
渚の話に美野里は少し不貞腐れた様な顔をした。
「そう……よね……ごめんね。なんか孫に会えるのは嬉しいんだけど……なんかな、息子を取られたって気になっちゃってたのかも。もうすぐおばあちゃんになるのに、嫌ね。姑根性かしら。恥ずかしい」
美野里はそう言って笑っていた。
「つうかデキ婚? 向こうの親は?」
「勇輝は何も話してくれなかったから、多分いい顔はされなかったんでしょうね」
美野里の話しに、渚は眉を寄せていた。玄関の扉が開く音がすると渚が台所から廊下へ顔を出す。幸村もそっと顔を出そうとすると渚に制された。
「風呂沸いてるよ」
「おお、帰ってたのか。お父さん、渚が風呂沸かしてくれてるって」
わいわいと賑やかに会話する声が玄関から聞える。幸村はその賑やかな声を聞きながらにっこりと笑っていた。何だか嬉しい。学校から家に帰っても、こんな風に賑やかな空間に浸る事なんて長らく無かった。
食卓に全員が揃うと、幸村は自分に注がれる異様な視線に少し冷や汗を流した。人当たりの良さそうな顔をしたお爺さんが上座に座ってにっこりと笑っている。その直ぐ隣にも小さめのおばあさんが座っていて、そこから順々に年齢が下がる様に並んで座っている様だ。
「えと、祖父母とその隣が長男の正一叔父さん、その嫁の美野里さんに美野里さんの息子の勇輝と友也」
渚が一通り手で指し示して紹介すると幸村は軽く頭を下げた。
「深森 幸村です。宜しくお願いします」
幸村の言葉が終わると、お爺さんが手を叩いてにっこりと笑う。
「さ、たんと食べなさい」
お爺さんの一言でみんなそれぞれわいわい言いながらお酌をしたり食事を食べ始める。幸村はこういう時どうすれば良いのか良く解からなかった。
「気楽に食べたんで良いから」
渚が幸村に気を使ってそう言うと、幸村はにっこりと笑って食事を始めた。
「まさか渚が彼氏を連れて帰ってくるなんてなぁ」
四十代後半の正一叔父さんが父のコップにビールを注ぎながらそう言うが渚は全く反論しなかった。どうやら反論する事に疲れたらしい。
「渚、お酌してくれよ~」
まだコップ一杯分しかビールを飲んでいない二十五歳の勇輝が顔を赤くしながらそう言うと渚は溜息を吐いて勇輝を一瞥した。
「四帆さんに言いつけますよ」
「もう直ぐ結婚式なんだよ。それだけは勘弁!」
家の中にどっと笑い声が響いて正直驚いていた。すると徐にコップと瓶ビールを持った友也が幸村の隣に座り込んで幸村にコップを持たせた。
「ほら、お前も飲めよ。」
幸村のコップにビールを注ぐと、幸村の隣に座っていた渚が幸村の手からビールの入ったコップを取り上げる。
「未成年に酒を勧めるな!」
「硬い事言ってんじゃねぇよ渚、お前も飲め!」
「寝言は寝て言えタコ!」
今年二十一になる友也の顔面にビールを浴びせて蹴りを入れると友也は渋々自分の席に戻っていた。
賑やかな食事が終わると、幸村は渚に風呂に入る様に促されて準備をしていた。片付けを手伝うと言ったのだが、「邪魔だからさっさと行け」と一喝されてしまったので着替えを持って風呂場へ向かう。するとそこに友也が立っていた。
「お前さ、渚とどういう関係?」
暗い廊下でそう問いただされ、幸村は少し困っていた。同じ学校の先輩と後輩……と言うだけでは実家まで遊びに来る理由には少し足りないだろうか?
「携帯番号を交換する様な関係ですかね」
「なんか嫌みな言い方だな。まぁいい、Hしたのか?」
変な言い方をしたつもりはなかったのだが、幸村は友也の言葉を聞いて顔を赤くした。
「しっ……しませんよ!」
「だよなぁ、あいつ頭固いから……」
友也がそう言って廊下を歩いて行くと幸村は脱衣所に入った。考えた事も無かった事をいきなり言われてまだ熱が冷めない。ゆっくりと深呼吸するが幸村は両手で顔を覆うと、その場から動けなかった。
渚は片付けを終えて部屋で参考書を読んでいた。薄い障子と襖でしか仕切られていない部屋で両耳にイヤホンをつけて英語のCDを聞いていると、少し気持ちが悪くなって鞄に手を伸ばした。内ポケットの中から薬瓶を取り出して錠剤を二錠掌に転がす。鞄の中からペットボトルを取り出して蓋を開けると、薬を口に放り込んで水と一緒に飲み込んだ。冷たい水と一緒に薬が咽を通り過ぎると大きく息を吐く。
「それなんですか?」
幸村の声に気付いて振り向くと、障子が少し開いていて幸村が立っていた。渚は薬瓶を鞄の中に入れると着替えを持って立ち上がる。
「ラムネだ」
「ラムネは噛まずに水と一緒に飲むものではありませんよ?」
幸村の言葉に少し苛ついていたが、幸村のTシャツを見て一度思考が止まった。
またそんなの着やがって……なんか独特な感性だよなぁ……オレだったら絶対着ない。
渚はそう思いつつ、幸村のTシャツに描かれた絵を眺めた。鰯の頭が、口を閉じて上を向いた状態の絵が描かれている。その鰯の目が、まん丸でとぼけた表情に見える。筆で『堅口鰯』と書かれていた。
「勝手に覗いてんじゃね~よ」
「すみません。お風呂上りましたから声をかけたんですけど、返事が無かったので……」
イヤホンをつけていたので聞えなかったのだろう。渚は舌打ちして部屋の障子を閉めると風呂場へ向かう。
身体だけ洗って早々に風呂を後にするとボーダーTシャツと三分丈スパッツ姿で自分の部屋に戻った。部屋に入ると、布団が敷いてあった。美野里さんが敷いてくれたのだろう。渚は電気を消すと倒れる様に布団に突っ伏した。
まだ今日のノルマ四ページある……
そう考えながら枕元に置かれた参考書に手を伸ばした所までは覚えていた。
ーー気泡がどんどん上へ上へとのぼっていく。けれども体はどんどん水の底へ沈んで行く。ここは暗い。冷たい水の中……言いしれない恐怖と孤独が自分を襲う。早く、早く動け、もっと早く……暗い水の中で必死に目を凝らした。
ノアは何処? ーー
自分の身体に何かを掛けられる感触に気付いて目を覚ますと寝ていたのかと気付いて周りを見渡す。
「風邪引きますよ?」
隣の部屋との仕切りになっている襖が開いていて、幸村が渚の身体に毛布を掛けている所だった。
「大丈夫ですか? 倒れる様な音がしたので心配で覗いたんですけど……」
勝手に覗くなと言ったさっきの言葉に先に釘を刺された様な物言いだった。渚は息を吐くとゆっくりと身体を起した。まだ少し吐き気がする。
「心配するな」
「でも……」
「明日早いんだからさっさと寝ろ」
殴ってやりたかったがそんな元気も無かった。それを察したのか幸村は隣の部屋に入って襖に手をかける。
「何かあったら呼んで下さいよ?」
そう声をかけられたが渚は聞えないフリをして布団に横になった。幸村もそんな渚を見てそっと襖を閉める。
「おやすみなさい」
幸村の声が暗い部屋に響いた。渚はそっと目を閉じて眠りに就いた。
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