第22話 薔薇

 渚はイライラしていた。こんな格好を兄貴に見られたらまた豚に真珠だの、馬子にも衣装だの嫌味を言われるに決まっている。そう思って早目に家を出て来たのに、幸村は何も知らされておらず、何処へ行きたいかと聞いても

「渚さんの行きたいところで」

 と適当な返事をされ、取り敢えず駅へ向かっている。

「あれ? 深森?」

 葵の声がして、渚と幸村は歩を止めた。思わず渚が幸村の後ろに顔を隠す。

「葵さん、おはようございます」

「お前、渚にぞっこんだと思ってたのに意外と器用な奴なんだな」

 葵の言葉に渚は気付かれて居ないのだと思った。当然だろう。いつもならTシャツとGパンや、上下ジャージで彷徨いているのだから、分かるはずがない。

 けれども幸村は渚の両肩を掴むと、渚の身体を葵の前に向けた。葵が驚いた様な顔をして、目を伏せた。

 何だよ? さっさといつもみたいに嫌味言ってみろよ。顔面殴ってから回し蹴り食らわせてやる。

「良いじゃん」

 葵の意外な言葉に、構えていた拳をどうして良いのか分からなかった。

「可愛いと思う」

 葵が気恥ずかしそうに言って走って行ってしまうと、渚は呆気に囚われていた。

 いつもなら、罵詈雑言の嵐なのに……

「良かったですね」

 幸村に言われ、渚は何とも複雑だった。

「……なんか気持ち悪い」

「渚さん、葵さんが褒めてくれたのに……」

「あいつなんか最近変なんだよ。よそよそしいというか、他人行儀というか……」

 あの寝ぼけ事件から、葵の様子が変わっていた。

「お前、兄貴になんか言った?」

「どうしてそう思うんです?」

 質問に質問で答えるな! と言いたいが、渚は少し視線をそらせた。

「……なんとなく……」

「渚さんと仲直りするように言いました」

「余計な事を……」

「余計でしたか?」

 不意に、葵に押し倒されて服を脱がされそうになった時のことが思い起こされて首を横に振った。

「いや、まあどうせそのうちまたいつもの馬鹿兄貴に戻るんだろうけど……」

 渚はそう呟いて幸村を見上げた。

「あのさ」

「はい?」

「お前、ノアと付き合えよ」

 幸村は驚いて目を見張った。

「ええ?!」

「お前ならさ、あのクズ兄貴に比べたらまだマシだし……」

「渚さん、酷いですっ」

 幸村が怒ると、渚は眉根を寄せた。『クズ兄貴に比べたらまだマシ』と言ったのが気に入らなかったのだろう。さっさと嫌気が差してどっかへ行ってくれと思った。

「葵さんにも、ノアさんにも失礼ですよ」

 そう言われ、渚は目を丸くした。

「誰でも良いってわけではないです。ノアさんにはノアさんなりの考えがあって、葵さんには葵さんの考えがあって、お互いにお付き合いをしているんです」

 渚はノアと葵が付き合い始めたきっかけを思い出したが、あの軽いノリで付き合い始めた二人に、そんな深い考えは正直無いと思う。

「僕も、渚さんじゃないと嫌です」

 幸村が真剣な眼差しで言うと、渚は何とも言えない居心地の悪さを覚えた。渚が黙っていると、今度は幸村が渚の手を引いた。



 幸村は悩んでいた。デートなど生まれてこの方一度もしたことがない。今が五月だということを思い出して薔薇園に来た。母は薔薇の好きな人だった。五、六月と十、十一月になると、必ずここへ来ていた。家族でお弁当を持ってピクニックに来るのが恒例行事だった。今年はまだ一度も来ていなかった事を思い出していた。

 広い庭園に色とりどりの薔薇が所狭しと咲いている。煉瓦造りの植え込みや、柱の角に弟の姿を探すが、あの小さな手も、何処へでもうろちょろする小さな背中も見つかることが無いと思うと辛かった。南欧風の建築の中に咲き乱れた薔薇の中に家族連れを見つけると、なんとも言えない苦い思いをした。

「どした?」

 不意に渚に声を掛けられて幸村は渚を見た。すぐ無意識に目を背けてしまった。

「いえ、別に……」

 幸村がそう呟くと、渚は幸村の腕を引き、ベンチに座らせた。渚も幸村の隣に腰掛けると、徐ろにヒールを脱ぎ始める。幸村は渚が何をしているのか分からなかった。渚が片足をベンチに上げると、スカートが捲れて幸村は目を背けた。

「渚さん?」

「ん? ああ、すまん。ハイヒール履き慣れてないから靴擦れした。絆創膏貼るだけだから気にすんな」

 それを聞いた時、やっと渚がヒールを履いていたのだと気付いた。

「すみません……」

 割と広い園内だった。ヒールで歩かせるには高低差があり過ぎた。

「いいよ。薔薇、綺麗だったし」

 渚はそう言いながら踵に絆創膏を貼っている。もう片足にも絆創膏を貼ると、軽く息を吐いた。

「こっちこそごめんな。罰ゲームに付き合わせて」

 渚の言葉に幸村は渚の顔を見た。少し怒っているようだった。

「罰ゲームだなんて……」

「お前、オレの事好きじゃないだろ?」

 幸村は思ってもない事を言われて驚いた。

「え……」

「これから先、誰かとは付き合うんだろうから言っとくけど、女眼の前にして、そいつの事見てやらないのって失礼だから、オレ以外には絶対するなよ。そりゃあ、ノアが何も言ってなかったのも悪いかもしれないけど、それを差し引いたって、お前の態度はどうかと思う」

 渚の話しに、幸村は目を伏せた。

「すみません……」

「まあ、オレにそれ程魅力が無いってのも問題なんだろうけど……」

 渚がそっぽを向いて呟くと、幸村は顔を上げた。

「そんな事……」

「時間取らせて悪かったな。適当に時間潰して帰るから、お前も気にするな」

 ヒールを履いて立ち上がると、幸村は渚の手を取った。けれども何を言えば良いのか分からなくて言葉が出て来ない。何を言っても言い訳がましいと思った。渚はそんな幸村をベンチに座らせると、両手で幸村の頬を掴んだ。顔を向けさせると、幸村のおでこに額をくっつける。幸村は一瞬、何をされたのか分からなかったが、肌が触れる感触と、微かにする香水の香りで顔が赤くなった。

「なっ」

「熱は無さそうだな。体調悪いなら家帰れ。送ってくから」

「べっ……別に体調が悪いわけでは……」

 心臓が高鳴って、何も考えられなかった。渚はそんな幸村の様子に眉根を寄せる。幸村が目をそらすと、渚は幸村の手を取った。

「お前さ……」

 幸村はゆっくりと渚を見たが、渚は少し怒った様な顔をしている。

「脈拍上がり過ぎだろ。ちょっと病院行こう。顔色も悪い」

 思わず、渚の手を払い除けてしまった。

「これは違うんです!」

「予防接種嫌がる子供かよ。駄々こねんな」

「違うんですって!」

 幸村がそう言うと、渚は幸村の隣に座って幸村の肩に手を伸ばした。幸村を抱き寄せると、そのまま膝に幸村の頭を乗せる。幸村は恥ずかしくて両手で顔を覆った。

「このままここで休むのと、家で休むのどっちがいい?」

 渚が耳元で囁くと、幸村は声を絞り出した。

「……帰ります」

 幸村はぽつりと観念したように呟いた。

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