第28話 別れ

 心臓が早鐘の様に高鳴った。幸村が開け放した部屋の奥に、三つの位牌と、写真が見える。位牌の置かれた小さな机の傍に真新しい使われることのなかった黒いランドセルと、黄色い帽子が置かれている。渚は幸村を見た。

「僕の父と母と弟です。弟とは十歳離れていました」

 幸村は聞かれても居ないのに淡々と喋った。

「年末に親戚の家に行く途中、崖から落ちて三人共即死でした。僕は体調が悪かったので留守番してました。体調の悪い僕を気遣って旅行を取り止めると言った親を説得して送り出したのは僕です」

 幸村は静かに続けた。

「僕が殺したんです」

「違う!!」

 渚は叫んだ。幸村の気持ちは痛いほど解った。後悔しているのだ。もしかしたら、引き止めていたら家族が死なずに済んだかもしれないのに、自分だけ生き残ってしまったと自責の念に追われているのだ。自分と、同じだと思った。

「だから別にどうでも良いんです」

 幸村の言葉に渚は息を飲んだ。

「このままあなたに殺されても、僕の死を悲しむ家族は居ません。あなたが目を覚まして息を吹き返したとしてもそれは変わりません。だから僕は、あなたの夢に入る事にしました」

 渚はゆっくりと幸村の顔を見た。何もかも諦めた様な冷たい眼差しをしている。嘘では無いのだろう。

「どうします?」

 幸村の言葉に渚の瞳が揺れた。

「このまま夢の中に居ても良いですよ? 葵さんと、ノアさんと、ずっと楽しい時間を過ごす事が出来ます。でも、僕の身体は確実に死にます。僕は身体が死んでもここから出る術がありません。渚さんに嫌われても、ここには居続けなければなりません。渚さんと違って、ここには僕の両親と弟は存在しないので、こっちも現実も変わらないんです」

 渚は幸村の襟首を掴むと、そのまま床に押し付けた。馬乗りになって幸村を睨むが、幸村も真っ直ぐ渚を見据えている。

「……ふざけんなよ」

 全部嘘だと言ってほしい。けれども渚の思いとは裏腹に幸村は澄ました顔で話した。

「ふざけていません。でも良いですよ? 僕の事なんか気にしないで下さい。でも、今までの渚さんを見ていたら、そういうこと出来そうに無い人だと思いました。自分のせいで誰かが死ぬと解っていて平気で居られる人じゃないですよね」

 渚は思わず拳を振り上げたが、振り下ろす事が出来なかった。

「同情してくれますか?」

 幸村の言葉に渚は唇を噛み締めた。涙が溢れて幸村の頬に当たると、必死に声を絞り出す。

「何で……」

 好きだった。けれども一緒に死んでほしくはなかった。生きて、幸せになってほしかった。自分とは違って、幸村にはそれが出来ると思っていた。

 幸村はそんな渚を見て辛そうに笑った。

「それとも、僕も連れて行ってくれますか?」

 渚は顔を歪めると必死に声を絞り出した。

「あとどれくらい時間がある?」

 渚が聞くと、幸村は視線をそらした。渚は何も言わない幸村の頬を叩くと立ち上がる。

「目、覚めたら一発殴らせろ。お前と心中なんて真っ平御免だ」

 渚が吐き捨てて玄関を出て行く。幸村は身体を起こすと、渚に叩かれた頬に触れた。

「渚さん……ごめんなさい……」

 誰もいなくなった部屋に幸村の声が響いた。



 渚はノアと葵がカフェテラスでお茶している所を見た。あの輪の中に自分もずっと入っていたいという気持ちを必死に押し殺す。いつもの癖で葵の顔面を殴ると、椅子ごと後方に倒れた葵は殴られた頬を擦りながら起き上がった。

「いってーな! 何すんだよこのっ」

 泣きたいのを必死に堪えた。

「オレ兄貴に、ここに居て良いって言われた時、すごく嬉しかった!」

 渚が叫ぶ様に言うと、ノアは驚いた顔で葵を見た。

「兄貴と兄妹で良かった。ずっとこの時間が流れれば良いと思ってた」

「渚……」

 ノアがオロオロして渚に手を延ばすと、渚はその手を取った。

「いつまでもガキみたいに兄貴についていくの嫌気がさしたから先に行っとけ馬鹿兄貴! ノアを泣かしたら許さないからな!」

 必死に気丈に振る舞った。葵はそれを聞くと、立ち上がって渚の手を取った。

「俺も、お前が妹で良かった」

 葵は気恥ずかしそうに言った。

「……じゃあな」

 渚が目を細めて呟くと、ノアは涙を堪えた。

「私は、ずっと渚の味方だからね!」

「知ってるよ」

「どうせなら楽しんで来いよ!」

「世界中旅して自慢してやるよ」

 渚がそう言うと、葵とノアは笑った。渚は少し辛そうに、けれども必死に笑顔を作った。

「さよなら」

 三人でそう言い合って、二人の姿が消えると、渚の身体がどんどん上へ昇っていく。

 あ〜あ、もう少し、夢の中にいたかったな……



 渚が目を覚ますと、勇輝がベッド脇に居た。勇輝は渚が目覚めると、慌ててナースコールを押し、ケータイで電話をかけた。勇輝の隣に居た四帆が目を丸くしてこっちを見つめている。

「もしもし? 母さん、渚が起きたぞ! 皆にも伝えろ!」

 勇輝の嬉しそうな声に渚は少し残念そうに周りを見回した。腕に点滴が繋がれていて、消毒液の臭いがする。白いカーテンと天井が、病院である事を主張していた。

「渚ちゃん、おはよう」

 四帆がそう声をかけて抱えていた何かを近付けた。

「お姉ちゃんがやっと起きたよ。ボクよりお寝坊さんねって言ってあげて」

 渚の枕元に小さな赤ちゃんを置くと、四帆はそっと赤ん坊を撫でた。甘いミルクの匂いのする小さな赤ん坊に、渚はそっと目を細めた。

「幸村は?」

 渚が聞くと、勇輝と四帆は首を傾げた。

「幸村って誰?」

 渚はそれを聞いてゆっくりと瞬きをする。

「ゴールデンウィークに連れて来たろう?」

「何言ってんだよ。渚、今年は一人で帰って来たじゃんか」

 渚はまた、少し考えて瞬きをした。自分の記憶の誤差に頭を悩ませる。

「友也が刈り払い機で怪我した時居ただろ?」

「渚、お前が一人で友也を助けたろ? 草刈機のエンジンぶっ壊したの忘れたのか?」

 渚はそれを聞いてゆっくりと溜め息を吐いた。

「……そうか」

 白い天井が、なんだか物悲しかった。勇輝はそんな渚に、まだ頭のネジが緩んでいるのだと思った。

「渚ちゃん、渚ちゃんが居なくなって、村中大騒ぎだったの。近所の畑山さんが、川田さんとこの敏雄くんと一緒に歩いてたのを見たって言い出して……」

 渚はそれを聞きながらゆっくりと瞬きをした。すると今度は勇輝が話し始める。

「村中の男達に詰められて敏が神座池であったことを話したんだ。男連中、みんな発狂して……若い女の子に何手を出してるんだってもう……酷い有様で……袋叩きにされて村中引き回しにされて、警察に逃げ込んで今は務所に入ってる」

 何だそれ……

 渚はそう言いかけたが、言葉にならなかった。

「皆で池の底を総ざらいしたんだけど見つからなくて、婆ちゃん泣いてた。そしたらさ」

 水滴が一つ落ちる音がした。

「祠の裏から白蛇が二匹出てきてさ、あんなに探して見つからなかったのに、その蛇が渚の身体を池の中から引っ張って、岸まで連れてきたんだよ」

 渚の脳裏に、葵とノアの顔が浮かんだ。

「あれが水の神様だったのかな? 分かんねぇけど……渚が呼吸してるって四帆が言った時、まさかって思った。不思議だよな」

 渚は必死に涙を堪えていたが、堪らず泣き出してしまった。もう、夢に帰れないのだという現実が、酷く辛かった。



 雪が降っていた。渚は退院すると、祖父母達の反対を押し切って直ぐ家に帰った。家に荷物を置いて直ぐ、幸村のアパートを訪ねていた。茶色のチェスターコートに、チェックのスカートの裾を気にする。髪は少し伸びて肩にかかるくらいになっていた。

 気付いてくれるだろうか?

 幸村の事を考えながら呼び鈴を鳴らした。

 先ずは一発殴って、それから……どーせまた、あのクソダサい服を着ているんだろうから、服屋に連れ出して見立ててやろう。全部夢だったのだから、多分、あの変な服しか持ってないんだろう。

 色々考えていたが、ドアは開かなかった。何度か呼び鈴を鳴らしても誰も出て来ない。留守だろうかと少し待っていると、隣の部屋が開いてお婆さんと目が合った。

「あの……ここに住んでた人って……」

 老婆はドテラの前側を重ねて腕を組んでいる。訝しそうに渚を見つめると、口を開いた。

「もうかれこれ半年以上誰も住んじゃ居ないよ」

 老婆の言葉に渚は困惑した。

「あの……深森って人が……」

「あ〜、深森さんかい? あんた知らないの? ご両親と誠君が亡くなって、高校生の幸村君は親戚の人の所に引っ越したよ」

 渚は耳を疑った。

「え……あの……引っ越し先とかご存知ないですか?」

「知らないよ」

 バタンとドアが閉まると、渚は言いしれない不安に襲われた。

 遅かった? 間に合わなかった? また、私は選択を間違えたんだろうか? もしくは幸村なんて、最初から居なかった……?

 渚はとぼとぼと一人歩きながら色々考えた。考えていたらどんどん悲しくなって来て涙を流していた。

「やっぱり、夢の中の方が良かった……」

 渚の呟きが冬の風に攫われた。

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