第20話 復讐
葵は喫茶店で出されたお冷やを一気に飲み干すと、大きく息を吐いた。
「あの野郎、本気で殴りやがって……」
腫れた頬に冷たいお手拭きを当てて冷やしていた。幸村はそんな葵の前に座ると、メニュー表を開く。
「殴った渚さんも悪いですけど、葵さんも悪いですよ。謝りに行きましょう?」
「ぜってーいやだ!」
葵はそう言いながら「大体、チューくらいで動揺しすぎなんだよ」と小言を言った。
「深森も大変だろ? あんな歩く兵器みたいなのと一緒に居て……」
「え、全然大変じゃなかったですよ? 色々と教えて頂きました」
幸村が何の気なしに言うと、葵が立ち上がった。
「ほう……? いろいろと……?」
髪の毛が逆立っていて、目が獣の様に光っていた。何故か殺気立つ葵にまた誤解を生むような言い方をしたのだろうかと幸村は悩んだ。
「田植え機とか、草刈機の使い方とか教えてもらいました。車のタイヤ交換って思っていたよりも簡単なんですね」
幸村がそう話すと、葵は誤解に気付いて座り直した。
「まあ……そうだよな。あいつに限ってそれは無いか」
「渚さんの事、心配ですか?」
「ああ? 誰があんな奴」
葵はそう言いながら大きな溜息を吐いた。
「んで? お前はどうなんだよ? 渚の事」
葵は即答されるものと思っていたのに、意外にもなかなか返事が出なくて幸村を見た。幸村は困った様な顔で俯いている。
「正直、ちょっと悩んでます」
「……変な奴」
「渚さん、薬飲んでますよね?」
幸村が聞くと、葵は少し考えた。
「あ〜……イブプロフェンかリオナ錠だろ」
幸村は薬の名前を聞いてもピンと来なかった。
「何ですかそれ?」
「イブプロフェンは痛み止め。リオナ錠は鉄剤。あれが来るといつも飲んでるんだ」
葵が呟くが、幸村はピンと来なかった。何か悪い病気なのだろうかと心配しているようだった。
「あれ?」
「生理だよ」
葵にそう言われ、幸村は顔を真っ赤にして両手で顔を覆った。葵はそんな幸村の動揺ぶりに驚いた。
「え、お前、中学生かよ……」
「すいません、僕、そういう話題に疎くて……」
「いや、性教育受けたろ……まあ、うちは両親二人共医者だからそういうのに抵抗無いけど……生物学上メスなら犬でも猫でも起きる現象にそれは無いだろ? ええ、ひくわぁ」
葵がげんなりしていると、幸村は必死に平静を装った。けれどもまだ顔が赤い。
「葵さん、十年前の事なんですけど……」
幸村に急に言われ、頭を悩ませた。
十年前? 俺が六歳の頃か……
「何かあったっけ?」
「従兄弟の正孝さんに会いました」
『正孝』と聞いて葵はやっと思い出した。
「自分が亡くなったのは渚さんのせいじゃないと伝えてほしいと言われたんです。渚さんにはその言葉を伝えたんですけど、信じて貰えなくて……」
「あ~……あれなぁ……」
「渚さん、葵さんに『お前が死ねばよかったのに』と言われたことを今でも引き摺っているみたいですよ」
「知ってるよ」
葵が即答すると、幸村は驚いた様に目を丸くした。
「実家へ行ったならお前も気付いただろ? 親戚連中みんな男ばっかりなんだよ。それで、やっと生まれた女の子が渚。親戚中みんなにもてはやされてたんだよ。その上小児喘息持ってたから親連中はみんな渚、渚って甘やかして……重いものとか『女の子だから持たなくていい〜』とか、しんどいことでも『女の子だからやらなくていい〜』とか、そんなのばっかり」
葵はそう言いながらお冷やのお代わりを飲んだ。
「それなのにあいつ、俺たちと遊びたがったんだよ。トロイし、ボールもろくに取れないくせに、何処までもついて来て、何回失敗しても『もう一回! もう一回!』ってうるさくて、それであの事故で正孝兄貴が亡くなって、そりゃ嫌味の一つも言いたいだろ? それでふさぎ込んで引きこもりにでもなれば良いと思ったのに……」
葵はそこまで言って両手で額を押さえた。
「あいつ自分で自分の髪を全部切ってたんだぜ。馬鹿だよな。親が買った可愛い服全部裂いて、弟になったつもりでいやがんの。アホだろあいつ。背格好まで似て来たから面倒臭い塾とか全部あいつに押し付けてやったんだ。一学年上の勉強なんか出来るわけないじゃんって思ってたのに、さっさと成績抜かれちまった。本当最悪だよ」
葵が愚痴ると、幸村は悲痛な面持ちで葵を見上げた。
「渚さんに、謝ってあげて下さい」
「は? 嫌に決まってんだろ」
「本当にこのままで良いんですか?」
「良いに決まってんだろ。これは復讐なんだ。女ってだけであいつばっかり良い思いして、親にもちやほやされて、むかつくんだよ! あいつだけ……」
葵が鼻息荒く言うと、その続きが出て来なかった。羨ましかった。あいつが妬ましかった。だって自分は駄目だったのに、あいつだけ……
そんな葵の様子を見た幸村はゆっくりと深呼吸した。
「お前、兄弟居る? 出来の良い妹と何かと比べられて弾かれる人間の気持ち分かるか? 学校へ行ったって渚のお兄さんって言われるんだ。やってらんねぇよ!」
葵が怒鳴ると、幸村は目を細めた。
「……僕には歳の近い兄弟が居ませんから、葵さんの気持ちは分かりません。でも、渚さんも、自分ではどうすることも出来ない『性別』というもので悩んでいました。判官贔屓かもしれませんけど、僕からすれば、渚さんが可哀想です。お兄さんに認められたくて、頑張っていたのに……」
葵は眉根を寄せた。
「俺に認められたい? あいつが?」
「でなきゃ、普通ここまでしないと思います。男の子のフリをして……塾だってお兄さんの代わりになんて本来行く必要無いでしょう? 葵さんの代わりに、塾で良い成績残せたら、誉めて貰えると思ったんじゃ無いでしょうか?」
「それがいい迷惑なんだよ」
葵が呟くと、幸村は溜め息を吐いた。
「渚さんが挫折する様に仕向けていたのに、渚さんが努力でのし上がったのが気に入らなかったんですね」
図星を刺されて葵は苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「自分よりも馬鹿で何も出来ない妹でいて欲しかったんですか? そうすればご両親は葵さんを誉めてくれますもんね? 渚さんを自分の引き立て役にしようとしていたのに、思い通りにならなくて妬んでいたんですね」
「悪いかよ」
葵が呟くと、幸村は少し考える素振りをした。
「まるで呪いですね」
「呪いって……」
「渚さん、神座池に入ったんですよ」
幸村の言葉に葵は目を瞬かせた。葵の脳裏に、池の中に入る渚の後ろ姿が過った。ざまあみろと思った。そのまま沈んで二度と上がってくるな。そうすれば……
「……それがどうした? あんな奴、あの時死んどけば良かったんだよ」
葵はそう呟くと幸村から離れた。葵が喫茶店を出て行くと、幸村は困った様に俯いていた。
「にいちゃーん」
記憶の彼方から子供の声がする。葵が振り返ると、五歳だった頃の渚がにこにこして手を振っている。髪はツインテールにしていて、髪の先が肩の上でぴょんぴょん跳ねていた。オレンジ色の花柄ワンピースは、祖母が作ったものだ。
「なんだよ。ついて来るなよ」
葵が渚から目をそらすと、渚は小さな手で葵の手を掴んだ。
「にーちゃん、遊んで遊んで!」
「うぜぇ」
渚の手を振りとくと、今度は大きな手が葵の腕をしっかりと掴んだ。葵が振り返ると、成長したいつもの渚が手を握っている。白いシャツを着た渚は、睨む様に葵を見ていた。
「離せよ」
渚に掴まれた腕が濡れている事に気付いた。手を離そうとすると赤い血が渚の指の隙間から零れて落ちていく。
渚の着ていた白いシャツがどんどん赤く染まり、足先からぶくぶくと水の泡に包まれて渚の姿が沈んで行った。
葵は布団の中で目を覚ました。まだ、渚に掴まれた手の感触が残っている。
ーー嫌な夢だ。
まだ外は薄暗い。幸村と別れて家に帰ってから寝ていたのだ。時計は朝五時を指している。
深森が変な話しするから……
そこまで考えて、首を傾げた。
どっからどこまでが夢……?
急に言いしれない不安が込み上げた。家の中を探すが渚の姿が見当たらない。
不意に幸村の声が思い起こされた。
『渚さん、神座池に入ったんですよ』
葵の脳裏に、渚が池の奥へと沈んで行く姿が映る。腰辺りまで水に入っていて、肩が沈み、頭の先まで池の中へ入って行く。どんどんそのまま深くまで行って、水の底まで落ちていくのを、葵は〝見て〟いた。
そうだ。もっと深みまで入って行けと思った。そのまま沈んで死んでしまえばいいと思った。だって、あいつだけなんて狡いから。
玄関のドアが開く音がして、葵は玄関に向かった。渚が葵を見て驚いた様な顔をしている。渚はドアを閉めると、荷物を土間に置いた。
「今、朝ご飯作るから」
渚がそう言ってリビングへ向かうと、葵は渚の身体を押し倒し、服を捲った。渚なら、脇腹に大きな傷があるはずだった。けれども抉れた腹に傷は無い。
「何すんだこのクズ!」
腹を蹴られて、葵は蹲った。
「寝ぼけんなこのっ……」
渚が言葉を止めると、葵は蹴られた腹の痛みを確かめながら深呼吸した。
「……お前、何でここにいんだよ?」
葵はゆっくりと顔を上げると、渚を睨んだ。
死んだはずなのに……
「なんでここにいんだよ?!」
葵が怒鳴ると、渚は目を細めた。
「居ちゃ駄目か?」
葵は訳が分からなくて、自分の部屋に閉じこもった。
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