第16話 神座池

 渚は農作業を終えて一息ついていた。縁側についた風鈴が音を立てている。縁側に腰かけてお茶を飲んでいると、軒先に緑の頭が近付いて来るのが目に入った。渚は昨日の事を思い出して立ち上がると、台所へ向かった。幸村が少し首を傾げていると、敏雄が幸村の隣に腰掛けた。

「あのさ、ちょっと相談があるんだけど」

 敏雄が耳打ちすると、幸村は首を傾げた。

「渚の奴、頭硬いからさ、ちょっと観光に行きたいって誘ってやってくれねぇか?」

 幸村はピンと来なかった。

「えと……すみません、僕、観光に来たつもりは無くて……」

「く〜!! こいつも真面目かよっ」

 敏雄が歯軋りすると、渚が何か持って来て敏雄の頭を叩いた。敏雄が振り返ると、渚は持っていた紙袋を差し出す。

「昨日はありがとな」

 渚がそう言うと、敏雄は紙袋を受け取った。中にはゼリーが四つ入っている。敏雄はそれを見ると、ちらりと渚を見た。

「足んない」

「はあ?」

「お礼にデートしてくれ」

 敏雄がそう言うと、渚は苛ついていた。

「何? どつかれたい?」

 渚の言葉に敏雄は不機嫌そうな顔をして立ち上がった。

「神座池で待ってるからさ、来いよ」

「行かねーよ」

 渚が即答すると、幸村の手を引いた。

「じゃあこいつ借りてく」

 敏雄の言葉に渚は視線を泳がせた。

「わかった」

「渚さん、僕行ってきますよ。力仕事なら僕の方が良いし……」

 幸村の言葉に敏雄は戸惑って渚を見た。渚は素知らぬ顔をして幸村に話しかける。

「幸村、ちょっと出て来るから美野里さんの手伝いして貰えるか?」

「僕も行きますよ」

「手伝いじゃねーよ。ちょっと話つけてくるだけだから、お前は待ってろ」

 渚はそう言って敏雄と一緒に歩いて行く。幸村は何となく嫌な予感がしていた。



 杉の木が生い茂っていた。足元の雑草を踏む度に叢からバッタが飛び跳ねて逃げて行く。渚は森の中を歩いていた。少し行くと視界が開けて池が見えて来る。木々の葉が池の周りだけ避けて青い空が広がると、その池の真ん中にある祠が目に入った。

「お前さ、ああいうのがタイプだったの?」

 敏雄がぽつりと呟いた。

「はあ?」

「あんな何にも出来ない男の何処が良いんだよ?」

「あのな、最初から何でも出来る奴なんか何処にも居ねぇんだよ。お前だって車のタイヤ交換、オレが言わなきゃ出来なかったろ?」

 渚の言葉にぐうの音も出ない。

「あいつとはお前が思ってるような関係じゃねーから、からかって虐めるような事はするな」

「じゃあどういうタイプが好みなんだよ」

 敏雄が聞くと、渚は視線を泳がせ、少し考える素振りをした。木々の木漏れ日が光のシャワーみたいだった。

「……栗林忠道みたいな男かな……」

「誰だよそれ」

「硫黄島の戦いの時の、日本軍守備隊の最高指揮官」

「うっわっそれが女子高生の言う事かよ。せめてジャ◯ーズのなんとかとかにしとけよ」

「じゃあ聞くなよ」

 渚が溜め息を吐くと、敏雄は苛ついていた。

「じゃあ逆に聞くけど、何でオレに突っかかって来るんだよ? お前、去年までデートしてくれとか言ったこと無かったじゃん。オレが幸村連れてきたから変な気起こしたんだろうけど……」

「俺は前から渚の事が好きだったの!」

 敏雄が叫ぶ様に言うと、渚は意外そうな顔をした。

「は? 気持ち悪」

 まさかそういう目で見られていたという事実に何とも言えない遣る瀬無さを覚える。

 敏雄は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

「どの辺にそんな要素があんだよ?」

 ミニスカートを履いていたとか、そういう男を誘う様な格好や言動をしていたとか言うならば、こちらにも落ち度があるかもしれないが、自分に限ってそれはない。何か勘違いさせてしまっているなら改められる部分は改めよう。

「胸とか」

 敏雄が即答すると、渚は思わず敏雄の顔面を殴っていた。敏雄がよろけて殴られた頬に手を当てると、渚は敏雄を睨みつけた。

「お前、オレ以外に絶対そういうこと言うなよ」

 渚がそう言って来た道を戻ろうとすると、敏雄は渚の腕を掴んだ。

「待てよ!」

 渚が腕を振解くと、敏雄は唇を噛み締める。渚はそれを見て呆れた様に溜息を吐いた。

「……お前のそういう、いい歳して駄々こねてりゃ周りが自分のご機嫌とってくれるって考えがモテない要因だって事くらい、気付いた方が良いぞ」

 敏雄は渚を睨みつけると、渚は眉根を寄せた。

「女なら女らしく、男に媚売るって事くらい覚えろよ」

 敏雄が渚の肩を掴むと、渚は敏雄の襟首を掴んだ。

「女に媚売って貰うのが当然とか片腹痛えよ。オレに惚れられたきゃ、その根性叩き直して出直して来い。このクズ!」

 渚が敏雄をどつくと叢に尻餅をついた。

「兎に角話はこれで終わりだ。二度とオレにアホな冗談言うな」

 渚がそう言って来た道を戻ろうとすると、敏雄の目の端に誰かが忘れて行った鎌がちらつく。叢の中で鈍い光を放っていた。

「冗談……?」

 敏雄は指の端に触れた鎌を掴んだ。敏雄の脳裏に悪い事が過った。

 どうせ自分のものにならないのなら、誰かに取られる前に……

 敏雄は渚の背中を追うと、腕を掴んだ。渚が振り解こうとすると、そのまま渚の背中に鎌を振り下ろす。肩に当たったが、渚が屈んで敏雄の足を蹴り払うと、敏雄は体制を崩した。地面に叩きつけられて大きな音がする。直ぐに起き上がって渚の襟首を掴むと、渚を池の中へ放り込んだ。渚が起き上がろうとすると、敏雄は渚の頭を掴んで水の中へ押し込んだ。

「お前が悪いんだ。お前が……」

 じたばたしていた渚の体が動かなくなると、敏雄は渚の体を水の中から引き揚げた。作業着のファスナーを下して上着を開くと、濡れた白いシャツにタンクトップが透けている。敏雄が少し膨らんだ胸に手を伸ばそうとすると、渚が咳込んで水を吐いた。敏雄はとっさに鎌を拾い上げた。



 大丈夫……かな……

 幸村は茜色に染まる雲を見つめながらそう思った。話をつけるだけと言っていたが、心配だった。多分、敏雄は渚に恋をしているのだろうとは思う。渚はそれを知ってか知らずか、相手にしていない様にも見えた。一方通行な恋愛感情が、悪い方へ向かわなければ良いのだがと思いつつ、敏雄の方が年齢は上だ。その辺は大丈夫だと思いたい。二人が何処へ行ったのか分からないが、敏雄が『神座池』と言っていたのを思い出してそっちへ歩を進める。森の中を歩いていると、渚の声がした。

「女に媚売って貰うのが当然とか片腹痛えよ。オレに惚れられたきゃ、その根性叩き直して出直して来い。このクズ!」

 相変わらず、凄いこと言うなぁと幸村は思った。何か言い争う様な、もみ合う様な音がして足早に走った。森が開けた池の方へ行くと、敏雄が池の畔に座っているのが見えた。周りを見渡すが、渚の姿は見当たらない。布を裂くような音がして敏雄の後ろ姿に近付くと、渚が倒れて居るのが目に入った。渚の服の下を見た敏雄が動揺している。敏雄が持っていた鎌を渚が取り上げて腹に蹴りを入れると、敏雄は低く呻いて渚を見た。

「……オレ以外に、絶対こんな事すんなよ」

 まるで人を裁く様な、鋭い眼で敏雄を睨んでいた。渚の目に気圧されて敏雄が逃げて行く。

 幸村が困惑しながら渚に近付くと、渚は胸を庇って後退った。

「悪い。ちょっと今……」

 渚が言いかけて肩を抱くと、幸村は渚の様子を伺った。作業着の上着の肩に血がついている。

「渚さん、何処か怪我しましたか?」

「……大した事ない」

 渚が俯いてそう言うと、幸村はどうしていいか分からなかった。濡れた髪の先から落ちる雫が、真珠みたいだった。

「取り敢えず、風邪を引いたらいけないので、帰りましょう?」

「先に帰ってろ」

 渚が膝を抱えてそう言うと、幸村は渚の傍に寄った。

「近付くな!」

 渚が叫ぶと、幸村は戸惑った。渚はそんな幸村を見て目を伏せる。

「悪い。ちょっと一人にしてくれ」

 渚の身体が小刻みに震えているのを見ると、幸村は困っていた。渚の左肩部分の上着がどんどん赤く染まるのを見て幸村は渚の肩に手を伸ばした。

「触るなっ」

「渚さん……」

「平気だって言ってるだろ!」

 渚の目から涙が一気に溢れると、幸村はどうしていいか分からなかった。渚の顔が一気に蒼くなって、どんどん様子が変わっていく。渚が立ち上がって池に入ると、作業着の肩の部分に穴が開いていて、そこから血が染み出ているのが目についた。

「渚さんっ」

 慌てて追いかけて渚の腕を掴むが、直ぐに振り払われた。

「ついて来るなっ」

 どんどん池の深みへ入ろうとしている。肩まで水に浸かると、幸村は叫んだ。

「渚さん!!」

 渚は振り返りもしないで池に潜ると、幸村は手を伸ばしていた。このまま、渚が池の底に沈んで上がってこない様な、そんな恐怖があった。



 渚は肩を抱いて水の中に入った。気持ち悪い。自分の身体が自分の物では無くなった様な嫌な感覚だった。必死にその感覚を忘れようとする。

 池の底に目をやると、丸い大小の石がそこここに沈んでいて、陽の光が水面の波を反射している。金色の網を底に張った様になっていた。その網が揺れるのを眺めていると、なんだか別の世界への入り口に立って居るような不思議な気分になる。不意に頭の中で、前にも同じ光景を見た気がした。

 そうだ。オレ、死んだんだった……あの日は確か、そう……蝉が鳴いていた……

 ーー不意に母親の声が脳裏に響いた。

「仕事辞めようと思うの」

 渚はそれを聞いて少し笑う。

「今時、医療現場は何処も人手不足なんだから、辞めたら周りに迷惑だろ? それに、母さんを待ってる患者さんが居るんだから、そんな事言わないで」

「でも、こんな事になって……お母さん、渚がしっかりしてるからって甘えてた」

 母親の言葉が少ししんどかった。『もう子供じゃないよ。ちゃんと出来るよ』と言いたかったが、言葉にならなかった。

「ごめん。ちょっとじーちゃんの家に行ってて良いかな? もうすぐ稲刈りだし、向こうで何かしてる方が気が紛れるから」

 渚の申し出に母親は悲痛な面持ちで渚を見つめていた。

「せめて、カウンセリング受けてからでも……」

「そういうのいいから。心配しないで。ここに居たらしんどいんだよ」

 母親はそっと渚を抱きしめたが、渚は微動だにしなかった。心配させないように笑っていたつもりだった。ちゃんと笑えていただろうか? ちゃんと、演じていられただろうかと思い返す。

「落ち着いたら、いつでも帰って来なさい」

「ん」

 渚は静かに頷いたが、母の心配そうな顔が笑顔に変わることは無かった。

 解っている。きっと母さんも辛い思いをしているだろう。けれどもだからといって母親に寄り添う余裕がその時の渚には無かった。一人になりたかった。お母さんが嫌いなわけでも、軽蔑していたわけでもない。それは本当。でも、誰かのせいにして誰かにあたってしまいそうで、それで一緒に居るのが嫌だった。

 田舎に帰ったが、みんな事情を知っていてか、腫れ物に触るような態度に渚は少し困っていた。

 ここなら、いつも通りで居られると思っていたのに……

「渚ちゃん」

 不意に振り返ると、長い髪を三つ編みにした女の人が笑って立っていた。夏の日差しが眩しくて一瞬誰か分からなかったが、少しお腹が膨らんでいる。勇輝の嫁の四帆さんだ。縁側に腰掛けていた渚の元に寄ると、四帆は話をしてくれた。

「渚ちゃん、ありがとうね。勇輝、あれから煙草を辞めてくれたの。『渚に怒られた』って言って……どうせ三日坊主なんでしょ? って思ってたら、あれから全然吸わないの。ふふっだからね、渚ちゃん、ちょっとお腹に触ってくれる?」

 四帆の申し出に、戸惑いながらも渚は四帆のお腹に手を当てた。ワンピースの生地の向こうから、微かにとんっと一度だけ何か音がした気がした。

「あら、分かっちゃったかな? 渚おねぇちゃんよ」

 何だかそれが嬉しくて、まだ顔も見たことが無いのに愛しく思った。それと同時に、幸せそうな四帆さんが憎くて羨ましかった。

 最低……

 自分が嫌いになった。他人の幸せを妬むなんてどうかしてる。必死に平静を装ったつもりだった。

 ゆっくりと瞬きをすると、いつの間にか居間にいた。みんなご飯を食べ終えた後なのだろう。空になった皿や御椀を重ねていると、台所から美野里の声がした。

「なぎちゃんの事、そっとしといてあげてよ!」

 美野里の声に、渚は目を瞬かせた。

「なぎちゃん、あんな事があったから、今、精神的に不安定で……」

「でも、普通に質問したら答えてくれますよ? 周りが少し距離を置きすぎでは無いでしょうか?」

「なぎちゃんの事、何も知らないくせに勝手な事言わないで!」

 美野里がヒステリックな声を上げると、渚は目を伏せた。

「なぎちゃん、凄く良い子なの。頑張りやさんなの。だから今はそっとしておいてあげてよ。なぎちゃん、ずっと自分を責めてるのよ。なぎちゃんのせいじゃないのに……このままじゃ……」

「この子が」

 四帆はお腹を擦って呟いた。

「渚ちゃんの希望になればと思っただけなんです」

 希望……渚はその言葉に溜め息を吐いた。希望なんて要らないと思った。食器をもって台所へ行くと、二人が驚いた様な顔で渚を見つめる。

「なぎちゃん……」

「美野里さん、ちょっと変な事聞いてもいい?」

 渚の言葉に美野里がさっと顔色を変えた。

「何?」

「オレ、飯食ったっけ?」

 美野里の強張っていた表情が呆気に囚われた顔になり、四帆さんが笑った。

「食べてたよ。浅漬け美味しいって言っておかわりしたの覚えてない?」

「ん……そっか。なら良いんだけど……」

 またゆっくりと瞬きすると、いつの間にか廊下に立っていた。

「??」

 電話の音がした。出ようとしたら先に四帆さんが出たようだった。

「ああ! こんにちは。渚ちゃん、元気ですよ?」

 声の感じからして多分、母さんからだと思う。何の用事だろうかと聞き耳立てていた。

「渚ちゃん、とっても良い子で……私は前に一度しか会った事がなかったので、それほど違和感は無いのですが……勇輝や友也さんは、前はあんな風に声たてて笑う子じゃなかったって少し驚いていて……」

 四帆の話に少し首を傾げた。

「ちゃんと会話は出来ますよ。部活の事とか友達の事とか楽しそうに話してくれます。ぼーと何処かを眺めてにこにこしたりして、可愛いんですよ。でも、ごく偶に……顔面蒼白って言うんですかね? 急に黙り込んだり、身体が震えたりして……精神安定薬はちゃんと飲んでもらっているんですけど……」

 そんな薬飲んでたっけ? あれ? 誰の話をしてるんだろう?

「凄いんですよ? 稲刈り機の運転が上手で……私なんか触ったことも無いのに……米袋を持とうとしたら理路整然と怒られちゃいました。あ、でも偶に夢遊病みたいにどっかに行っちゃうことはあるんですけどね。一昨日だったかな、夜中に居なくなってて、でも台所でおにぎり作ってました。まだ夜だから寝ようねって声かけたら、素直に布団に戻ってくれるし……渚ちゃん、真面目な子だから、今は少し心の整理がついていないだけで、直ぐ治ると思うんです。それこそ夏休みが終わって、学校でも始まったら……」

 四帆の声が一瞬止まった。

「……そうなんですか。休み明けからはお父さんの病院に……その方が渚ちゃん、ゆっくり出来て良いかもしれないですね。こっちではもう疲れ知らずなんじゃないかってくらい、朝から晩まで動き回っていて……私の体感ですけど、そうしている間の方が、正気に戻っている時間が長い気もします」

 渚はそれを聞いてそっとその場を離れた。

 もしかして、気付かないうちに迷惑かけてたのかな? なんか最近、急に記憶がなくなったり、頭の中があやふやになって、自分が今何処に居るのか分からなくなる事があるんだけど……今が朝なのか夜なのか、何日なのか分からなかった。

 渚はそう考えながら、ゆっくりと瞬きをした。

 眼の前に、細く長い黄色の道が伸びていた。両脇は桃色の草原になっている。灰色の空にはお月様と太陽が同居している。

 あれ? さっきまで家に居たと思ったのに……

 渚は首を傾げながら橙色の雲を見つめた。出鱈目な形をした星がくるくると回っている。

「 〜ギサ! こ ナと デ何ゃ゙っテ だョ?」

 不意に緑の頭をしたお化けが出て来て渚は首を傾げた。なんだかカマキリの様だが、身長は渚よりも高い。陽炎みたいにはっきりしなかった。

 なんだこれ? 話しかけて来たって事は、知り合いなのかな?

 水色の木に止まった蝉の声が煩かった。

「おマエ、海デアタマ ネジ落とㇱ って ぃタけど ント か?」

 渚は何を言っているのか分からなくて首を傾げた。

 このお化け一体何を言っているんだろう?

「ん?」

「マジ ょ゙…… ら、家 デ送っテく ラ!」

 お化けが渚の手を取ると、何となくだが、家まで送って行ってくれるのだと思った。

「あ……りが……と」

 お化けはにやりと変な笑みを浮かべた。

「ナぁな 、今ダっ ら、デ トㇱて れタリ ㇲる?」

 お化けの言っている意味が分からなくて首を傾げた。

 あれ? もしかして違うのかな? このお化けについて行ったら駄目なのかな?

 周りの景色がふわふわして、まるで雲の中に居るみたいな気分だった。何処かに着いたらしい。急にお化けが顔を近付けて来ると、渚の脳の奥からぱっと電気が点いた様な衝撃が走った。渚が気付いた様に頭突きを食らわすと、お化けは仰け反った。

「まっじで急に正気に戻るのな……そのまま最後までやらせろよ!」

 渚は何が起こったのか分からなかった。何故、ここに居るのかも、敏雄が目の前に居るのかも分からなかった。

 渚が必死に思い出そうと頭を押さえた。

「何でオレに突っかかって来るんだよ?」

「俺は前から渚の事が好きだったの!」

 敏雄が叫ぶ様に言うと、渚は意外そうな顔をした。

「は? 気持ち悪」

「こんっのやろ……」

 敏雄が苛立つと、渚は周りを見渡した。全く知らない場所ではなく、神座池だと言うことに気付いてほっとする。

「どの辺にそんな要素があんだよ?」

「胸とか」

 敏雄が即答すると、渚は思わず敏雄の顔面を殴っていた。敏雄がよろけて殴られた頬に手を当てると、渚は敏雄を睨みつけた。

「お前、オレ以外に絶対そういうこと言うな」

 渚がそう言って帰ろうとすると、敏雄は渚の腕を掴んだ。

「待てよ!」

 渚が腕を振解くと、敏雄は唇を噛み締める。渚はそれを見て呆れた様に溜息を吐いた。

「……お前のそういう、いい歳して駄々こねてりゃ周りが自分のご機嫌とってくれるって考えがモテない要因だって事くらい、気付いた方が良いぞ」

 敏雄は渚を睨みつけると、渚は眉根を寄せた。

「女なら女らしく、男に媚売るって事くらい覚えろよ」

 渚はそれを聞いて敏雄の襟首を掴んだ。

「女に媚売って貰うのが当然とか片腹痛えよ。オレに惚れられたきゃ、その根性叩き直して出直して来い。このクズ!」

 揉み合っているうちに池の中に落ちた。口の中いっぱいに水が流れ込む。敏雄に頭を押さえつけられて、気が遠くなって行った。

 布を裂く音で目を覚ました。敏雄が酷く驚いた顔をしている。思わず鳩尾目掛けて蹴り上げた。

「……オレ以外に、絶対こんな事すんなよ」

 睨め付けると、敏雄は青い顔をしてさっさと逃げて行った。

 煩いくらいの蝉時雨で、やっと一人になれたと思うと涙を流していた。

 そっか、泣けなかったんだ。泣きたかったんだ。女みたい。格好悪い。自分が気持ち悪い。

 徐ろに池に向かった。

 何もかも嫌だった。また急に記憶が飛ぶのも、自分が誰だか分からなくなるのも怖かった。泣いて誰かに助けを求めたくても、周りに鬱陶しがられるんじゃないかとか、嫌われるんじゃないかとか考えていたら頭の中がぐちゃぐちゃになって、誰にも助けを求められなかった。違う、助けて欲しかったわけではなかった。放っておいて欲しい。何も分からないまま消えてしまいたかった。

 目の前に、神座池の祠があった。小さな祠だった。まるで墓標みたいだった。

 神様って本当に居るのかな?

 池の底の奥まで沈んで行った。どんどん気が遠くなる。陽の光が水面の波を反射している。金色の網を池の底に張った様になって揺らめいていた。

 神様、どうかお願いします。今度こそちゃんとします。今度こそ上手くします。だからどうか時間を戻して下さい。

 気付くと、いつものカフェに居た。壁に掛けられた時計を見ると、夕方の五時を指している。目の前に座っているノアは台本を熱心に読んでいた。テーブルに置かれたオレンジジュースの氷はもう殆ど溶けてしまっている。

「いい加減にジュース飲んで帰らないと遅くなるぞ?」

 ノアが驚いた様にこっちを見た。中学の紺のセーラー服が似合う女の子って良いなぁと思った。

「大丈夫だよ。まだそんなに時間経ってない……」

 そう言いながらお店に飾られた可愛らしい壁掛け時計を見たが、さっと表情が変わる。このころころ変わる表情が好きだった。

「うそっ」

 ノアは思わず立ち上がった。セーラー服の裾が激しく揺れ、時計と夕焼け空を見比べる度にボブカットの茶髪がふんわりと上下する。

「でも大丈夫だよ」

 大丈夫……ノアのこの言葉が好きだった。ノアの傍でなら、男の子で居られるからーー

 渚がそう考えていると、急に腕を掴まれて水の中から引き上げられた。

「渚さんっ」

 渚は咳き込みながら幸村の手を外そうとした。声が出なかった。

「渚さんっ帰りましょうっ」

 帰る? 何処へ?

「オレに帰るとこなんかない!」

 幸村は渚の肩を掴んで渚の顔を見た。身体が小刻みに震えている。両目から零れ落ちる涙が朝露の様に光っていた。

「触るなっ」

 渚の言葉に幸村は必死に言葉を振り絞った。

「渚さん、聞いてください。明日、連れて行きたい所があるんです」

 『明日』この言葉が無性に残酷で、酷く恐ろしかった。

「明日なんて来なくていい」

「渚さん……」

「〝今〟のままでいい! 〝今〟ならまだ……」

 そこまで言って、その続きが出て来なかった。

 あれ? オレ、何を言っているんだろ?

 頭の中が混乱するのが解った。渚の瞳が中空を見つめる。雲一つない晴天が広がっているが、砂嵐の様に灰の細かい粒が脳裏を過った。

 オレが死んだの、いつだっけ……?

「怖いのは分かります。でも……大丈夫ですから」

『でも大丈夫だよ』と、ノアの声が聞こえた気がした。

「あの時居なかった奴が勝手な事言うなよ」

 脳裏に波の音が響いた。必死に周りを見回している。岩場の影も、打ち寄せる白波も、怖いくらい深い青い海の底を、果てしなく広がる沖を、見える範囲を必死に探していた。今、ここに自分は居て良いのかと迷った。目の端に一瞬でもその痕跡を見つけることが出来たなら直ぐ飛び込んだだろうか? 否、それでも迷ったかもしれない。

 〝あの時〟って……?

 意識が朦朧として、身体の力が抜けていく感覚があった。

 駄目だ……今、気を失ったら岸に上げられてしまう……戻れなくなる。あの、楽しかった時間に……

 脳裏に神座池の伝説が過った。世を儚んで池に飛び込んだ姫の身体を、龍が必死に岸辺へ押し返した。もう姫は陸でも生きてはいけない。憐れに思った龍は姫の魂を龍にした。龍になった姫の魂は、水の底で……幸せに暮らしました。

「渚さんっ」

 頭の中に霞がかかったみたいだった。

 何処で間違えたんだろう? 答え合わせを誰かがしてくれるんだろうか? 誰かが答えを知ってる? ……違う。答え合わせに意味なんかない。だってもう……

「……オレなんか要らないから」

「じゃあ僕に下さい!」

 何故か、その言葉が酷く嬉しくて、辛くて切なかった。



 渚が気を失うと、幸村は渚を抱え上げた。池から上がって渚を寝かせると、戸惑いながら渚の上着に手を伸ばした。

「渚さん、ごめんなさい」

 作業着を捲ると、シャツとタンクトップの前側が引き裂かれていた。白のスポーツブラが裂け目から見えている。幸村は上着を脱ぐと、渚の体にかけた。

 肩に傷があって血が出ていた。渚のポケットからハンカチを出して傷口を結ぶと、渚の上着のファスナーを上げて抱き上げる。来た道を戻ろうとしたが、方向が分からなかった。

『こっちだよ!』

 幸村が振り返ると、森の奥に二つ白い人魂が浮いている。一つは大きく揺れていたが、一つは微動だにしなかった。

『渚を助けて!』

 幸村は人魂に付いて行くと、森を抜けた。

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