第8話 買い物
「これ可愛い!」
土曜日の午前中、渚はノアと一緒にショッピングモールに来ていた。ノアがまるで着せ替え人形の様にクルクルと色々な服を試着しながら渚の目の前に披露する。
「ねぇねぇ、渚、どっちが良いと思う?」
ノアがピンク色のワンピースと緑色のチュニックを渚に見せて聞いて来た。渚はそんなノアを見て、額に冷や汗を浮かべながら少し唸る。
「……どっちでも……」
「渚っ」
「はいはい、ピンクの方が可愛いんじゃないかな?」
「だよね~!」
殆どもうノアの中ではピンク色のワンピースの方が良いと決まっていながら渚に意見を促すのが何時もの流れだった。正直言って渚には服のセンスが無いし今の所兄のお下がりとかで不自由していない。ノアの様に大金を叩いて服を買うと言う考えが今一解からなかった。
ノアが試着室に入っている間に、持たされていたカゴに入れられた服の値札を見ると渚は自分の目を疑った。Tシャツが四千円……絶対に桁を間違えている。因みに渚の今日の服装はと言うと、フリーマーケットで百円で購入したGパンに青いカーディガン、兄貴のお下がりのTシャツ、それに履いている運動靴はヒ◯キで購入した二百円のスニーカー……全身合わせても、この四千円のTシャツ一枚の値段にすらならないのである。ノアが試着室から出てくると、平気な顔をしてカゴの中にピンク色のワンピースを放り込んだ。値札には一万円と書かれている。それを見て渚は流石に口を開いた。
「高過ぎるよ……」
「高く無いもん、高く無いもん! ショッピングモールで五十円の靴下探す方が間違いだよ! 渚もたまにはおしゃれしたら?」
お洒落……この言葉は渚にとって苦手な言葉だった。服なんて着れればそれで良い。生活する上で着心地がよければそれで良いと思うし、安い方がお財布にも優しい。欲しい服があるなら生地を買って自分で裁断して作った方がずっと安上がりだし自分の好きな様に作れる。けれども、ノアにはそんな考えは浮かばない様だ。
今、ノアが着ているフリルのついたパステルカラーのワンピースと、白いフェイクファーのジレは一体いくらなのかと聞きたくなった。
「お母さんが言ってたよ? おしゃれが出来るのは若い間の女の子の特権だって!」
まぁ、年頃の娘を持つ母親からすればそれはそうなのだろう。ノアは渚からカゴを取り上げてレジに向かった。渚は軽く溜息を吐きながら綺麗に並べられた商品を眺めていた。
「特権ねぇ……」
ただのお店側の常套句にも聞える。ノアが会計を済ませて戻って来ると渚は徐に腕時計を見た。
「そろそろ帰ろっか」
「え~まだ三階の服屋さん見てない~」
この上まだ買うのかと思いながら渚はノアが持っていた紙袋を三つ取り上げた。
「バスの時間に間に合わなくなる。バレエ教室サボるつもり?」
渚がそう言うと、ノアは頬を膨らませてごねていた。
「地下でクレープ買ってあげるから、機嫌直して」
「わ~い!」
ノアがにっこりと笑って万歳すると単純だよなぁと渚は少し笑った。地下で苺クレープを買ってバスに乗り、ノアを家まで送るとノアは渚に持たせていた紙袋を取り上げてにっこりと笑った。
「また買い物に行こうね。渚はこれからどうするの?」
「え? ああ、何時ものカフェテラスで時間潰してる」
渚がそう言ってノアの家の前を後にするとノアはふ~んと鼻を鳴らした。
渚がカフェテラスに来ると何時もの席に座って鞄の中から参考書を取り出した。店員が水を持って来て渚の席に近付くと、渚は参考書から視線をそらす事無く
「いつもの」
と言って参考書を読み進める。あまりに馴染みの店なので、店員は少ししてからいつものブラック珈琲を渚のテーブルに置いて下がった。渚は砂糖もミルクも入れる事無く一口飲んで参考書を読み進める。
日差しが少し強かったがテラスの日陰の下で気持ちよく過ごす事が出来る。渚にとってはこの時間が至福の時だった。誰にも邪魔される事無く、自分のペースで参考書を読み進める事が出来る。うるさい兄貴も居ないし、両親が何時帰ってくるかと気にかけながら読み進める必要も無い。ノアも居ないのでお洒落の話をしてくる人も居ない。だからココに居るこの時間が好きだった。ほんの少しだけ淋しい気もするけれども……
「すみません、待ちました?」
渚はふと直ぐ近くで声がして周りを見渡した。目の前に、息を切らせている幸村が立っている。渚は目を丸くして驚いていた。
何でお前が居るんだ?
とあからさまに嫌な顔をしてしまう。そして幸村が羽織っているジャケットの下のTシャツに目がいった。ナマケモノがピースをしている絵柄が描いてあるのが見えて笑いそうになる。
何だよそのシャツ……部屋着かよ
「今、ノアさんから連絡貰って……渚さんが買い物に付き合って欲しいって言ってるって……」
は? ノアが? 何で?
渚は疑問に思いながら頭を捻っていた。シャツのナマケモノが、何とも言えないとぼけた顔をしている。さっき『服なんか着れればそれで良い』と心の中で思った自分を殴りたくなった。
いや、限度ってものがあるだろ……
そしてふと、ある重大な事が思い浮かぶ。
「あ!」
勢い良く立ち上がると、渚は飲みかけていたブラック珈琲を飲み干して財布の中からお金を出した。テーブルに置いて、店の入り口に立っている店員に視線を送る。
「ご馳走さん」
手早く財布をズボンの後ろポケットに入れ、鞄の中に参考書をしまうと幸村の右手を取った。
「悪い、実は欲しいものがあって……」
渚がそう言って幸村の手を引いて走り出すとやっと息が整い始めた幸村は再び走る羽目になった。
渚の家の前に来ると、幸村は息を殺していた。大きなダンボールの端を渚が持ち、その反対側の端を幸村が持っていた。
「落としたら弁償してもらう」
渚の言葉に息を飲み、玄関先で持っていた大きな箱を一度下に降ろす。渚が玄関を開けてもう一度一緒にその大きな箱を持ち上げると渚は玄関を上がった。
「段差あるから気をつけろ」
「解かりました」
入り口にある段差を気にしながら靴を脱ぎ、家の奥まで入るとやっとその大きな箱を下ろして幸村は大きく息を吐いた。渚は幸村の様子に構う事無く箱からその機械を出し、コンセントを繋いで排水管をセットする。機械のスイッチを入れるとピピピと音が鳴り、渚は満足そうにその機械に洗濯物を放り込み始めた。
「家の洗濯機が壊れてて捨てたんだけど、コインランドリーに通うのが面倒臭くてさ」
新しく買ったばかりの洗濯機に洗剤を入れて蓋を閉めるとお任せボタンを押して渚は満足そうに笑った。
「お茶でも入れるよ。あ、珈琲の方が良いか?」
「あ、いえ、お構い無く……」
幸村がそう言うが、渚はそのまま台所へ向かっていた。幸村も渚の後について家の中を歩き回る。
「座ってて良いぞ」
渚に促されるままリビングのソファーに座ると幸村はやっと座れたと肩を下ろした。
渚さんて元気だなぁ。あんなに走って、一緒にあんなに重い洗濯機を電気屋からココまで運んで、平気そうな顔してまだ立って仕事してる……
幸村はそう考えながら台所に居る渚を見つめると、電子レンジの音がして幸村は少し首を傾げていた。渚がお盆にコップ二つと電子レンジから取り出した何かを持って来ると幸村が座っているテーブルの前に珈琲とカップケーキを並べる。慣れた手つきで砂糖瓶と小さなミルクカップを幸村の前に並べると、渚は幸村と向かい合う様にソファーに座って珈琲を飲んだ。幸村もそれを見て一口珈琲を飲む。
「なかなか一人で買いに行き辛くてさ、ノアに重いもの持たせたくないし、兄貴は何時もあんなだし……業者に頼んだら送料取られるし……」
送料払いましょうよ。と幸村は言いかけたがやめた。
渚がそう言いながら自分の分のカップケーキを食べ始めると、幸村も一口食べてみた。ほんのりとシナモンシュガーの甘みがあってアーモンドが少し入っている。
「渚さんて料理も得意なんですね」
「ホットケーキミックスに牛乳とアーモンドとシナモンシュガーを入れて電子レンジに入れただけだ。バカでも出来る」
渚の言葉に幸村はにっこりと笑った。
「美味しいですよ」
そう言うと、渚は幸村を一瞥して再び珈琲に手を伸ばしたが、何か思い出した様に立ち上がって二階へ上って行った。
幸村が珈琲を飲んでいると、渚が手に何か持って二階から降りて来た。
「取り敢えずそのダサいナマケモノ脱げ」
幸村はそう言われて目を丸くした。言われるまま脱ぐと、渚は白いシャツと黒のノースリーブベストを広げた。渚に指示されるまま着ると、渚は満足そうに頷いた。
「ん。まあ、まともになった」
「何ですかそれ……」
「それやるからそれ着てろ。絶対このナマケモノよりマシに見える」
渚は手際よく幸村が脱いだTシャツを畳んだ。
「え……悪いですよ」
「洗濯機運んでもらったお礼だ。気にすんな。こっちはもうパジャマにしとけ」
渚はそう言うと畳んだナマケモノTシャツとジャケットを風呂敷に包んで置いた。
「あの、携帯の番号教えて貰えませんか?」
幸村が恐る恐る聞くと、渚は少し瞳を宙に泳がせていた。
「教えたらかけて来るだろ」
「そのために聞いているんですけど……」
幸村がそう言うと、舌打ちをしながらも携帯を取り出してボタンを押している。赤外線を使うのだろうかと考えて幸村も携帯を取り出すといきなり自分の携帯電話の着信音が鳴って驚いた。幸村が電話に出ると、目の前に居る渚も携帯を自分の耳に当てている。
「それ、オレの番号」
電話口から渚の声が聞えると、幸村は目を丸くした。電話は直ぐに切れて、渚は再び携帯のボタンを押し始める。
「え?」
「メールアドレスはうろ覚えだから自信無いけど……」
渚がそう言うと、再び幸村の携帯が鳴って画面を見た。メールが一件届いている。開けて見ると『双海 渚』と本文に書かれている。幸村は目の前に居る渚を見て目を丸くした。
「全部、暗記して……? でもあの時、一瞬しか見ませんでしたし、直ぐにゴミ箱に捨ててたじゃないですか」
「数学の方程式よりはずっと簡単だろ」
そんな事無いです……
幸村は咽の所まで言葉が出かけていたが飲み込んで渚の電話番号とメールアドレスを登録した。
「……ありがとうございます」
幸村がにっこりと笑うと、渚は再び珈琲を飲んでいた。
「ビックリした」
葵が風呂から出て来た渚の顔を見てそう言うと、渚はジャージのファスナーを上げながら瞳を宙に泳がせた。窓の外には三日月が出ていた。
「は?」
「あの洗濯機どうしたんだよ?」
「ああ、買った」
「一人で?」
「んなわけねーだろ」
渚の言葉に、葵は頭を抱える。そうだよなぁ。一人でなんて買いにいかねぇよなぁ。かと言って両親仕事だし、俺は一緒に行ってないから餌食になったのは多分……
「深森と?」
「そうだけど?」
渚の言葉に葵は再び頭を抱える。
「お前な、今時高校生のカップルが二人っきりで休日に電気屋に行って洗濯機買いに行く奴が何処に居るんだよ」
電気屋の店員が思ったであろうその胸の内を明かすと、渚はきょとんとした顔で葵を見つめた。
「誰もカップルだなんて思わないだろ」
どう見ても男友達か、せいぜい兄弟くらいにしか見られないだろう。とでも思っている様な顔でそう言われると、葵はそれ以上何も言えなかった。
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