第11話 スーパー銭湯での思わぬ出会い
さとみは時折、歩いて行ける近所のスーパー銭湯で一人くつろぐのを楽しみにしていた。温泉に入ったあとは岩盤浴、その日の気分でヘッドスパやフットケアも楽しみ、大広間で生ビールを飲んでリラックスすると、まるで生き返ったように感じる。それは、さとみにとって数少ないたった一人でいられる心からの憩いのひと時だった。
今日も、さとみは軽い足取りで目当てのスーパー銭湯に向かう。受付カウンターで券売機から購入した入浴券と下駄箱の鍵を差し出す。
「お願いします」
「…………」
無言の受付嬢に、愛想がないな、とさとみは思いながら手続きを続けた。しかし、その手には見覚えがあった。長いが、どこか力強さを感じる指。はっとして受付嬢の顔を見上げると、そこには気まずそうな表情を浮かべた千隼がいた。
「ちーちゃん!」
さとみの顔がぱっと明るくなる。周囲の受付スタッフたちが驚いたように、さとみと千隼を交互に見た。
「い、いらっしゃいませ……」
千隼はぎこちなく手続きを進める。その姿は、気まずさそのものだった。
「ちーちゃん、ここで働いてたんだ」
タオルセットを受け取ったさとみの明るい声が、ひと気のないホールに響く。
「う、うん……」
千隼は泣きたい気分だった。かつてレーサーとして華々しい記録を打ち立てた自分が、あの事故以降、意に反して別の仕事に就いている。この現実と、かつての栄光との落差がどうしようもなく苦しかった。今の仕事が嫌いと言っているのではない。だがあの頃の、サーキットを駆け巡っていた自分を思い出すたび、何とも言えない悔しさが胸を締めつけた。それを、さとみに見られてしまったことが何よりも恥ずかしかった。
「私、たまに来るの。ここ、すっごくいいところね」
「ありがとうございます……」
千隼の声はかすかに震えた。無邪気に偶然の出会いを喜ぶさとみとは対照的に、千隼はその場から消え去りたい気持ちでいっぱいだった。
「じゃあ、また後で。今日も待ってるね」
「あ、はい……」
さとみが颯爽と去っていく背中を、千隼は視線で追った。両隣の受付のおばさんたちが意味深な視線を送り合っているのを感じ、ますます千隼は惨めな気持ちになった。従業員たちの間で、何か噂されるのではないか、そんな不安が頭をよぎる。彼女は、このスーパー銭湯の中で誰とも距離を置き、一人ひっそりと物陰に隠れるようにして働いてきた。だが、さとみでさえ、自分を孤独な世界に放っておいてはくれない。静かに消えていきたい、そんなかねてからの思いがふと頭をもたげるが、その思いを打ち消すのも、またさとみの笑顔だった。千隼の心は複雑に乱れた。
その夜、千隼は「季節料理 鷹花」には行かなかった。コンビニで買った缶ビールを、安アパートで二缶開け、そのまま眠りについた。夢の中でさとみの笑う姿を見たが、なぜかその夜だけは重苦しい気持ちがまとわりつく夢だった。
それ以来、さとみがスーパー銭湯で千隼を見かけることはなかった。受付で訊いてみるとどうやら配置転換があったようだ。さとみは不思議に思ったが、なぜだかこの話題を千隼に振るのはよくない気がしたので、黙っていることにした。
【次回】
第12話 新たな常連客
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