第44話 足湯、渓流釣り
二人は埼玉の山間にある小さな温泉場に着いた。
千隼は、久しぶりのレジャードライブに心が躍る。レースや通勤とは違い、青天の下のんびりとメタリックブルーのオリオンDSRを操る時間が、何よりも心地よい。車はサーキットと同じく、千隼の思い通りに山道を滑るように走り、二人を快適に目的地へと運んでくれた。
オリオンDSRは駐車場に静かに停車し、二人は早速足湯へと向かう。靴下を脱ぎ、デニムの裾をまくり、足を湯に浸すと、さとみが思わず声を上げた。
「熱っ!」
「これ結構くるな」
千隼も驚くが、負けずに足を浸し続ける。しばらくして千隼が提案する。
「どっちが長く浸かれるか勝負しようか?」
結局、千隼が勝ったものの、足は真っ赤。さとみはクスクスと笑いながら赤い靴下を履いてるみたいだと冷やかす。二人は笑い合いながら、旅館にチェックインし、裏手の渓流へ向かった。
平日だからか人出はほとんどない。透明な水がきらめき、石でせき止められたいくつかの人工池に魚の影が見える。ここは渓流を利用した釣り堀だった。
「水きれい」
「透明度すごいね」
釣竿や餌や網などをレンタルして、さあこれから釣ろうという時になって千隼の手が止まる。釣り針に餌の「ブドウ虫」を刺せないのだ。それ以前に触ることも直視することすらできない。
「いやムリ。ムリムリムリムリムリ!」
釣り堀のおじさんに手際よく実演される。
「いや、こうやって、こうすりゃいいんだってば」
「いやムリです。あたしムリです絶対ムリ」
おじさんのお手本すら正視に堪えない千隼は目を両手で覆う。
「はい、できました」
さとみが屈託のない表情でおじさんに釣り針を見せる。
「えっ」
驚く千隼を尻目に、おじさんはさとみを褒める。
「おお、こっちのお嬢ちゃんは上手にできたなあ」
びっくりして言葉もでない千隼に得意げな顔を見せるさとみ。
「ふふっ、上手にできたって」
「…………」
言い知れぬ敗北感と屈辱感と理不尽さが千隼の心の中で吹き荒れる。
「おー、じゃあこっちのお嬢ちゃんはこれだ」
おじさんが何やらオレンジ色のビンを見せる。また何か虫が入っているのに違いない。身をすくませる千隼。
「ひっ」
「ほれ、イクラ」
「イクラ?」
「そ、まあこれでも釣れるっちゃあ釣れっから」
それならなんで最初からイクラにしないんだ? 千隼の頭の中で疑問が吹き荒れる。
「ねえちーちゃん。餌、つけてあげようか? ひひっ」
「結構です」
さとみの得意顔が悔しい。千隼はイクラで頑張ることに決めた。
「あと、もしかするとこないだの雨でヤマメが紛れ込んだかも知れんから狙ってみるのもいいかもな」
おじさんが不敵な笑みを見せる。
「ま、初心者にはムリだけどな。ましてやイクラじゃな」
大股で立ち去っていく釣り堀のおじさん。
「だって。クスクス」
「よおし……」
「あれ? ちーちゃん、なんかムキになっちゃってる?」
「なってない」
「なってるなってる」
「なってない」
「それじゃ、どっちがいっぱい釣るか競争ね」
「受けてたってやる」
「イクラでどれだけ釣れるかなあ、クスクス」
「見てろよ。さとみに『参りました』って、言わせてやる」
「はあい、頑張ってねっ」
さとみの冷やかすような言葉が癪に障る千隼だった。
【次回】
第45話 ビギナーズラック、お弁当
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