第36話 九年ぶりのカミングアウト
千隼はさとみを励ますように、そっと彼女の両肩に手を置き、優しく微笑みかけた。
「私、千隼を愛しています。誰よりも大切な存在で、この人のためなら何だってできる。どんなことをしてでも支えたいんです」
「わかった。じゃあ、あなたをチハヤの家族として、チームでは手が届かない日常の健康管理やメンタルケアを任せても大丈夫ね」
「はい、任せてください。千隼は今、厳しいトレーニングを続けています。私はそれに合わせた食事をしっかり準備しますし、彼女の心のケアにも気を配ります。どんな小さな異変も見逃さないようにします」
「よし、じゃあ、今日からあなたもうちのチームの一員ね。チハヤの毎日の健康管理とメンタルケア、任せたわよ。これからよろしくね」
笑顔でバシルはさとみのそれよりはるかに大きなキャラメル色の右手を差し出すと、さとみもその右手を両手でがっちり掴む。
「じゃあ、早速今日から頑張ってもらうからね。わかった?」
「はい、微力を尽くします」
しばらくためらった後、さとみは再び口開いた。
「ずっと考えてたんです。千隼をどうやってもっとサポートできるかって。今までも自分なりに一生懸命支えてきたつもりだけど、自己流じゃ限界がありますよね。だから、管理栄養士の資格を取ろうと思うんです。本格的に、千隼をサポートするために」
千隼は驚いて目を丸くした。
「えっ、管理栄養士? 本当に?」
千隼は目を見開き、驚いた様子でさとみを見つめた。
「うん。これまではちーちゃんのために手料理を作ってあげるだけだったけど、それじゃ全然足りないなって思って。もっとしっかりした知識を持って、プロとしてあなたの健康を支えたいの」
千隼は少し照れたような笑みを浮かべ、さとみの手を握りしめた。
「すごいな、さとみ……本気なんだ」
「もちろん。ちーちゃんがレースで挑戦しているんだから、私だって負けてなんかいられないもの」
「素晴らしい目標ね。それなら、チームにとっても、ますます貴重な存在になる。もちろん、チハヤにとっても大きな支えね。プロのサポートがどれだけ重要か、きっと感じてくれるはず」
バシルはカードをしまいながら笑顔を浮かべた。
「いいわね若いって。うらやましいわ。それじゃ、ごちそうさま。また来ます」
「どうもありがとうございました。またどうぞ」
「ありがとうございました」
「いえ、チハヤも幸せものね。こんな素敵なパートナーがいるんだから」
「……あ、いや、はい…… ありがとうございます」
すっかり照れて赤くなり、頭をかく千隼とさとみ。
「じゃあ、来週から土浦でのテスト頼むね。待ってるから」
「はい!」
「お帰りお気をつけて」
アマラ・ゲイル(Gail)・バシル・チームマネージャーが店を出ると志乃がビールをあおってぼそりとつぶやく。
「へえ、あれが『
「ゲイル・バシル?」
「千隼は知らないかもね。ここ四、五年のF1でリアノンの地位を引き上げてきた立役者。普通GailってAbigail(アビゲイル)の短縮だけど、Galeは突風や強風や暴風。彼女の卓越した戦略とリーダーシップがなければあそこまでチーム・リアノンは伸びなかったでしょうね。彼女が日本のG3にやってきたとはねえ…… しかし日本に長くいたとは言えペラペラじゃない」
「なんだかすっごく威圧感のある人だった……」
さとみはまだどこか呆然としている。
「でも話の判らない人じゃないよ。白熱すると英語になっちゃうけど」
「えっ、ちーちゃん英語しゃべれるの?」
「ちょっとだけね。高校卒業してすぐ1シーズンだけヨーロッパのF3行ってたんだ。だから英語もちょっとだけ。知らなかった?」
「知らなかった…… ちーちゃんすごい」
志乃は熱燗を手酌で注ぎながら、さらりと言った。
「大したことないわよ。普通。私だってしゃべれるし」
「そんなことないよー。しのりんに何言われても負けないで強く生きて。ね、ちーちゃん」
「あ、あはは」
「なによそれ」
さとみは腰に手を当て少しおどけて
「さっ、私明日からやること増えちゃった」
と言った。千隼は怪訝そうな顔をする。
「やること?」
「そう、バシルさんにチームの一員として任命されたんだから、ちーちゃんの心身の管理をしっかりやらなくちゃね。まずは食事だよね。毎日酒の肴ばかりじゃ、体に負担かけるものね」
「えーっ、ここの肴が食べられなくなるの? それはショックだなあ」
千隼が大げさに言うとさとみは笑った。志乃も苦笑した。
「少しだけ、よ。厳しくし過ぎてもかえってよくなさそうだものね」
「どうかお手柔らかにね。『季節料理 鷹花』の酒肴も大切なあたしの生きがいなんだからさ」
と千隼が言うとまたみんなで笑った。
▼用語
※疾く駆けるGale・Basir
マレー語で“
【次回】
第37話 苦闘するVRMとエンジン
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