第34話 意外な来客

 さっぱり面白くもない冗談を言ってカウンターにどっかりと座るマネージャー。他のメンバーも続々と着席した。日本人、外国人を問わず、女性が半分以上を占める。その中でも人目を引く女性がいた。弱冠二十一歳のドライバー、柚原ゆずはらあやだった。

 綾のはつらつとした姿に、さとみでさえ思わず見とれた。だが、目が合った瞬間、綾の視線には鋭さが宿った。さとみはその探るような目つきに戸惑い、軽く会釈をする。綾はじっとさとみを見つめ返したが、何かに気づいたかのように急に目を逸らした。綾の胸にチクリとした感情が走る。千隼とさとみの間に、特別な絆があることを直感したのだ。それでも、千隼の笑顔が自分に向けられることを、どこかで期待している自分がいた。

 気を取り直したさとみはさっきの会話で気になった言葉を千隼に尋ねてみた。


「マネージャー……?」


「チームマネージャーで、シンガポールから日本に来たアマラAmaraゲイルGailバシルBasirさん。ここで一番偉い人」


 その名前を聞いた時、お猪口に注いだ燗酒を飲む志乃の眉がピクリと動いた。眉をひそめ、白髪交じりの黒髪をきっちり束ねたバシルを、盗み見るように注視する。


「へえ、そうなんだ。あ、いっけない。ちーちゃんよかったらお水配るの手伝って」


「うんっ」


 二人で大急ぎ水とおしぼりを置いて、注文を取る。


 全員水で乾杯する。バシルチームマネージャーが立ち上がる。


 バシルチームマネージャーが、乾杯の音頭を取る間、綾はチラリと千隼とさとみを見やる。千隼がさとみとどれほど親しいのか、綾は気になって仕方がなかった。さとみの存在が、どこか遠くに感じていた千隼をさらに遠くへと押しやるかのように思えて、胸の中がざわつく。


「今シーズン初参加の我がチームは、厳しい環境の海外三ラウンド全レースでポイントを獲得できた。これはスタッフみんなの努力と団結の賜物だと思っている。ありがとう。そしてチハヤもアヤもポイントゲットおめでとう。でも、このままその辺の順位で終わるドライバーが多いことも私はよく知ってる。私としてはチハヤとアヤにはもっと上を目指してほしいし、それは必ずできると信じている。じゃあ、チームと二人の今後の発展を祈って、乾杯!」


 アマラ・ゲイル・バシル・チームマネージャーはそう一気にまくしたてると水を一気に飲み干した。皆も飲み干した。千隼も同じようにグラスを空けた。マネージャーに期待され、信頼されている。その重みを胸に感じながら、絶対に裏切れないと強く思う千隼だった。さとみはその横顔を見つめる。さとみはこの千隼の顔が一目で好きになった。決意し困難に組み付いて挑戦しようとする表情が。自然とさとみにも笑みが浮かぶ。自分自身もお仕事を頑張らないとな、と思う。


 乾杯のあとはスタッフ皆で横一列に並び歓談に興じる。綾が狭い店内の壁際を伝い、千隼の背後まで来て、熱燗をお酌した。綾は普段通りはきはきとした口調で千隼に話しかけるが、その瞳にはさとみへの強い感情が隠されていた。千隼に対してはいつも笑顔を向けていたが、さとみが自分を千隼から遠ざけているかのように感じられ、心の中で渦巻く悔しさを抑えることができない。


 ありがたいことに酒も肴も皆気に入ってくれて、胸をなでおろす千隼とさとみだった。ムスリムでない外国人スタッフには日本のビールが好評で、ムスリムには乳酸菌発酵飲料やラムネが喜ばれた。意外なことに、子持ちカレイの煮つけが皆の注目を集める。


「ここのお酒も食べ物もとても美味しいですね。すごく好きです。これから東京に来るときは必ず寄ります」


 アマラ・ゲイル・バシル・チームマネージャーは、箸できれいに食べたカレイの煮つけの器を下げに来たさとみへ、流ちょうな日本語で気さくに声をかける。バシルの声は気さくだが、どこか威圧感があり、さとみは思わず萎縮してしまった。


「はっ、はいっ。ありがとうございますっ」


「来月から最終戦手前までは国内戦が続きます。もしよければ、ガレージツアーに招待しますよ。特別にご案内します」


 意味深な笑顔でほほ笑むバシルにさらにおどおどしてしまうさとみ。


「は、はい喜んで……」


 そんなさとみを微笑ましく見つめる千隼。綾はお銚子を握りしめ、黙って千隼とさとみの方を見やる。さとみが千隼に微笑むたびに、綾の心は少しずつ落ち着かなくなっていく。淡い憧れと、少しの寂しさが胸に広がっていく。二人が笑顔で話している間、綾は無言でその場に立ちつくすしかなかった。


 志乃はそんな綾には我関せず、ただバシルを静かに観察していた。


▼用語


※ ガレージツアー

一般の観客がチームのガレージやピットを見学すること。普段は入ることのできないガレージでレースカーを間近に見たり、車を整備する様子やレースの準備まで観察できる。運がよければあこがれのドライバーと言葉を交わすことも?


※ ガレージ

ピットの奥に配置された車両の整備、準備、修理、データ解析などを行う閉鎖空間。ミーティングが行われるなど、レース中にかけてチームの本拠地としての性格もあるほか、ドライバーやクルーの憩いの場としても重要である。メディア対応が行われることもある。


※ ピット

サーキットから隔絶された専用の解放された空間。レース中はここでタイヤ交換、燃料補給、修理などを行う。ここで行われるタイヤ交換や燃料補給のタイミング、作業にかかった時間で勝敗を大きく分けることも多い。


【次回】

第35話 チームの一員

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