第14話 すべての元凶
夜もこの時間になると、「季節料理 鷹花」はてんてこ舞いの忙しさとなる。千隼が「鷹花」に通い始めてから店が繁盛するようになった、とさとみは冗談めかして感謝を口にした。「千隼は鷹花の招き猫だ」と志乃がからかうと、千隼は照れ、さとみは顔をほころばせて笑った。
そんな忙しい夜。秋も深まりつつある頃だった。
引き戸ががらりと開き、にぎやかな店内にひんやりとした秋風が吹き込む。さとみはいつものように客に声をかけようとした。
「いら——」
さとみの動きが止まった。視線が釘付けになり、瞬間、彼女の表情が硬直する。言葉が喉に詰まり、声が喉元で引きつり、体が動かない。千隼も志乃もすぐにさとみの異変に気づいた。
「お久しぶりです」
そこに立っていたのは、どこか照れたような明るい笑顔を浮かべたOL風の女性。店内に響いた明るい声は、さとみにとって、待ち望んでいた懐かしいものではなく、むしろ心の奥に沈んでいた澱んだ記憶を引きずり出されるようなものだった。彼女が目の前にいるだけで、さとみの心が揺さぶられ、落ち着きを失っていくのが千隼にもわかる。
「
「空いてるところ、座っていい?」
「え、ええ……」
さとみよりほんの少し若そうな遥歌と呼ばれた女性は、カウンターの奥、千隼の隣に座った。
「あ、すみません」
「いえ……」
今この瞬間、さとみの目には遥歌しか映っていない――そのことは、千隼にも志乃にも明白だった。いくら鈍い千隼にも、あの時さとみの瞳を虚ろにさせていた原因がこの女性であることはすぐにわかった。
「えっと、じゃあ、いつもの」
「え、ええ……」
さとみの手は小さく震えていた。彼女がハイボールを作る姿を、千隼は驚いた表情で見つめるばかりだった。一方、千隼の隣に座る志乃は、小さくため息をつき、燗酒をぐいっとあおった。
「はい、ハイボール。レバーフライはすぐ出すからね」
「はーい。ねえ、さとみさん、なんか今日変」
「えっ、そ、そうかな? 久しぶりでびっくりしちゃったからかな?」
引きつった作り笑いを浮かべながら、さとみはレバーフライを皿に乗せる。その動揺ぶりは、千隼や志乃から見ても痛々しいほどだった。しかし、遥歌はそんなさとみの様子に気づく様子もなく、懐かしそうに店内を見回していた。
「うわあ、全然変わってない。伯母さんがいた時のままだね」
「そ、そうね……」
「きっと伯母さんも喜んでると思う」
「ええ……」
遥歌が嬉しそうに店内を見回す様子を見て、千隼の胸には複雑な感情が生まれた。いかにも天真爛漫な遥歌の存在は、自分とはまるで違う。そして、さとみにとって彼女が特別だということが千隼にもわかる。自分はこの場にいてもいいのか。相応しい存在なのか。そんな疑問がふと頭をよぎった。まるで太陽のような遥歌の輝きを浴び、千隼の心にかすかな嫉妬が影となって生まれたが、それがはっきりとした形になる前に、無理やり抑え込んだ。
「でも、さとみさん、本当に変だよ? どうかした?」
無邪気な遥歌の問いかけが、さとみの胸に深く突き刺さる。しばらく言葉が出ず、ようやく絞り出すように声が漏れた。
「だって、遥歌ちゃん、なんだか変わったみたいで」
「あ、そうかも。私、“AGC”に就職したの。ねえ褒めてくれるよね?」
「そう……そうなの……すごいね」
「えへへ、ありがと」
満足げな笑顔を浮かべる遥歌に、さとみの心は揺れ動いていた。遥歌の変貌に戸惑い、心の中で何かが崩れていく。かつての物静かで日本中世史を熱く語っていた遥歌と、目の前にいる自信に満ちて闊達な彼女。その姿がどうしても重ならない。
でも、セミロングをポニーテールに変えた遥歌の顔は、確かにあの頃のままだ。確かに変わっていない。自分は彼女の何に惹かれていたのか? 自問しても、答えは見つからなかった。
ふと、視線を感じた。遥歌の隣に座る千隼が、不安げな目で自分を見つめている。そして、その隣にいる志乃は、少し冷めたような、それでいてどこか寂しそうな目をしていた。
「二人ともお飲み物は? お湯足りてる?」
気まずさを紛らわすように、千隼と志乃に声をかけるさとみ。だが、二人とも先ほど新しい酒もお湯ももらったばかりだった。
「あ、ええ、まだ大丈夫」
「もう、さっきもらったばっかりよ?」
そんな三人のやり取りに、何かに気づいたような表情を浮かべる遥歌。
「あ、新しい常連さん…… ですか?」
「ええ、そう……」
「私はずっと前から来てたけどねえ」
その瞬間、遥歌は椅子をガタッと鳴らして立ち上がり、深々とお辞儀をした。
「これからも、『季節料理 鷹花』ともども花坂さとみをどうかよろしくお願いします!」
「ちょ、ちょっと遥歌ちゃん!」
慌てるさとみをよそに、千隼と志乃がそれぞれ答えを返す。志乃が少しいたずらっぽく微笑む。
「もちろん」
千隼も少し真面目な顔で答える。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「ふふっ、ありがとうございます!」
涼しい顔でお猪口を口に運ぶ志乃、生真面目な表情の千隼、そして満足げな表情で椅子に座った遥歌。
全ての元凶である彼女が戻ってきた。さとみは、三人の間に流れる言葉にできない空気に気づきながらも、ただ困惑し何かに怯えるような視線をめぐらすばかりだった。
▼用語
※AGC:
【架空の法人】
“
【次回】
第15話 千隼の喪失感、さとみの不安
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