第31話 走りだす千隼
千隼がレース復帰の許可を医師からもらったと報告すると、さとみは飛びつくように喜んだ。だが、千隼の胸の中はまだ晴れ切っていなかった。小此木医師の険しい表情と、懸念に満ちた鋭い目が、頭から離れない。
さとみは「お祝い」と称して、千隼が普段手を出せない高級なメニューを次々とサービスし、さらには上等な麦焼酎のボトルまで入れてくれた。そして、「優勝したら、貸し切りでお祝いするから」と、満面の笑みを千隼に向ける。その笑顔が、千隼には眩しかった。
そこに志乃も加わり、千隼と志乃が座るカウンターはちょっとした宴会のような賑やかさになった。烏賊の塩辛と千隼のおすそ分けを肴に、志乃は酔いも回って話があちこちに飛び、ついにはさとみをからかい始める。
「ほんと、あんたも昔から変わんないよね。そんなカッコだから、男子に注目されなくて済んだんでしょ」
からすみをかじりながら言う志乃。
さとみは昔から、くしゃくしゃのショートヘアに丸メガネ、薄いそばかすをメイクで隠そうともしない。痩せぎすの身体に、ファッション性なんて全く意識しないトップスと細いデニムが彼女の定番スタイルだった。
さらに、さとみは中学二年生の頃、「女の人しか好きになれない自分はおかしいんじゃないか」と志乃に相談したことがある。千隼というパートナーを見つけるまで、自分の性的指向に強い引け目を感じていたのだ。それがさとみにいつも暗い影を落としていた。
「うん、そうね。楽だったよ。告白なんてされたことないし、いつも空気みたいな存在だった」
志乃は大げさにため息をつく。
「私なんか、胸ばっかり見られて本当に迷惑。男子にモテたいなんて全然思ってないのに、なんであんなに注目されるのか……。ほんと、うんざり。今まで四人? 五人? 告白されたけど、あいつら私の顔なんか全然見てないの。ずっと胸ばっかり見てたんだから」
どっと笑いが沸き起こる。
「ほんとよね。男子にモテても嬉しくないし、ましてや胸だけモテても意味ないよね」
そのやり取りを聞いて、千隼はふと考えた。
(……あたしも、胸が無いから男子には注目されなかったのか……。それに上背もあったし。でもそれで良かったのかも。胸なんて、レースには邪魔なだけ)
「ああそれで千隼、何やるんだけ? GT? ツーリングカー?」
志乃の話題がくるりと変わった。
「GT3を考えてる」
「へえ、じゃ、グローバルGTアジアチャンピオンシップ?」
「そう。実は来期、女性ドライバーを募集しているところがあって」
千隼は志乃にスマホを見せる。
「へえ『ボルテックス・ラプター・モーター』? これからの新規参入組ね、って代表狭川佳代子じゃない!」
「知ってるんだ」
「私知らない」
不思議そうな顔をする千隼とさとみに、驚きの表情を向ける志乃。
「知ってるも何も。日本女性ドライバーの草分けでしょ。知らない方が意外なんだけど。前橋に本拠を置いてるんだ」
「ここが女性ドライバーを募集してるんだ」
「へえ、ああ、ここドライバーまだいないみたいだもんね。で、二人欲しいのか。女性で固めるのがコンセプトなのね、なるほど。話題作りかしら。これなら千隼の実績があればいけるんじゃない?」
「うん、明日さっそくアポを取ってみるつもり。それと、さとみ、悪いんだけど二階の寝室の隣の小部屋、使ってもいいかな?」
「いいけど、何するの?」
「トレーニング機器を置きたいんだ。エアロバイクとか、トレーニングマシンとか。それに、シミュレーターも」
「そんなに置けるスペースあるかな? 一階の倉庫も使っていいよ」
「ありがとう。助かるよ」
六年以上もレースから離れていた上、カテゴリの違うレースに疎かった千隼に、志乃は閉店間際まで色々とアドバイスをくれる。そんな志乃の表情もどこか吹っ切れた様子だった。
閉店後の後片付けを二人でする千隼とさとみ。二人ともこれから新しい何かが始まるかと思うと胸が躍った。
翌日、千隼は朝一番に接触を開始した。ヴォルテックス・ラプター・モーターに連絡をとると、意外にも向こうは千隼のことを知らないようだった。少しは名が知れていると思っていたのに、自分の実績なんてこんなものか。出だしからつまずいた気がして、千隼は苦笑いを浮かべる。履歴書を送り、今はただ、連絡を待つしかない。
▼用語
※ グローバル・アジアGT
【架空のレース大会】
日本の他シンガポール、インドネシア、マレーシア、中国で開催されるGT3、GT4カテゴリのレース。全十戦二十レース。
※ チーム・ヴォルテックス・ラプター・モーター
【架空の組織】
Team Vortex Raptor Motor(VRM)。ヴォルテックスとは渦や旋風、ラプターとは猛禽のこと。
車体には白と緑と黄色で派手に塗装された両側面にタカの頭部が描かれている。
【次回】
第32話 千隼の挑戦、新しい仲間
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