第17話 血の滴
「あっ」
さとみが小さく声をあげる。手から、僅かながら鮮血がにじみ出ていた。ほんの一瞬、指から伝う血が視界に入ったかと思うと、さとみは後ずさるようにして体が揺れ、厨房の奥へ逃げるようによろけていった。
「さとみ!」
志乃が慌てて腰を上げるよりずっと早く、千隼が厨房に向かい、さとみに駆け寄る。遥歌は、ただ驚いた顔でさとみの背中を目で追うばかりだった。
「救急箱、どこ?」
千隼は冷静に尋ねるが、その声には焦りがにじんでいた。
「そこの、そう、右の棚の上……」
さとみの指示を聞きながら、千隼は棚から救急箱を取り出し、すぐにさとみの手に消毒液を吹きかけた。さとみはじっと千隼の顔を見つめ、動けないままだった。彼女の表情は輝きを失っていて、何かに耐えようとしているように見える。
「大したことない、ちょっと切っただけだから……」
さとみは震える声でそう言ったが、その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるかのようだった。
「でも無理しないで、ちゃんと手当てしないと……」
千隼はさとみの手に優しく絆創膏を巻きつけながら、彼女を見おろした。その表情には、心配と共に、何かもっと複雑な感情が交錯している。自分がそばにいても、さとみを守れなかった無力感が、胸の奥で小さく膨らんでいた。
カウンターから、遥歌の声が飛んでくる。
「さとみさん、大丈夫?」
「大丈夫よ。千隼に任せておけば」
志乃が静かに言うと、遥歌はそれ以上言葉を発さなかった。さとみはただ、黙って千隼の手当てを受けていたが、彼女の心は混乱したまま、そこに茫然と立ち尽くすばかりだった。
「もう大丈夫。大丈夫だから……」
さとみは、自分の手を握る千隼の手を優しく振りほどこうとする。このままこうされていたら頭がおかしくなりそうだった。千隼は衝動的に更にさとみの手を強く握る。二人の指が一瞬絡み合い、だが、どちからともなくほどけた。
「ありがと、ちーちゃん……」
一瞬さとみの目に光が戻ってきた気がしたが、さとみはそのまま千隼から視線を外し厨房へ戻る。
「ごめんね、今日はもうこんなだからお店閉めないと」
「大丈夫ですか?」
「いいじゃない、そんなかすり傷」
さとみは青ざめた顔で志乃の方を向く。
「そういうわけにはいかないのよ、食品衛生法で。明日には出血も止まっているだろうし、また出直してきて。ねっ。それにしても幸い今みんなしかいないし、他のお客さんにご迷惑をおかけしないで良かった」
焦燥した笑顔で懇願されると三人とも何も言えなくなる。千隼が重たい口を開いた。
「じゃあ後片付けだけでも。その指じゃ……」
「あっ、それなら私やりますっ。だめですか?」
勢いよく遥歌がさとみに言う。さとみは疲れた苦笑を浮かべ、二人の提案を拒絶した。
「大丈夫。ゴム手袋するから。だから、今日のところは一人にして…… お願い。」
さとみはエプロンを掴むとうつむいて声を震わせる。理由が判らない遥歌でさえ、そのさとみの姿には胸を痛めた。
「じゃあ、お大事にして下さいね。ちょっと切っただけなんだもの、そんな気に病まないで」
「ありがとう遥歌ちゃん。いつも優しいね」
その時のさとみは本当に泣き出す寸前に見えた。
三人は店を出てそれぞれ帰宅の途に就く。それぞれの思いを胸に抱いて。
【次回】
第18話 消えた千隼
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