第7話 常連客の千隼とさとみの期待

 翌日から千隼は「季節料理 鷹花」にほぼ毎日通うようになった。

 笑顔を絶やさず、調理の際は真顔でまな板やコンロに向かうさとみの、かいがいしく働く姿に、千隼はただ見とれていた。あんなに楽しそうに働く人は、見たことがなかった。

 翻って自分は「楽しんで」働いていたか。望んで飛び込んだライトニングフォーミュラで走っていた頃でさえ、緊張と焦りが常に彼女を支配していた。純粋に走って楽しいと思っていたのはアマチュアの頃だけで、プロになると走る楽しさよりもライバルを蹴落とし、ひとつでも上の順位を目指す文字通りの「競争」が求められる、結果がすべての世界だった。ライトニングフォーミュラで、女性として唯一表彰台に上がったことがある千隼だったが、それでもそこの真ん中にはたどり着けなかった。それが今でも悔しくて仕方がない。もうステアリングを握れない腕になってしまったことを思うと、胸が張り裂けそうだ。その後千隼は仕事を転々としたが、いずれもそんな「楽しみ」とは無縁だった。だからなのか、どこでも長続きはしなかった。あの事故以来人づきあいもうっとおしくなって、すっかり無愛想になってしまったことも関係があったのかも知れない。千隼はいつも孤独だったし、その孤独が、これまでの千隼の友であった。さとみに会うまでは。

 目の前のさとみが、箸で皿に乗せたあんこうの唐揚げを整えた。そしてそれを千隼の前のカウンターに置く。その指の動きに千隼は目が離せない。

 さとみは、おおよそ悔しさとは無縁の笑顔を千隼に向ける。そして他の客にも。自分はただ客の一人でしかないことを思うたび、千隼の胸はなぜかざわついた。身に覚えのない、胸に広がっていく小波さざなみに戸惑いながらも、千隼は今夜もさとみから目が離せない。


「どうかされました?」


 さとみと目が合う。


「あ、いや……」


 千隼は言葉を詰まらせ、さとみから目を逸らして、安い焼酎のお湯割りを口にする。

 さとみが他の客と親し気に話しているのが苦しかった。時折注文を取るさとみの大きな目が千隼を魅了する。そんな目で見つめられると千隼はどぎまぎしてしまい、少し顔を赤らめ、まだ中身が残っているグラスを傾け、一気に飲み干した。


「もう一杯、お願いします」


 さとみの大きな目を一瞬だけ見つめ、千隼は慌ててまた目を逸らす。


 こうして千隼は毎日仕事を終えると可能な限り早く「鷹花」へ向かい、閉店まで居座った。そして閉店間際の、夜更け。最後にいた客が店を出ると、店内にはにぎやかさもすっかり消え、狭い小料理屋には千隼とさとみしかいなくなった。まるで突然エアポケットに落ち込んだような気分が千隼を支配する。二人だけで会話できる数少ない機会なのに、言葉を発するのが躊躇ためらわれる。この沈黙が心地よいのではなく、むしろ気まずかった。だがなぜか千隼は言葉が出なかった。何を言っていいか見当もつかない。こんな時は少し酒癖の悪い他の常連について軽口でも叩けば、あるいは場も和んだのかも知れない。


「静かになりましたね……」


 コンロにかかった鍋の中を突きながらさとみがそうしんみりと口にする。


「え、ええ、そうですね……」


「ちーちゃん、あれから毎日ありがとうございます」


「え、いやそんな……」


 「ちーちゃん」と言われるとそれだけで胸に小さな痛みが走る。この生まれて初めて覚えた痛みが何を意味するのか、千隼にはいまだ見当がつかなかった。だが、さとにみにとって他の常連客、例えば鈴木さんは「すーさん」だし、真太郎さんは「しんちゃん」だった。それと同じと思えば、自分が「ちーちゃん」と呼ばれることにいちいち胸を痛めるのは、なんだか非常に無意味で情けないことであるように千隼には思える。


「でも、どうしてなんですか? こんな店に毎日だなんて…… それももうひと月以上も」


 さとみは豚バラ大根がくつくつと煮える鍋から目を離し、正面の板壁をぼんやりと見つめる。その丸メガネをかけた素朴な横顔になぜか千隼は見とれる。


「え、ええ…… ここはとても美味しいですし、それに……」


「それに?」


 顔を鍋に戻し曖昧な笑みを浮かべるさとみ。千隼はあとが続かなかった。まさかおかみさんの顔が毎日みたいだなんて、なぜだか判らないが言えるわけがなかった。

 少しの沈黙ののち、さとみがつぶやく。


「……そんなんじゃなんだか私、少し期待――」


 さとみの小さな言葉は途中で途切れた。ガラガラと少し乱暴に、木とガラスの古い引き戸が開けられ、三人連れの男性客が入店する。見たことのない顔だ。


【次回】

第8話 さとみ、噴火する

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