第28話 五稜郭タワー、さとみの提案

「ねえ、どうだった? レース観て」


 さとみにそう訊かれ、千隼は少し寂しげに微笑み、答えた。


「どうって…… うん、なんて言うか…… 少しすっきりしたかな。あたしはもうあそこには戻れないんだって、改めて実感できたのは良かったかも」


「そう……」


 さとみは、何か考え込むような顔をしていた。


「どうしたの?」


「えっ? ううん、何でもない何でもない。ほら、そろそろ暗くなってきたし函館山行こう? 私、ここの夜景、ずっと見たかったんだ」


「うんっ」


 暗くなりかけた場所で夜景を眺めながら、千隼はさとみを後ろからそっと抱きしめた。帰りには横丁に行って、ホルモンを少し食べ、後学のために「季節料理 鷹花」そっくりの「富久屋」という和風居酒屋で色々注文した〆に塩ラーメンを食べてホテルに戻る。お風呂でそれぞれ体を温めたあと、二人は一緒にベッドに潜り込み、抱き合って眠った。


 翌朝以降も二人の旅は続く。八幡坂、赤レンガ倉庫、旧イギリス領事館……行きたい場所には事欠かず、二人の旅は瞬く間に過ぎていった。


 最終日の夜は五稜郭へ向かう。昨夜から降り続く春雨はいまだ止まず、千隼が差す相合傘を雨が激しく叩いていた。市電を降りた二人は押し黙ったまま、また相合傘を差して五稜郭へ向かった。冬のような寒さに、二人は思わずため息をついた。息がわずかに白くなっているのに気付く。


 この強い雨の中、五稜郭を歩いてみたいというさとみに、千隼は反対しなかった。なんでも、中学の修学旅行でここを駆けずり回った思い出があったのだとか。千隼は、さとみにとっての大切な思い出を守ってあげたいと思った。遠い記憶に浸りながら笑顔を見せるさとみを、千隼は愛おしげに見つめていた。


 散策を終え、いよいよ五稜郭タワーへ。高いところから見下ろすと、星型にも五角形の組み合わせにも見える不思議な城郭だ。どうしてこんな城が日本にできたのだろうと、二人の興味は尽きなかった。

 千隼が後ろから抱き寄せたさとみが、小さな声でポツリと呟く。


「ねえ、ちーちゃん」


「なに?」


「あのね」


「うん」


「お願いがあるの」


「お願い?」


「そう……」


 しばしの沈黙ののち、さとみはゆっくりと口を開いた。


「ねえ、GTやってみない?」


「GT?」


「うん、GTならできるかもよ」


「どういうこと?」


「F1でザイドリッツってドライバーがいたでしょ」


「ああ」


 ザイドリッツ。ウルリッヒ・ザイドリッツ。もう十二年以上は前の話だろうか。彼もまた自動車事故で右腕を切断したドライバーだ。再接合には成功したものの、ドライビングができるほどに快復はしなかった。所属していたスクアドラ・アリエテは直ちに代替ドライバーを立て、シーズン途中で彼との契約を解除。こうしてザイドリッツはF1界から消えた。自身とよく似た境遇の彼の名前を、千隼はよく覚えていた。


「そのザイドリッツ、おじいちゃんが言ってたんだけど、ドイツ国内のツーリングカーやGTで結構活躍したんだって。年間優勝したこともあったみたい」


「そうなんだ」


「だから、ちーちゃんもライトニングフォーミュラであれだけ活躍できたんだから、ツーリングカーやGTだって、きっとできると思うんだ」


「うん……」


 さとみは、千隼を静かに見つめて問いかけた。


「どうかな?」


「ううん……」


 千隼は少しだけ息をつめる様に考え込んだ後、さとみの目を見る。そして物思いにふけりながら、再び薄暗い雨の五稜郭に視線を落とした。


▼用語

※ 富久屋

拙作「月と影――ジムノペディと夜想曲(https://kakuyomu.jp/works/16817139556270444309)」参照。


※ GT

Granグラン Turismoツーリスモ(イタリア語で『大いなる旅』)」の略。高性能なスポーツカーやもう少しリーズナブルな市販車を改造し性能をアップした改造車で長短様々な距離のレースを行う。中には耐久レースもある。日本でも世界でも盛んにレースが行われている。GT2、GT3、GT4、GT500、GT300に細分化される(GT1は現在廃止)。


※ ツーリングカー

高級なスポーツカーが使われるGTとは違い、一般の市販車を改造して行われるレース。改造もGTほど念入りではなく車体の外観が損なわれることも少ない。レースとしては比較的短距離のものが多い。身近な車のレースということで人気も高い。


【次回】

第29話 這い上がる千隼

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