第49話 予選1・予選2、綾の失態
土曜日の予選1(Q1)は、シルバークラスの綾が担当している。予選はわずか十五分の短期決戦で、この間にどれだけのラップタイムを叩きだしたかによって、土曜日の今日に行われるレース1の出走位置(グリッド)が決まる。
「千隼さん、見ててください。必ず一桁グリッドにして見せますから」
「言うねえ。じゃあ期待してるよ」
綾は千隼に親指を立てて乗車する。相手はブロンズクラスのアマがほとんどだ。今までの経験からしても、敵ではないと綾は思っていた。それだけ自分の高速ドライビングには自信もあった。
ヘルメットをかぶったその目には、千隼への特別な感情をうかがわせる色はもうなかった。若くても彼女もまた、一人のレーサーなのだ。
走ってみるとコースはフリー走行の時とは違い、アイゼンコーナー付近にデブリが散乱していること、湿度や路面温度が上がり、若干スリッピーになっていることを確認する。
しかし、レーサーとはいえ、その未熟さゆえに思わぬトラフィックに序盤から巻き込まれ、三度目のタイムアタックに失敗した瞬間、綾の緊張が一瞬だけ解けた。ふと、トランスポーターでの告白の瞬間が頭をよぎる。あの時千隼にかけられた、「君のことは大切なチームメイトで、友達だと思っている」という言葉が、今でも綾の心に深く突き刺さっていた。
綾はその時、湧き上がる感情を必死に抑えようとしていたが、結局、言葉が口をついて出てしまった。
「友達になんかなりたくないです」
声に出してしまったが、千隼には届かなかった。背後の千隼が「え? なに?」と聞き返してきたが、もう一度言う勇気はなかった。それが良かったのかどうか、いまだにわからない。
気づけば、綾はカーブの入り口、ターンインを見逃していた。慌てて急ハンドルを切るが、予想以上に滑りやすくなった路面のせいで、遠心力に押し出され、マシンは砂地のランオフエリア、グラベルに突っ込んでしまう。焦った綾は、アクセルを強く踏み込み、一刻も早く砂地から抜け出そうと必死になる。しかし、マシンは砂を巻き上げ、ますます深く砂地に沈んでいく。まるでアリジゴクの巣にはまったアリのようだ。震える声で無線で指示を仰ぐ綾に、バシル・チームマネージャーは冷静で無機質な声で、マシンの操作を止め、降車するよう命じた。マシンへのダメージを心配するチームメイトたちの不安げな顔が浮かぶ。レッカー車が手配され、綾は一人、とぼとぼと歩いて避難ルートへと向かう。
結局、綾は二回のタイムアタックで平凡なタイムしか記録できず、予選順位は二十位に終わり、その上マシンに余計なダメージを与えてしまった。芝生の上を歩いて避難ルートへ向かう綾は、自分の失態に悔しさがこみ上げ、目に涙が滲む。これじゃだめだ。こんなんじゃだめだ。自分の想いが他の人たちに迷惑をかけるなんて最低だ。それに、相手に脈なんかまるっきりないのに。そう思うと、さらに涙が溢れてくる。大口を叩いておいて不様な結果を招いた自分のふがいなさに激しい怒りがこみ上げてきた。
「あーっ!」
フェンスに背中をもたれかけ、夏の始まりを感じさせる青空に向かって一言叫ぶ綾の声は、ライバルたちのエキゾーストノートに紛れ、セミの鳴き声とともにかき消されていった。
Q1に続く予選2(Q2)はゴールドクラスの千隼が担当する。ここでもわずか十五分の間に結果を出さなければならない。この短いセッションの結果で、翌日曜日、レース2のグリッドが決まる。目を赤くしてガレージに戻ってきた綾の負担を少しでも和らげてやりたかった。レース1のグリッドが二十番手となった以上、ポイント獲得は非常に困難な状態になった。おそらく不可能だろう。
その分レース2はひとつでも良いグリッドでスタートし、少しでも有利な状況で綾にバトンタッチしたかった。
千隼にとって、こうした短期決戦の駆け引きは緊張感を伴うが、慣れたものだった。タイヤの温度や摩耗、燃料残量によるマシン重量、コース上の混雑状況を的確に把握する。ハヤブサの心臓、OD-S7E1エンジンは徹底的に整備されたことで、千隼の指示に忠実に反応し唸りを上げる。バシル・チームマネージャーや檜葉の指示とアドバイスを、時にはさとみが無線で伝える。千隼は久々にマシンとの一体感を感じた。この喜びは何ものにも代えがたいものだった。ライバルの隙をついて、空いたコースを突き進み、千隼は素晴らしいラップタイムでセッションを終えた。結果は予選七位。今期二番目に良い位置からのスタートになる。
▼用語
※1 ラップタイム:
コースを一周した時のタイム。予選ではこれが早ければ早いほど、決勝で前の位置(グリッド)からスタートできる。
※2 スリッピー:
路面が滑りやすいことを表す表現。路面の滑りやすさは路面温度、湿度、レースの進行具合や微小なタイヤかすなどデブリの存在によって変化してくる。
※ グラベル
砂地のランオフエリアはこう呼ばれる。
【次回】
第50話 レース1・レース2、初表彰台
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