第20話 志乃の審問
どこをどう走ったかも覚えていない。秋も深まりつつある冷たい
突然、正面から誰かにぶつかった。メガネが濡れていたせいで視界がぼやけていて、相手の顔が見えない。逃げようとしたが、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。正面の誰かが両肩を掴んで強く揺さぶる。もう放っておいて――その瞬間、さとみは膝から崩れ落ち、世界が暗くなっていった。
さとみはゆっくり目を開ける。最初に感じたのは、息苦しいほどの圧迫感と温もり。バスタオル、タオルケット、毛布、そして羽毛布団――まるで何層にも重ねられたようにぐるぐる巻きにされている。全身に温かさが広がり、額には汗がにじんでいた。
「……ここ、どこ?」
小さく
「起きた?」
志乃の声はいつも通りだが、どこか柔らかく響いていた。空調の音しか聞こえない部屋に、その声はどこか優しい。
「ここ、私のマンション」
「そうなんだ……」
リビングは広くてシンプル。いかにも志乃らしい。さとみは、「季節料理 鷹花」の二階、六畳二間の雑然とした自分の部屋とは違うその空間に、なんとなく疎外感を覚えた。
「上から下までずぶ濡れだったから、大変だった。まあ、全部脱がしてやっても良かったけど」
「えっ!」
さとみは驚いたように声をあげる。
「冗談よ。カットソーと靴下は今洗濯中だけど、それ以外は自分で脱いで。洗って干しとくから」
「……ごめんなさい」
「なんで謝るのよ」
「だって、こんなことになって……」
「こんなことになって放っておけるわけないでしょ? 別に気にしてないから、あんたも気にしないで」
「でも、お仕事とか……」
「仕事より、あんたの方が大事」
そう言った志乃の言葉に、さとみは一瞬戸惑う。志乃がこんな風に言うのは珍しかった。
「えっ?」
「なんでもない。それより、全部脱ぎなさいよ。濡れたままじゃ、気持ち悪いでしょ。それに風邪ひくよ」
「うん、でも……」
「いいから。脱ぎなって」
志乃は少し強い口調で言いながら、手を差し出す。さとみはその迫力に押され、布団にくるまったまま濡れた服を脱ぎ、志乃に渡した。
「うちの洗濯機、買ったばかりで乾燥も早いからすぐに乾くわよ。ちょっと待ってなさい」
「ありがとう……何から何まで……」
「別に、大したことじゃないでしょ。こんなの、小学校の頃からお互い様だったじゃない」
「うん……そうだね」
さとみは懐かしそうに微笑んだ。志乃は雨の降りしきる窓の外に目を向け、話題を変える。
「コーヒー、飲む? グアテマラ好きだったよね。ミルクはなしで砂糖は二つでいいでしょ?」
「よく覚えてるね……」
「なんでも覚えてるわよ、あんたのことなら」
「……ちょっと嬉しい」
志乃が淹れたコーヒーがソファの前にあるローテーブルに置かれる。さとみは布団にくるまったままカップを手に取り、静かに一口含んだ。
「おいしい…… 久しぶりかも。大学の頃、いつもサークル室で淹れてくれたよね」
「そんなことあったかしら。忘れたわ」
志乃は何事もなかったかのように答えると、向かいのソファに腰を下ろして自分もコーヒーを口にする。すると、志乃の目が鋭くさとみを見つめた。
「で、何があったの?」
「えっ?」
「何かあったから、こんなことになってるんでしょ? それとも、この寒い季節に、気を失うまで雨の中を走り回るのが趣味になったの?」
「……意地悪」
「そうじゃないでしょ。私がいなかったらどうなってたと思う? あんた、倒れたんだからね」
「……」
さとみはカップに視線を落とし、口をつぐんだ。室内には、空調と洗濯機の音だけが響いている。
「……ちーちゃんに、告白されたの。好きだって」
その言葉を聞いた瞬間、志乃の表情がわずかに曇った。
「それで、私…… どうしていいかわからなくなって…… 逃げ出した」
自嘲気味に笑うさとみ
「最低だよね……」
志乃の声が重く響く。
「そうね」
その冷たい返答に、さとみは驚いて体をこわばらせた。
「どうするつもり?」
志乃の問いは、さとみを追い詰めるようなものだった。まるで審問官のような鋭い声がリビングに響く。さとみは何度も頭を振り、ようやく小さな声で答えた。
「……わかんない」
「わかんない?」
「そう…… もう何もかも、わからなくなっちゃって…… 私なんか、消えちゃった方がいいの」
「どうして?」
「だって…… 遥歌ちゃんのことも、ちーちゃんのことも…… 私もう何もかもわかんなくなっちゃって」
混乱し、うなだれて頭を振るさとみを、志乃は冷ややかな目で見つめていた。そして、静かな一言を放った。
「もう、どっちが好きなのかさえ、わかんなくなっちゃったの?」
その一言は、まるで鈍器で後頭部を殴られたかのように、さとみを打ちのめした。コーヒーカップを持つ手が震え、カップとソーサーが小さな音を立てて揺れ始める。
【次回】
第21話 さとみの選択
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