第55話 スタート! そして……
予選1、2、3を終えてVRMの58号車のスターティンググリッドは、三十二台中八番手と上々と言えるものだった。ポールポジションはバレットレーシング71号車の檀野哲二。予選後の夜に行われたトークショーでは余裕の表情をみせていたが、千隼たちVRMの面々はそれとはかかわりなく黙々とマシンの状態を確認し、ぎりぎりまで戦略の策定に余念がなかった。
決勝直前のにわか雨で路面はやや湿っていた。一時は「ウエット宣言」が出されるかと思うほどの強雨が降ったが、それも一瞬にして止み、流れる雲の切れ間から太陽が顔をのぞかせる。八月末の午前八時半の時点で気温29℃、湿度84%、路面温度41℃という環境でレースが開始される。気温と湿度から考えると相当過酷なレースになるのは確実だった。
そして日曜朝九時に決勝が開始される。さとみは白と緑と黄色で彩られ、左胸にハヤブサの刺繍をあしらったチームウエアに身を包み、大型のヘッドホンをしてモニターの画像を他のスタッフと共に固唾を飲んで見守る。
スタートドライバーは千隼。フォーメーションラップでの先頭マーシャルカーがピットに入り、スタートラインのシグナルが緑に変わった。全車一斉にアクセルをふかして一台でも多くのマシンを抜き去ろうと試みる。千隼は巧みなハンドリングとアクセルワークでたちまち二台を抜き去った。モニターを見守るVRMのガレージに歓声がどっとわき上がる。さとみも綾も深月も歓声を上げた。ただ狭川代表とバシル・チームマネージャーの二人だけはいつもと変わらぬ表情でモニターを見つめる。
千隼としては、少しでもいい順位で第一、第二スティントを終え、次の綾に引き継ぎたいと考えていた。一台でも多くオーバーテイクする。千隼は集中した。スーパー銭湯の従業員や「季節料理 鷹花」でのひとときでは決して得られない緊張感と興奮と喜びが千隼の全身を満たしていく。過酷なレースのただ中にあって、それでも千隼は幸せだった。これこそが千隼の幸せだった。それを深く噛みしめる。
さらに一台を抜き去り、五位で第二スティントを終えピットインした千隼は、素早く綾にバトンタッチする。無線で伝えきれなかった路上のコンディションやマシンの状況を、簡単に伝える間にタイヤが素早く交換される。
ピットからガレージに戻ると、手の空いているスタッフたちが歓待する。大きなヘッドホンをつけたさとみが、ドリンクボトルを手渡す。
「さすがね、ちーちゃん。あっという間に表彰圏内」
「まだまだ。レースは終わってみるまで判らないよ」
「えっ?」
マシンのエギゾーストノートで千隼の声は聞こえなかったのだろうか。千隼は声を張って繰り返す。
「レースなんて、終わってみないと分からないもんだよ」
「そっ、そうね。頑張りましょ」
その時千隼は自分の左腕に違和感を感じた。それは単にあの時のクラッシュを思い出したからだけではないような気がする。
さとみは言葉少なだったが、阿吽の呼吸で耳栓とアイマスクを渡し簡易ベッドへと案内して、ミストシステムを稼働させる。二スティントを連続走行したからか、かなり疲労した。何よりこの暑さが堪える。千隼は、レーシングスーツの中に氷水をぶち込みたい衝動を抑え、ごつごつした簡易ベッドに寝転がった。
「ゆっくり休んでね。次の出番までまだまだ時間はあるから」
「うん。ありがと」
千隼はアイマスクと耳栓をしたが、レースの興奮で眠るなんて到底できなかった。三十二台のマシンから響き渡る振動ど観客の歓声やどよめきが千隼の体を震わせる。
それでも気がつくとしばらくうつらうつらしていたようだ。アイマスクを取ると外の景色が一変していた。強い雨が打ち付けている。近寄ってきたさとみと深月に声をかける。
「いつから?」
「雨が降ってて……」
要領を得ないさとみの言葉のあとに深月が続ける。
「そうですね。十分くらい前からですね。綾さん今レインタイヤで走ってます」
タイヤかすや排気煙の匂いのほかに、うっすらとペトリコールが鼻を突く。
「そう…… どう? やれそう?」
「ウエットはまあ普通だと思います。やってみますよ」
深月は頼もしげな顔で言ってのけた。
ライバルたちと同じくらい、いやそれ以上に恐ろしい敵になるかもしれない雨が各チームに襲いかかっていた。
雨のサーキットを見つめながらさとみは不安げな表情を浮かべていた。それはレースの先行きへの不安なのか、それとももっと別の何かが彼女をそうさせているのか、千隼には判りかねた。
▼用語
※ フォーメーションラップ
レーススタート前に行われる周回。エンジンやタイヤを温め、スムーズなスタートを可能にするために行う。
※ マーシャルカー
ここではフォーメーションラップを先導するために運営が用意した車両。
他にもアクシデントが発生した場合の先導車としての「セーフティーカー」、事故の際事故車に駆け付け必要な対応を取る「メディカルカー」、火災が発生した際に対応をする「ファイアテンダーカー」なども含まれる。
※ スティント
スタートから最初のピットインまで、以降はピットアウトから次のピットインの区間を表す。千隼と綾はGT3のレースに慣れていたので二スティントずつ走行し、あまり慣れていない深月は一スティントずつ走行するプランだった。
※ 「簡易ベッドに寝転がった」
連続して百二十分以上走行したドライバーは六十分以上の休息をとることが義務付けられている
※ ペトリコール
雨が降り出した時地面から立ち上る独特の匂い。土壌やアスファルトなど、地面に含まれる化学物質が水分によって拡散したものと、オゾン、エアロゾルなどの香りが入り混じったものとされている。
【次回】
第56話 綾の予言
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます