第56話 綾の予言
雨はすぐ止んだように見えたが、ピット側から見えない西側の部分での降雨は続いていた。そこは低い上に水はけが悪く、いくつかの水たまりを作っており、ドライバーたちを難儀させた。数台のマシンが操作を誤りここでスピンを喫し、後退した。
綾はさしたるトラブルもなく、第二、第三スティントを終わらせてピットインし深月と交代する。綾も疲労困憊といった
雨がすっかり止み、深月がタイヤ交換にピットインしたタイミングで、少し早いが千隼がドライバー交代をする。ちょうど規定走行時間はクリアしていたし、まだ十代の深月では負担が大きいと感じたからだ。順位も六位へと落としていた。千隼はそのまま第五スティントを時間いっぱいまで走り切り、五位のマシンに肉薄したところで、第七スティントを綾に任せる。すっかり元気を取り戻した綾は、難易度は高いが得意の高速コーナー「ストームコーナー」でのオーバーテイクで五位に浮上し、そのまま第七スティントを終える。
第八スティントの深月は無難な走行で順位を堅持していた。空は雲量三の晴れ。天候は安定し、このままレースは終わるだろう、誰もがそう思っていた。そんなとき綾がピットに飛び出し、サーキットの向こうの山々に向かって険しい顔で目を凝らす。
「うーん……」
「どうしたの?」
千隼が訊ねてもすぐには答えず、険しい顔のままの綾は
「これは…… 間違いない……」
あの山に雲がかかるのを見たのは久しぶりだった。だが絶対に来る。何度もこの予兆を見てきたから、間違いない。今までだって一度も外したことはないんだから。綾は、くるっと振り向くと唐突に言った。
「これから大雨が降ってきます! レインタイヤを用意して下さい!」
「えっ」
「雨?」
「レーダーにはそんな雨振らすだけの雲は見えないけど?」
エンジニアたちはあっけにとられた顔で綾に問いかける。
「どうして?」
千隼の問いに綾は真顔で答える。
「
「
「雲……?」
「いやあそんなんじゃタイヤ交換できないね」
「何を言い出すかと思えば」
呆れたようなエンジニアたちの反応に、綾は必死になって自説を貫こうとする。
「ここにもう二十年近く暮らしてきた私の、いや、そのまた祖先の祖先からの言い伝えです。私の経験では的中率は百パーセントなんです。信じて下さい! 嘘じゃありません!」
「レーダーに雨雲なんて全然ないでしょうよ。にわか雨だってないよこれ。それをそんな経験だけじゃなあ…… 根拠になんないよなあ……」
「ほんとなんですってばっ!」
真っ赤になって怒ったような顔になる綾に千隼が声をかける。
「ほんとなんだね」
綾は、必死の表情で大きくうなずいた。その顔には、はっきりとした確信が浮かんでいる。
「わかった」
千隼も大きくうなずくと、さとみに尋ねた。
「あと何分で深月ちゃんは帰ってくる?」
「え、ええと、このままだとあと七分くらい」
「雨はあとどれくらいで降り出す?」
今度は綾に尋ねる。
「え、ええ、早ければあと十分くらいで」
「よし、じゃあレインタイヤを用意して下さい。このタイミングでタイヤ交換しましょう」
「えっ?」
エンジニアたちは目を丸くした。
「あたしは綾ちゃんを信じます」
「だってまだ『ウエット宣言』だって出ていないのに」
「だからですよ。ここでみんなの裏をかけたら大きいでしょう?」
「いや、だって、もし外れたら……」
「外れません」
千隼は言明した。綾の表情に光が差す。
「これはあたしの独断です。責任はあたしが取ります。ですから」
「判った、判りましたよ。全く。いいんですか? バシルさん」
ベトナム人でエンジニアチーフの女性、
「もう、どうなっても知りませんからね。そんな言い伝えを信じるくらいなら、エンジニアより祈祷師でも雇った方がいいんじゃないですかね」
マイは呆れたように言い放つと、ピットクルーに大至急ウエットタイヤの用意をするよう指示した。
「ありがとうございます!」
綾が頭を下げると、千隼は何事もなかったかのように答えた。
「大丈夫。綾ちゃんは間違ってない。あたしは信じてるから」
「はいっ」
思わず泣きそうになる綾。それを遠巻きに見て笑みを浮かべる檜葉。
「全く。男前だあなあ」
その言葉に微笑んで何度もうなずくさとみだった。
▼用語
※ 規定走行時間:
このレースでは1スティントにつき最低でも六十分は走行するように定められている。
【次回】
第57話 雨の導き
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